悪夢
歩夢は悪夢にうなされていた。
真夜中。
丑三つ時。
草木も眠っている時間。
流石の東京も静かだ。
街は明るいけど。
かつては暴走族が走っていたであろうこの街の武勇伝も、令和となっては古典だ。
悪夢から目覚めて、部屋の窓を開けて、外の空気を吸う。
最早、いつものルーティンとなっている。
夜中に起きると汗がぐっしょり。
シャワーをして、せっせとシーツを替えて。
窓を開けて冷たい水を飲む。
それから二度寝する。
不眠症なわけではない。
断眠というほど頻回に起きるわけでもない。
必ずと言って良いほど、丑三つ時なのである。
あの悪夢がやってくるのは。
一度目覚めたあと、そこからは朝まで夢も見ることなく熟睡だ。
朝起きれないこともないし、日中も眠くなるようなことはない。
夜寝付けないこともない。
普通に朝起きて、登校して、勉強して、友達と昼ごはん食べて、部活して、帰ってきて、ご飯食べて、風呂入って、ストレッチして、寝る。
勉強?そんなものは家ではやらない。
歩夢は授業中に内職をするのだ。
部活に行く前には、明日までにやるべきことは終わっている。
勉強が好きなわけでも、嫌いなわけでもない。
やらなくて良いことはやらないし、やりたくないことは手短に。
かの古典部男子を目指しているわけではないが、主人公の考え方には共感を示す。
あの小説を読んだ時、自分と同じタイプの人間に出会えた気がした。
だから、好きな部活のこと以外には、なるべく時間も労力も割きたくないのだ。
家に帰ったら、部活のために体を休めることに注力する。
歩夢がそれほど力を入れている部活。
特に賞を受賞したわけでも、プロ注目選手なわけでもない。
もちろん、それで飯を食べようと思っているわけではない。
だが、バスケをしていると、余計なことを忘れられるのだ。
バスケをしている時だけが、本当の自分でいられる気がした。
テストの点数も、考えなければならない進路も、彼女にフラれたことも、友達と喧嘩したことも、親に怒られたことも、愛犬が亡くなったことも、保育園の時に離ればなれになった女の子のことも。
部活動に打ち込んでいると、忘れられるのだ。
お前は普段、良いことがないのか?と問われると、そうではない。
だが、悪いことというのは、記憶に残りやすい。
忘れるように部活動に打ち込むようになった。
それがたまたま、バスケットボールというスポーツだっただけだ。
バスケが好きかと言われると、よくわからない。
好きだけど、好きではない。
アンビバレンスなこの気持ち。
順調に多感な思春期を過ごしているのだ。
悪夢を見てしまうのも、思春期にはよくあること。
漠然とした未来への不安や、日々新しいことを体験しているストレスが悪夢となって現れる。
よくあることだ。
夢は思考の整理ともいう。
きっとこの悪夢も、自分の脳にとっては必要な処理なのだろう。
歩夢はそう思っていた。
下手に母親に言うと過剰に心配される。
父親には言っても心配はされないだろうが、子供っぽいと相手にされないだろう。
姉に言うと…一生馬鹿にされそうだから口が裂けても言いたくない。
一人で抱え込む歩夢が毎夜見る夢。
それは、保育園の時の友達の夢。
いつも一緒に遊んでいた。
大きくなったら結婚しようね、と約束した女の子の夢。
おそらく歩夢の初恋だろう相手。
今はどこに住んでいるのか、どう成長しているのか、全くわからない。
夢の中に出てくる彼女の姿しかわからない。
彼女の夢を見るようになったのは、高校生になってから。
具体的にいつからかは忘れた。
気づけば見るようになっていた。
何かに襲われて彼女と一緒に逃げている。
息を切らして立ち止まり、彼女の方を見た時。
彼女に殺される夢。
大きい鎌を振りかぶって歩夢の首を刈ってくる。
刃物が首に刺さる感覚。
血飛沫が広がって、自分の首が地面に転がる。
ごとり、と。
地面の感触が頭を伝ってくるのだ。
首と胴が離れていると言うのに、歩夢の目は動いて、彼女を捉える。
返り血に染まった彼女が、ニンマリと笑っている。
離れた胴体が恐怖に怯えてガタガタと震え出して。
彼女がまた歩夢の顔面を目掛けて鎌を振りかぶって。
目が覚める。
今日もそうだった。
いつものように二度寝に入ろうとした。
だが、ふと思ったのだ。
この夢に意味はあるのだろうか、と。
スマホで調べてみる。
『自分が死ぬ夢は、今自分が知っている人生の終わりを意味する』
自分が知らない人生が始まる、ということだろうか。
どんな人生だ?
抽象的すぎて当てにならない。
馬鹿らしくなってスマホの画面を消した。
二度寝の時は悪夢を見ない。
歩夢は安心して意識を手放した。
だが、この日は違った。
アイツが来たのだ。
悪夢の匂いに釣られて。
「美味しそうだね〜」
陽気な声。
月明かりに照らされた銀色の髪に、赤く光る目のそいつは。
舌なめずりをして、歩夢が寝ているベッドに片膝をつき、大きく口を開けて。
二度寝なのに夢を見ていることがわかった。
彼女はいない。
妙な男が紫色の大きな玉を口に入れようとしている。
「やめろ!」
歩夢は無意識で、それが大事なものだとわかった。
咄嗟に叫ぶ歩夢を見て、男はニヤリと笑う。
「嫌だよ。僕が食べてあげる。もう、悪夢にうなされなくて済むように」
男は紫色の玉を丸呑みした。