第1話:広瀬 啓介
「広瀬、お前また彼女変わったのか?」
大学のキャンパスに吹き抜ける春の風の中で、友人に冷やかされる声を背中で受けながら、オレは軽く笑ってごまかした。
そう、オレはもう、随分昔からそういう男だった。
中学の頃から、女の子と付き合うことには抵抗はなかった。大体オレははじめて女性というものを知った時、その相手は教育実習で来ていた女子大生だった。強引にアプローチして、上手くデートに持ち込み、言葉巧みにそのまま相手の部屋に入り込む。そのうち、飽きてくる。飽きてくるともう女というのは面倒くさい存在だ。下手を打てば修羅場となるから上手く言い訳をして距離を空ける。そして時間がある程度経過したところで別れ話をキレイに持ちかけ、相手が諦めてくれるように着地させる。
そしてまた、新しい誰か、別の女の子にアプローチするのだ。
雰囲気イケメンというのだろうか、昔から不思議とモテた。そしてアプローチする相手から少し笑いかけられただけで上手く関係性を深め、タイミングを見計らって口説き落とす。ほぼその対象の全てからOKの返答を取りつけ、体の関係まで持っていき、そしてすぐに飽きる。自分の中に根付いていた「下衆な浅さ」というものを、他ならぬ自分自身が一番よく分かっていた。
長続きした試しがない。二週間、長くても一ヶ月。相手と関係してしまえば、2回か3回で、今度は如何にキレイに別れるのか、そういうフェーズに入ってしまう。それ以上に興味が継続するような相手はまず現れなかった。
――女なんてオレからすれば面倒くさい生き物だ。
十代の健全な男性として、自分が持っている性的ポテンシャルを十全に発揮してみたいという極めて利己的な欲求に身を任せていただけだったのだろう。そしてそういう利己的なオレの姿を大概は上手く隠し通した。もちろん破綻するケースもあって、そういう場面では間違いなく修羅場となる。
「最低ヤリチン」なんて陰で言われているのも知っていたが、気にしたことはなかった。むしろそれを武器にして生きていた。
女というのは不思議な生き物で、その一定数が、オレのような「最低ヤリチン」に惹かれる要素がある。するとこちら側から積極アプローチするまでもなく、向こうから寄って来て目的は簡単に成就する。そして期待に答えるように最低な別れ話が繰り返される訳だ。
——オレの人生は、刹那の積み重ねだ。
そう思っていた。
先のことを考えるなんて馬鹿らしい。明日死ぬかもしれないのに、どうして真剣に一人の女と未来を描く必要がある?
そんな冷めた思いが、十代の頃のオレを支配していた。
もっとも、それは母の死も影響していたのかもしれない。
高校の時、母は突然病に倒れ、あっという間にこの世を去った。まだ若すぎた母の死は、父とオレをぽっかりとした孤独の穴に置き去りにした。
父は母が亡くなってからは、しばらく寡黙になってしまった。姉は母が在命中に結婚して家を出ているので、残るオレが独立するまでは養う必要がある。だから涙を見せることもなく、ただ淡々と仕事に行き、黙って夕飯を作り、それを二人で食べ、黙って布団に入った。
亡くなった母を思い出す時、オレは「人生は儚い」という現実を学んだ。
だったら、一瞬の快楽でもいいから、今を掴まなきゃ損だ。——そう考えるようになったのだ。
大学に進学してからも、その習慣は変わらなかった。
新歓コンパで知り合った女の子、同じゼミの後輩、バイト先の同僚。次から次へと付き合っては簡単にお手つきし、すぐに別れ、名前すら忘れるような相手もいた。というよりも、名前を覚える暇を作らないようにしていたといった方が良い。
「広瀬くんって、いつも笑ってるよね」
そう言われることも多かったが、実際には笑顔の裏に冷えた諦めを隠していただけだ。オレにとって恋愛は遊びであり、体を重ねて一時の性欲を満たし、あとはキレイに別れるというゲームに興じる手段でしかなかった。
だが、そんなオレを変えたのが——沙良との出会いだった。
初めて彼女を見たのは、学内の図書館だった。
春の午後、窓から差し込む陽光の下で、沙良は分厚い洋書を膝に広げ、静かにページをめくっていた。長い髪が肩に流れ、光を受けて柔らかく揺れていた。その横顔は凛としていて、媚びもなければ隙もない。
オレは思わず足を止めた。
「なんだ、この子は」
そう思った。オレが知っているどの女とも違う。軽く誘えば笑ってついてくるようなタイプではない。むしろ、近づくこと自体が場違いな気がするほどだった。
だが、そんな彼女に声をかけたのは、結局オレだった。
「その本、難しくない?」
ありきたりな台詞。だけど彼女は顔を上げ、驚くほど澄んだ目でオレを見返した。
「ええ。でも、面白いわよ」
それだけを言って、またページに視線を戻す。その素っ気なさが、逆にオレを惹きつけた。
それからのオレは、これまでの自分らしくなかった。
彼女の笑顔を引き出したくて、何度も声をかけ、同じ講義を受けている際は、なるべく隣に座るようにして、やがて食事に誘い出すようになった。
沙良は、オレの軽さを責めなかった。オレが女癖の悪さを自虐気味に話しても、彼女はただ「そう」と笑って流した。束縛しようともしない。いやむしろ、そういう噂を既に友人達から聞いていたらしいし、広瀬は止めておけと警告する人も多かったと後で聞いた。
けれどとにかく沙良はオレを束縛しようとはしなかった。
その懐の広さが、オレには居心地よかった。
気がつけば、オレは彼女のそばに長く居続けていた。
最初は「どうせすぐに飽きる」と思っていたのに、気づけば一年以上も一緒にいた。
——沙良は、オレのどうしようもない不純さを許してくれる唯一の存在だった。
沙良と付き合っている間でも、オレの女漁りは断続的にあった。合コンに誘われれば喜んで行き、そこで手頃な女をお持ち帰りして、翌日にはもう別れていた。繰り返されるワンナイトラブ。いやもうそこにはラブは無かった。
それを沙良は理解していた。そして許してくれた。というよりも見て見ぬふりをしてくれた。ある程度のオレの乾きを癒やして慰めてくれる存在。オレにとって都合の良い女だった。
だが、同時にオレは分かっていた。
彼女と未来を描くことはないだろう、と。
オレは所詮、浅く利己的な人間だ。ひとつの愛に縛られることもできなければ、責任を背負う覚悟もない。
そんな自分の不誠実さを、オレ自身が一番よく知っていた。
それでも、沙良と過ごす時間は確かに楽しかった。
図書館で本を読み合い、学食でくだらない話をし、夜のキャンパスを歩きながら、彼女の笑い声に耳を傾ける。たまに膝枕をさせて、そのうち服を脱がす。沙良は文句を言わずにオレの求めに応じてくれた。
その何気ない日々が、オレにとっては初めて「長く続く関係」だった。
——ただの遊びのはずだった。
だけど、沙良と過ごした時間だけは、オレの心に確かな跡を残していた。