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第5話:大葉 沙良

 その日、私は自分でも理由の分からない衝動に駆られていた。

 啓介と「友達として繋がる」ことを約束してから、しばらく経っていた。表面上は平静を装っていたけれど、心の奥底ではまだ傷が癒えず、宙ぶらりんのままの日々を過ごしていた。


 ——会える気がする。


 そんな直感のようなものが、その日の朝、胸の中に芽生えていた。啓介が週末になると秋葉原でPCの部品を物色していることを、私は知っていた。彼は最新のパーツやガジェットに目がなく、よく電気街の店をはしごしては、嬉々として戦利品を自慢してきた。

 だから、もしかしたら今日もそこに現れるのではないか。そんな期待を抱いて、私は秋葉原駅近くの小さな喫茶店に入った。


 窓際の席に座り、カップを手にして、ぼんやりと行き交う人々を眺める。

 サラリーマン、買い物袋を抱えた女性、外国人観光客、そしてアニメキャラの袋を提げたオタク風の少年たち。雑多な人の波に、彼の姿を重ねようとしていた。


 ——啓くん。

 心の中でそう呼びかけながら、視線を追い続ける。


 そして——見つけてしまった。


 人混みの中に、確かに彼の姿があった。

 背筋を伸ばし、歩幅の大きな歩き方。少しうつむき加減で、それでも人混みを避けるように器用に進む姿。間違いない。啓介だった。


 だが、私の視線はすぐに彼の隣にいる若い、まるで少女のような女性に吸い寄せられた。


 水色の可愛らしいオーバーコート。

 キレイな髪が光を受けて柔らかく揺れ、瞳は驚くほど真っ直ぐだった。

 彼女は、まるで十代のようなあどけなさを残しながらも、大人びた雰囲気を漂わせていて、啓介に寄り添い、啓介が何を言っても本当に楽しそうに笑っていた。


 美来——。

 彼が選んだ「本当に好きな人」。


 胸が凍りついた。

 言葉では表せないほどの衝撃。息が止まり、体が硬直する。


 彼女は本当に可愛らしい女性だった。

 啓介は基本的に美人以外全く相手にしないという、ルッキズムの権化のような男性だったから、彼女が美貌の持ち主であるのは言うまでもないが、とにかく可愛らしいのだ。

 それは外観だけでなくその立ち居振る舞いに至るまで、とにかく同じ女性である自分から見ても非の打ち所がない程に可愛らしく、そういう女性にありがちの、あざとさの欠片もない、天然の可愛らしさによって構成されている人だった。


 「……ああ、これはもう、私の負けだ」


 心の中で、誰にともなく呟いた。

 友達でいられる間に、もしかすると、啓介は自分のもとに戻ってきてくれる可能性もあるはずだと自分に言い聞かせていたけれど、その瞬間、すべての幻想が音を立てて崩れ去った。


 彼女の横を歩く啓介の顔は、私が知るどの表情よりも穏やかで、幸せそうに見えた。

 軽薄な笑みでも、虚勢を張った笑顔でもない。心から満たされている人間だけが見せる柔らかい笑みだった。そして美来にほんの少しの害意も及ばないように、全体として美来を守ろうという意図ですぐ近くを歩いているのも丸わかりだった。

 私はそんな顔を、そんな立ち居振る舞いを、一度だって引き出せなかった。


 美来は、少し思案するような表情をした後で、自分から自然に啓介の手袖をつまみ、啓介が振り向くと、そのままその手を握った。ごく当たり前のように。


 ——私の手を握ってくれた事など啓介は一度もなかった。


 指先が震えた。カップを持つ手に力が入らず、コーヒーが少しこぼれた。熱さを感じることもなく、ただ視線を窓の外に釘付けにしたまま、動けなかった。


 ——勝てない。

 私は悟った。

 啓介が心から愛せる相手は、私ではなかった。どれだけ許し、どれだけ理解し、どれだけ彼を支えてきたつもりでも、彼が求めていたのは別の人だったのだ。


 その事実は、刃のように胸に突き刺さった。

 悔しさも、嫉妬も、悲しみも、すべてを超えて、ただ「敗北」という言葉だけが残った。


 それでも私は席を立たなかった。

 彼が気づくはずのない窓際の影に身を潜めながら、二人が通り過ぎるのを最後まで見届けた。

 啓介の側に寄り添う美来の姿を、心に焼き付けるように。


 やがて二人は人混みに紛れて、見えなくなった。

 残された私は、冷めたコーヒーをただ見つめていた。

 喉を通らない。胸が痛い。呼吸が浅くなる。


 ——友達でいたい。

 そう口にしたのは、あの時の私の最後の強がりだったのだと、この瞬間ようやく理解した。

 友達なんかでいられるはずがない。私は恋人を失っただけではない。彼との「未来」を失ったのだ。


 それでも私は、彼との約束を破ることはしなかった。

 友達という言葉にすがることでしか、彼との繋がりを保てなかったから。


 窓の外に残る濡れた舗道を見つめながら、私は心の奥でそっと呟いた。

 「——さよなら、啓くん」


 その言葉は、彼には届かない。

 届く必要もない。

 けれど、私の頬には涙が流れていた。

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