プロローグ:藤沢 詩織
春の陽射しが、窓ガラス越しにやわらかく差し込んでくる。まだ肌寒さの残る四月、校舎の廊下を吹き抜ける風は少し冷たいのに、光だけはまるで夏を先取りしたかのように明るくて、教室の中に差し込んだ影を鮮やかに描き出していた。
その光景を眺めながら、私はいつも心の奥に沈めてきた記憶を呼び覚ます。
——年に一度だけ会える、私だけの「パパ」と過ごす金曜日の夜のことを。
普通の子なら、父親と誕生日を祝うのは当たり前のことだろう。だけど私にとっては、その当たり前が少し形を変えて存在していた。父と母と弟たちと過ごす家庭の誕生日お祝いとは別に、もうひとつの「特別な誕生日お祝い」が存在していたのだ。
それは、母と、そして「パパ」と三人で過ごす小さな宴。照明が落とされたレストランの片隅、グラスの水面がきらめくテーブル、白い皿に盛られた少し大人びた料理。私はまだ幼いのに、その空間だけは背伸びをして大人の世界に足を踏み入れたような気持ちで胸を高鳴らせていた。
「欲しいものは何かないかな?」
そう問いかける彼の声は、私の日常とは少し違う響きを持っていた。低くて、けれど温かく、まるで秘密を共有する仲間にだけ許された声色のようで、私はその度に小さな胸を誇らしく思った。
毎年、誕生日直前の金曜日。どんなに忙しくても、パパは必ず現れた。遅れてもいい、深夜に近い時間になってもいい。約束だけは、決して破られることがなかった。
会社で重要な会議があったとか、海外出張から帰ってきたばかりだとか、母が後から説明してくれる理由はいつも大人の事情に満ちていたけれど、そんなことは関係なかった。予め予約されたレストランの扉を開けて彼が姿を現す、その瞬間の胸の高鳴りが、私にとって一年で最も特別な瞬間だった。
小さな手で抱えきれないほどの包装紙に包まれた箱。その中身は、私が「欲しい」と事前伝えたものに違いなかった。まるで魔法のように、願ったものがそのまま目の前に現れる。
私は紙を破るたびに、子どもらしい歓声をあげながら、同時に胸の奥に生まれる不思議な温もりに気づいていた。——ああ、私のことをこんなにも大切に思ってくれる人がいるんだ、と。
学校の友達に「誕生日プレゼントもらった?」と聞かれても、私は決してこの話をしたことはない。弟たちにすら言わなかった。これは母と私とパパだけの秘密であり、誰にも触れられてはいけない神聖な時間だったから。
子どもながらに、それを口に出せばすべてが壊れてしまうことを本能で分かっていたのだろう。
パパと過ごす時間はいつも短かった。長くても二時間、時には一時間足らずで「じゃあ、また来年」と別れを告げられた。
子どもにとって一年はとてつもなく長い。別れ際に泣きそうになっても、母の手を強く握りしめ、私は必死に涙を堪えた。泣いてしまえばパパを困らせる気がしたし、母も悲しむ気がしたから。
だから私は笑った。何度も「ありがとう」と言って、手を振って、その背中を見送った。
……その背中は、父——亮の背中とはまるで違っていた。
父と呼ぶべき人の背中はどこか重苦しく、職務や責任といった硬い殻に覆われているように見えた。けれどパパの背中は、不思議なことに、孤独を抱えながらも軽やかで、どこか少年のように自由な匂いがした。
「パパって、いったい誰なんだろう」
そう思うようになったのは、小学校の中学年を過ぎた頃だった。
血の繋がりなんて考えたこともなかった私にとって、その疑問は雷に打たれるように突然芽生えた。けれど問いを口にすることはなかった。怖かったからだ。答えを知ってしまえば、この大切な時間が失われるのではないかと、心のどこかで怯えていたのだ。
今思えば、あの頃から私は二つの世界を生きていた。
表の世界では、父と母と弟たちと一緒に過ごす「藤沢詩織」としての私。
裏の世界では、年に一度の誕生日にだけ「パパ」と過ごす、ママと私だけの秘密を抱えた私。
二つの世界の間を行き来しながら、私は少しずつ成長していった。
——そして今、高校生になった私は、改めて思う。
あの人は、確かに私の父ではない。けれど、血の繋がりなんてどうでもいい。
私にとってパパは、もう一人の大切なお父さんなのだ、と。
私は、弟たちと違う。
それを意識し始めたのは、小学校高学年の頃だった。
弟の亮一も、良二も、どこか父に似ていた。
輪郭の整った顔立ちや、感情をあまり表に出さないところ、几帳面すぎるほど几帳面な性格。食卓で父が口を開けば、弟たちは素直に耳を傾け、時に頷き、時に真似をするように笑った。
けれど私は、そこに混じることができなかった。父の言葉に心が触れない。注意されたら表面上は「はい」と答えるけれど、どこかで距離を置いてしまう自分がいた。
母は「詩織は理屈っぽいところがあるのね」と笑っていた。算数や理科の問題に夢中になってノートを埋め尽くす私を見て、「亮一や良二とは違うね」と、時折目を細めてつぶやいた。
その視線には優しさがあった。けれどその奥に、言葉にされない影が潜んでいることを、私は子ども心にも感じ取っていた。
そして、私は感じてしまうのだ。
自分の中に流れている何かが、きっと父や弟たちと違うのではないか、ということを。
パパと過ごす誕生日の夜、その違いはより鮮明になった。
パパの話すことは、私の中にすっと染み込んでいった。
「人を簡単に信じちゃいけないよ」
「勉強より大事なのは、まずは自分自身で考えること」
「間違ってもいいから、自分の言葉で話せるようになろう」
彼が口にする一言一言は、まるで私の心の奥に最初から用意されていた答えを照らし出すようで、私は頷きながら「そうだ」と思った。
——この感覚、どこかで知っている。
彼と私の思考の癖は似ていた。視線の動かし方、声の抑揚、時折見せる不器用な優しさ。どれも私自身を映す鏡のように感じられた。
父と私は違う。
パパと私は似ている。
その事実に気づいてしまったとき、胸の奥に熱が走った。嬉しさと、戸惑いと、そして言いようのない不安が入り混じった熱。
——もし、パパが本当の父だったら。
その思いは、いつしか心の中で消えない炎となって燃え続けた。
だが同時に、私は恐れていた。
もし母に「本当のことを教えて」と尋ねたら、母はどう答えるだろう。
きっと目を伏せて、悲しそうに微笑むだろう。あるいは怒って口を閉ざすかもしれない。どちらにせよ、その瞬間に今の関係が壊れてしまうような気がして、私は何も聞けなかった。
秘密を抱えることは苦しい。けれどその苦しさ以上に、秘密を壊してしまうことの方が怖かった。
だから私は沈黙を選んだ。母にも、弟たちにも、そしてパパにも口に出すことはなかった。
窓の外に広がる景色を見つめる。
春風に揺れる桜の花びらが舞い落ちる校庭。その中で、私は無意識にパパの姿を探していた。
遠くからでも分かるはずだと思った。あの背筋の伸びた歩き方、少し不器用に笑う口元。人ごみの中に紛れても、きっと私の目は彼を見つけ出せる。そう確信していた。
——パパは、本当は誰なの?
心の中で何度も問いかけては、唇まで上がった言葉を飲み込んだ。
言えない。まだ言ってはいけない。
でも、いつか必ず聞かなくてはいけない日が来る。
その予感は、十代になった今、日ごとに大きく膨らんでいる。