第4話:大葉 沙良
啓介から「話がある」と告げられたのは、秋の終わりだった。
その日は珍しく、彼から指定された待ち合わせ場所——大学近くの小さな喫茶店に、私は先に着いていた。窓の外は夕立の名残で濡れていて、街路樹の葉からしずくがまだ落ちていた。
彼が来たときの表情を、私は今でもはっきり覚えている。
普段の軽薄な笑顔ではなかった。少し硬い顔。何かを決心している顔。私はその時点で、嫌な予感を抱いた。
「沙良……すまない」
彼の第一声は、それだけだった。
これまで啓介はそういう言い方をした事がない。
啓介はたとえ自分が悪い場合でも、そういう自分の非というものを安易に認めない人だった。それは屁理屈であっても、彼なりの理屈があって、結局そこで言い争っても仕方がない人だった。啓介は帰国子女で頭が良く、ロジカルに物事を捉えてしまう。だからその理屈において彼がAといえばAだし、BといえばBになるのだ。だから、私は彼を責めた事は一度もないし、必然的に、彼が謝罪するような事はこれまで一度も無かったように思う。
その彼が冒頭から「すまない」と言ったのだ。
胸がざわついた。嫌な予感が確信に変わった。
彼は私に——別れを告げようとしている。
彼は話した。父が再婚すること、その再婚相手に娘がいること、そして——その娘が「美来」という名前であること。
最初は理解が追いつかなかった。父親の再婚と、私たちの関係に何の関係があるのか。
けれど彼が次の言葉を口にした瞬間、私は息を呑んだ。
「……オレは、美来と一緒になる」
頭の中が真っ白になった。
耳で聞いた言葉が、意味を結ぶまでに時間がかかった。
彼が本気で言っているのだと分かったとき、心臓が冷たい手で鷲掴みにされたようだった。
——ああ、この人は、私を選ばなかったんだ。
それまでの一年余り、私は彼にとって「唯一の理解者」だと思っていた。彼の女癖を許し、孤独を埋める役割を果たしてきたのは自分だけだと信じていた。
でも違った。私が思い描いていた特別は、彼にとっては「都合の良い存在」でしかなかった。
そして彼は、本当に心を震わせる相手に出会った途端、迷いなく私を手放したのだ。
悔しかった。
悲しかった。
でも、それ以上に、どうしようもなく虚しかった。
涙をこらえようとしたけれど、視界が滲んだ。
「そう……なんだね」
やっと絞り出せたのは、それだけの言葉だった。
私は問いただすことも責めることもできなかった。
彼を縛らないと決めていたのは、他ならぬ自分だったからだ。
「束縛しないでいい」と思っていた。その選択が、今こうして自分に跳ね返ってきている。
それでも私は、最後に強がった。
「啓くん、ようやく本当に好きな人に出会えたんだね」
微笑もうとした。口角を上げた。
でも声は震えていたと思う。目元も赤くなっていたはずだ。
「……ありがとう、沙良」
彼は小さくそう言った。
私は続けた。
「でも、ね……私、友達ではいたいの。もしできるなら、これからも。今までみたいに、ときどき会って話して……友達としてでいいから、そばにいてほしい」
どうしてそんな言葉が出てきたのか、自分でも分からなかった。
本当は彼を責めたかった。本当は泣き叫びたかった。
だけど、それをしたら本当に彼との繋がりがすべて終わってしまう気がした。
せめて「友達」という形で繋がりを残したい——それが私の最後の必死の抵抗だった。
彼は驚いた顔をして、それからゆっくりと頷いた。
「……分かった。約束する」
その瞬間、胸が締め付けられるように痛んだ。
友達として繋がることは、同時に「恋人ではない」という烙印を自分で押すことでもあった。
私は、自分で自分を切り捨てたのだ。
その夜、帰り道、街灯の下で涙が止まらなかった。
彼が去ってしまった現実が、どうしても受け入れられなかった。
「特別」だと思っていた時間が、実は脆く、あっさり壊れるものだったことに気づいてしまったから。
それでも、私は「友達」という言葉にすがった。
たとえ恋人でなくても、彼の人生から完全に消えることだけは耐えられなかった。
——それが、のちに私の人生をさらに複雑にしていくとも知らずに。