光を再び
喜怒哀楽の全ての感情が真っ黒な濁流となって流れ込み、テレビのリモコンを出鱈目に押したように記憶にない景色が次々に切り替わって脳内を駆け巡る。
情報の濁流に飲まれ、自分の輪郭が徐々に崩れていき、記憶と感情が流れ出ていく。俺に再び立つ力をくれた大切な友人と先輩。罪の意識に苛まれ泥のように過ごした時間。人生最大の幸福を感じた誕生日。仲間を得た喜びと友への嫉妬で揺らぐ日々。逆再生のように新しい記憶から順に引っ張り出されては、当時の感情を乗せたまま遠くへ行って、見えなくなる。
ステラの微笑みが見えた瞬間に、俺は反射的に手を伸ばした。しかし、それを繋ぎ止めることは叶わず、次の瞬間にはその笑顔がどんなだったか思い出せなくなり、その直後には何に向かって手を伸ばしていたのかもわからなくなった。
ゴミ収集箱の中にいた誰かの顔が剥がれて飛んでいった瞬間、栓を抜いたように、記憶が勢いを増して流れ出ていった。
母さんと過ごした日々。そこで受けた言葉が外へと流れ出ていく度に痛みが走ったが、身体は軽くなっていった。きっと記憶や感情にも質量があるのだろう。
気がついたらぼくは星空の下にいた。
芝生の布団にブルーシートを敷いて寝そべるのは、とても気持ちいい。何か考え事をしていたような気がするけども、忘れてしまった。今は目の前に広がる美しい光をただ眺めていたい。
あの星の海をいつかきっと泳ぐんだ。将来の夢は宇宙飛行士。たくさん勉強しないといけない難しい夢だけど、必ず叶えてみせる。お父さんも、お母さんも、ぼくならできるって言ってくれたんだから。
そうだ、宇宙飛行士になりたいと流れ星にお願いしよう。前はあわててお願いできなかったけど、今度は大丈夫……あれ、前っていつのことだろう? 思い出せないけど……まあいいか!
あっ、待って! いかないでよ。そんなに早く消えちゃお願いできないよ。
流れ星様、お願いします。今度はもっと強く光って、ゆっくり流れてください。お願いします。お願いします。
ぼくが願うと、まるでその声が届いたように、信じられないほどきれいな光が夜空をゆったりと流れた。
他の星の光を掻き消し、圧倒的な存在感を持って夜空を割くその光の球に、自然と身体は吸い寄せられ、無意識に手を伸ばしていた。
そして、叫ぶ。
「ステラ!」
その名を口にした瞬間、身体がカッと熱くなった。
流れ出ていった全てが、激流となって戻り、身体は重さと熱を増していく。
痛い。辛い。けれど、これでいい。これがいい。
喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも、全部ぜんぶ大切なんだ。
これがぼくだ、これが俺だ。
消しちゃいけない。忘れちゃいけない。
嫉妬も、後悔も、懺悔も、欲望も、あっていいんだ。それも自分だ。それが人間だ。
負けてたまるか、消えてたまるか。
俺にはやらないといけないことがある。会わないといけない人がいる。
蘇ってくる記憶の中から、温かい光をあつめて、彼女の像を結ぶ。
そうだ。彼女は――ステラはここにいる。
光を集めて形作った小さな身体を、力一杯に抱きしめた。
「ステラ。ここにいたのか。見つけるの遅くなってごめん」
「レンなら見つけてくれると信じてた」
「俺は君に酷いことをした。本当にごめん」
「大丈夫。ワタシはレンの中で見てきた。レンの気持ちは知ってる。だから、謝るなら、あっちのワタシだ」
「そうだね、君を取り戻さないと。だから、力を貸してくれる? どうしても君の力が必要なんだ」
「当たり前だ」
「ありがとう……ステラ、俺は君のこと――」
「だから、それはあっちのワタシに言え」
ステラは悪戯っぽい笑顔で俺の口を手で塞いだ後、その手を背に回して目を閉じた。
不思議と緊張はしなかった。真っ白に澄んだ心のまま、ステラの頬を撫で、そっと口づけた。
すると、ステラは光となって俺の身体の中へと溶けていった。
力が漲る。喜びと勇気が胸を満たす。
そして、空気を肺一杯に吸い込み、声を轟かせた。
「うおおおおおおおおおお!!」
俺を押しつぶそうとする天王寺の濁流を、全力で押し返した。
目を覚ました瞬間に見えたのは、驚愕して目を見開く天王寺の顔だった。
「なんだ、この力は!?」
その阿保面に、振りかぶった拳を叩きつけると、天王寺の身体は宙を舞った。
すかさず、水槽の中で待つステラへと、駆けだした。
これは、ステラが貸してくれた力だ。
あの夜、彼女を突き飛ばしたときにこぼれた涙の一滴が、俺の中へと溶けた。その瞬間に、ステラのかけらが俺の中に混ざったのだ。
俺は心の奥底で俺を支えようとしていた彼女の存在に、ずっと気づかずに過ごしてきた。
でも、今はわかる。俺の中に、温かな光を感じる。無限に力が湧き上がる。
天王寺の分身が俺に向かって一斉に飛び掛かってきたが、攻撃がスローモーションのように見えて、容易に躱すことができた。
どの筋肉に力を入れれば効率が良いのか、はっきりとわかる。最短の歩数で水槽の目の前へと跳び、再び大きく右腕を振りかぶった。
かつて、俺を守ろうとして拳を振るった少女がいた。彼女のために今度は俺が拳を振るうのだ。分厚い水槽は、人の手では壊せそうにない。ならば、人であることを止めれば良いのだ。右手の皮に甲殻を纏い、全身の筋肉を殴ることに特化した配置に動かした――そして、全てを注ぎ込んだ一撃が水槽を砕く。
水飛沫の中を落下する銀色の塊の下へ、腕を伸ばした。
指先が銀色の表面に触れた瞬間に、眩い光があたりを包む。
そよ風が吹き、あらゆる不安が飛んでいく。
光が止んだとき、俺は純白のドレスを纏った少女を抱きかかえていた。
「レ、ン……?」
「お待たせ、ステラ」




