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第3話:広瀬 啓介

 母が亡くなってからの家は、静かすぎた。

 父と二人きりの食卓。父はオレが不調法な分、食事の準備も全部してくれる人だった。白い湯気の立つ味噌汁の向こうに、少し寂しそうな父の顔。テレビをつければ音はあるけれど、それは沈黙を覆い隠すための雑音でしかなかった。


 オレと年齢が離れた姉はとっくに結婚して家を出ていたから、残されたのはオレと父。

 父はグローバル企業に勤務し、既に役員待遇だった為、朝は早めに出かけ、夜は遅くに帰ってきた。仕事から戻ると、台所に立ち、手際よく夕食を作る。まるで化学の実験みたいなものだと父はよく言っていた。そして配膳する。しかし、その背中は、母が生きていた頃とはまるで別人のように小さく見えた。

 オレはその姿を見ながら、「人間はあっけなく変わる」と思っていた。母を失った喪失感を、父は仕事と家事に押し込めるようにしてオレの為に耐えてくれていた。


 オレもまた、母の死をきっかけに「先のことを考えない」生き方を強めていた。

 未来は脆い。幸せは壊れる。だったら、今この瞬間を食い尽くしてやろう——。

 その考え方は、女遊びを繰り返すオレの刹那主義と完全に一致していた。


 そんな父が、オレの大学四年の夏、再婚すると言い出した。

 

 オレは春先には既に複数の企業の内定を獲得していた。そういう事にはオレは昔から長けていたから、あっさりと就職先を決める事が出来たのだ。オレが自立する目処がついたので、ようやく自身の今後の先行きを考え始めたのだろう。

 正直驚きはしたが、父の孤独な姿を見てきたから、オレはむしろ積極的に応援した。高齢になってからの再婚の難しさを懸念する姉を、逆に説得したのはオレの方だった。


 再婚相手は、父より一回り年下の自由闊達なイメージの女性だった。彼女自身は夫と離別しており、長男と長女の2人を育ててきたらしい。その長女の方が「美来みらい」だった。


 初めて顔を合わせたときの衝撃を、今も覚えている。

 最寄り駅のターミナル付近で、父に紹介され、少し後ろから現れた彼女。

 白いブラウスに薄いカーディガン、まるで十代のようなあどけなさを残しながらも、すでに大人びた雰囲気を纏っていた。オレより3歳年下。美しい髪は陽に透けて柔らかく揺れ、瞳は驚くほど真っ直ぐで澄んでいた。


 その瞬間、オレは思った。

 ——やっと、本当に愛せる相手にオレは出会ってしまったのだ。


 心臓が跳ねるように鳴った。今までの女遊びなんて一瞬で色褪せるほどの衝撃だった。

 軽口も出なかった。ただ、黙って見つめるしかなかった。


 けれど同時に理解していた。

 彼女は父の再婚相手の娘。つまり、形式上は「義理の妹」になる存在だということを。

 世間的に見れば、絶対に許されない関係という事になりかねない。理性がそう告げていた。


 それでも、オレの心は止まらなかった。

 沙良と一緒にいる時間がどれだけ楽しくても、胸の奥に「美来」の笑顔が焼き付いて離れなかった。


 沙良のことを嫌いになったわけではない。むしろ、彼女はオレにとって居心地の良い存在だった。オレの女癖を知りながらも責めず、束縛せず、ただそばにいてくれる。

 でも、美来に会ってしまった以上、その存在は沙良とはもう全然別格だった。

 彼女こそ「唯一無二」になり得る相手だと、本能が告げていた。


 オレはこういう事は絶対に間違えない自信があった。自分の人生にとって一番大切なものをオレはもう見つけてしまった以上は、義妹関係であれ、何であれ、それは全部、所詮は夾雑物のようなものだ。人生に失敗するヤツはこの夾雑物に囚われて、判断ミスをする。でもオレはそういうミスとは絶対に無縁な人間になれるようには自分を鍛えてきていた。


 だから結論だけは決まっていた。

 オレはすべてを投げ打っても美来を選ぶと決めていた。

 美来はオレとの義兄・義妹関係もあって、相当なためらいがあったと思う。でも嫌がらずにオレのアプローチを受け入れてくれた。


——オレの人生で、初めて「未来を描きたい」と思える相手に出会ったのだ。


 オレ達はそう時間をかける事なく愛し合うようになった。そしてオレは父と義母にオレと美来との関係を正直に告白し、これは真面目な付き合いである事や、結婚する覚悟である事も告げ、ようやく理解を得たのだった。


 オレは元来「結婚」などとは無縁な男だと自分を思っていた。

 しかしもうオレは美来を妻として人生を歩む事だけは自分の中で決定していた。

 そして美来は笑顔でオレの求めに応じてくれる女性だった。

 美来はオレの恋人であり、妻であり、母にもなってくれる女性だったのだ。年下にも関わらず、オレをいつも甘やかしてくれる美来の存在のおかげで、オレの中の『乾き』は全く消失した。オレの無軌道な時間は終わったのだ。


 それは同時に、沙良との関係に終止符を打つことを意味していた。

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