第2話:大葉 沙良
大学の図書館というのは、私にとっては避難所のような場所だった。
講義と講義の合間、食堂で友人たちとおしゃべりをするよりも、分厚い本を抱えて静かな机に向かう方が落ち着いた。子どもの頃からそうだった。賑やかな輪に混じるのは苦手で、相手の顔色を伺いながら話題を合わせるよりも、自分のペースで活字の世界に潜り込んでいる方が、余程心が安らいだ。
その日もそうだった。午後の柔らかな陽射しが差し込む窓際で、私は洋書を膝に開いていた。大学の授業で指定された参考文献ではあったけれど、正直なところ半分も理解できていなかった。ただ、紙の匂いと、そこに並ぶ未知の言葉に触れているだけで、どこか安心する気がしていた。
不意に、背後から声がした。
「その本、難しくない?」
顔を上げると、背の高い男の子が立っていた。広瀬啓介。名前くらいは知っていた。学部でも目立つ存在で、頭の良さは抜きん出ていて、よく言えば社交的、悪く言えば女癖の悪さで有名だった。友人からも「広瀬には気をつけろ」と何度も忠告されていた。
——なのに、私は笑ってしまった。
「ええ。でも、面白いわよ」
それだけ言って視線を本に戻した。会話を終わらせるつもりだった。
けれど、それからというもの、彼は何度も私に話しかけてきた。
「沙良、次の講義、一緒に行かない?」
「お腹すかない? 生協、行こうぜ」
いつも軽い調子で、断ってもめげる様子がなかった。
私は彼を拒絶しなかった。むしろ心のどこかで、そんな彼に救われていたのかもしれない。
——彼は私を束縛しようとしない。
それが私にとって、何よりも心地よいことだった。
広瀬啓介は、他の男子学生たちと違っていた。
普通なら、女の子に言い寄るときには「彼女になってほしい」とか「特別だよ」とか、そこに束縛を予告するような言葉をかけてくる。でも彼は違った。彼はただ一緒にいて笑って、くだらない話をして、時には愚痴をこぼす。それだけだった。
彼は、私を所有しようとしなかった。だから私は、彼の隣にいても窮屈さを感じなかった。
もちろん、彼が他の女の子とも遊んでいることは知っていた。噂は常に耳に入ってきたし、実際に見かけたこともある。夜、駅前の居酒屋から出てくる彼と、見知らぬ女の子の笑い声。
胸がちくりと痛んだ。でも、その痛みは私が耐えられないほど大きなものではなかった。むしろ、「ああ、やっぱりね」と納得してしまうような感覚だった。
なぜなら私は、彼に「誠実さ」なんて最初から期待していなかったからだ。
彼は自由で、刹那的で、どこか寂しそうで。そういう彼に、私は不思議と惹かれていた。
付き合い始めてからも、私たちの関係は軽やかだった。
図書館で一緒に本を読む。学食で並んで昼食をとる。帰り道、夜風に吹かれながらキャンパスを歩く。ときどき彼の冗談に笑って、ときどき真剣な顔で話を聞いて。それから彼はたまに私の部屋に来て、私は膝枕をする。そして求められば体を重ねるようになった。
「啓くんは、いつも笑ってるんだね」
そう言ったとき、彼は少しだけ寂しそうに笑った。私は、その表情が忘れられない。
——彼は、きっと孤独なんだ。
そう気づいた瞬間、私は彼を放っておけなくなった。
だから、彼が別の女の子に手を出しても、私は見て見ぬふりをした。
彼が求めているのは、束縛でも独占でもなく、ただ「自分を許してくれる誰か」なのだと分かっていたから。
私はその役割を引き受けることにした。たとえ都合の良い女だと思われても、それでいいとすら思った。
彼はまるで喉が渇くと水を飲むように、定期的に女の子に手を出し、1回か2回で飽きてしまう。女の子は一度体を許せば、あとは彼を束縛しようとした。彼にとっては駅の自販機で缶コーヒーを飲む程度の行為なのに、それを理解出来ない女の子達。
だから、時には私が彼の側に一緒に佇み、それで相手の子に諦めてもらえるように協力もした。そういう時に限って、彼は私の部屋まで来る。彼は相手の女の子以上に傷ついていたのかも知れない。だから私は自分の体で彼を慰めた。
気がつけば、一年が経っていた。
これまでの彼なら、すぐに飽きて別れていたはずだ。それでも、私たちは一緒にいた。
——この人は、私にとって特別なのかもしれない。
そう思い始めていた。
私は少しだけ彼との関係性に期待を抱いていた。
彼は私に単なる女としての相手を求めているだけでなく、母性を求めていた。
でもそれを過度に私には強要しない。束縛をしない。そして優しく抱いてくれる。
彼もまた、自由に生きることをやめない。束縛を拒み、未来を描こうとしない。そういう人なのだ。
彼の中の満たされない部分が、彼に『乾き』を訴える。すると彼は女漁りをするのだ。でもそれは浮気でも何でもない。だから私のもとに戻ってくる。戻ってくれれば全然構わない。風俗に行って解消するようなものだ。彼はモテるから、金を払う必要がないだけだ。
だから私は、彼と一緒にいることを選んだ。
この人の隣にいられる今が欲しかった。そしてその先に一緒にずっといられる未来が来ると少しだけ願っていた。