悪夢を訪ねて
「少年、コーヒーは好きか?」
心地よい低さの、大人の女性らしい声。
歩夢は咄嗟に声が出ずに頷くしかなかった。
童貞のような初な反応に彼女は笑う。
「そこ、座って」
カウンターの席を指さされた。
言われるがままに座ると、彼女は先ほどまで見ていたビーカーに入った、謎の黒い液体をコーヒーカップに注いでいる。
香ばしい匂いが立つ。
あれはコーヒーだったのか。
差し出されたカップを手に取り一口飲むと、口の中に独特な酸味と苦さが広がった。
思わず眉間に皺が寄る。
香りは好きだが、この独特な苦さはまだまだ慣れない。
その様子を見て、先ほどと同じように笑う女性。
無言で角砂糖とミルクらしきものを出されて、歩夢は少し恥ずかしい。
だが飲めないよりはマシだ。
恥を忍んで角砂糖1個とミルクを半分入れて、ソーサーの上にあったティースプーンでかき混ぜて飲んだ。
もう一粒砂糖を入れるか迷ったが、その前に声がかかる。
「君も、占いに来たんだろう?何が知りたい?」
彼女は占い師だ。
前の彼女が言っていた。
よく当たる占い師がいると。
その人はどんな占いもできる。
夢占いもできると。
まるで魔女のような人だと。
丁度、悪夢に苦しめられていた時期だったからか、元カノの話で一番記憶に残っていた。
“レル”
それが彼女の名前だったはずだ。ペンネームみたいなものだろうか。
歩夢はカップを置いて、背筋を正す。
「夢を、占って欲しいんです。よく見る夢なんですけど…」
「けど?」
「どんな夢だったのか、思い出せなくて」
「…いい夢?悪い夢?」
「悪い夢だったと思います」
「じゃあ、忘れたままのほうがよくない?」
「……」
普通はそうだ。悪い夢だったのならば。
だが、そうもいかないのだ。
「大事な夢なんです。悪夢でも、俺にとっては忘れてはならない夢なんです、多分…」
レルはしばらく歩夢のほうを見つめている。
だが歩夢とは視線が合わない。
自分の後ろのほうに彼女の視線が向いている気がして、思わずゾッとした。
見えないものを見ているのだろう。
歩夢はうっすら鳥肌が経つのがわかる。
後ろを振り向いて確認したいが、見てはならないような気がした。
視線を落とすしかなく、コーヒーを見つめる。
なかなか声がかからず、痺れを切らして顔を上げると同時だった。
目の前が一気に真っ白になる。
突然のことで脳がフリーズし、数秒遅れて気づく。
タバコの煙を吹きかけられたのだ。
そう気づいた時には咳き込む歩夢。
「な、何するんですか…」
「君、ユエに食べられたんだね」
「ユエ…?…何を食べられたんですか?」
「悪夢さ。彼は人間の悪夢を食べるんだ」
歩夢は聞いたことがあった。
幼い頃に、誰かと一緒に読んだ絵本に出てくる登場人物。
人間たちの悪夢を食べてくれる、妖精のような、妖怪のような。
「人間たちはなんて言ってたかな…あぁ、バク。夢喰いの獏」
レルはタバコを灰皿に押し消して、カウンターに乗り出し、視線を歩夢に合わせた。
グッと近づいてきた美人の顔に、固まる歩夢。
彼女の唇は再び弧を描いて薄く開いた。
「私は君の悪夢を占うことはできない。君にはもう悪夢がないから。もし、どうしても占って欲しいのなら、その悪夢を取り返してきな」
「取り返したら、占ってくれますか?」
「いいよ。取り返せるものならな」
“取り返せるものなら”
取り返せない、ということだろうか。
「…どうやったら取り返せるんですか、俺の悪夢」
「どうやって?そうだな…トリップカクテルを飲んで、“夢の世界“に行ってもらう。そこでユエを探すんだ。君の悪夢を食べた本人を」
「ユエという人を探し出せば、俺の悪夢は取り返せるんですか?」
「そうだね。食べた本人なら悪夢の在処はわかるはずだ。だが、人間は“夢の世界“にとどまり続けることはできない」
時間が経ったら現実世界に引き戻されるとか、そういうことだろうか。
夢の世界というのが、おそらくこの世の場所ではないことを直感する歩夢。
トリップというくらいだから、どこかの異次元へと飛ぶのだろうか。
だがレルの言葉は想像を遥かに超えていた。
「一度にトリップできる時間は、カクテルを飲む量によって決まる。どれだけ飲んでも、リミットまでに戻って来なければならない」
「どうやって戻ってくるんですか?」
「出てきたところに帰ってこい。スタート地点に戻ればいい」
「もし間に合わなかったら?」
「この世の君の肉体は朽ち果て、消える」
「肉体が消えると、どうなるんですか?」
「魂だけがこの世を彷徨うんだ。幽霊みたいに」
「つまり、死ぬってことですか…?」
「ものわかりが早くて助かるよ」
レルは満足そうに微笑んだ。
先ほどまではこの笑みに色気を感じていたが、今は恐怖しか感じない。
彼女は液体が入った小瓶を歩夢に渡す。
それを受け取り、歩夢は不思議そうに見つめた。
「それがトリップカクテル」
クリアな青の液体の中には銀河のようなラメが浮かんでいる。
これは本当に口に入れられるものだろうか。
姉がよく爪に塗っているネイルの塗料のように見えた。
「それは寝る前に飲むんだ。飲んですぐ横になれるような場所で。5分もしないうちにこの世から意識が消えて、魂は“夢の世界”へと飛ぶ」
話だけ聞いていると、やっちゃいけない薬について説明されているようだ。
思わず口元が歪む。
その表情をレルは見逃さない。
「怖いのならやらない方がいい。君はまだ子供だ。無理をすべきではない。帰って来れなくなったら、きっと君の家族が悲しむ」
「でも、これを飲まないと、俺の悪夢は取り返せないんですよね?」
「ユエがこちらに来るのを夜な夜な待つよりは早い。だから、やるかやらないかは君次第。私は、やめといた方がいいと思うけど」
「どうしてですか…」
「自分を苦しめていた悪夢を、誰が取り返したいと思うんだ?普通は消えて清々するはずだ。命をかけて取り戻すものではない」




