IX
◆◇◆◇
公園から昼の喧騒が消え去ったころ、噴水に一人の男性が腰掛けていた。
グレンチェックが気品を感じさせる、ダブルブレストのチェスターコートを羽織り、首元では黒いマフラーが風を受けて揺らめく。
人気の少なくなった園内には、購入したばかりであろう、真新しいカバーを付けた文庫本のページをめくる音だけが聞こえる。
「飛鳥くん、お待たせ〜!」
一時間、歌い続けていたとは、とても思えない快活な声が響く。
噴水に腰掛けていた飛鳥は、手元の文庫本から目を離し身体を声の方へと向けた。
「お疲れ様、真音ちゃん」
昼のライブを終えた真音が走ってくるのを視界に入れた飛鳥が、陽だまりのような微笑みを浮かべる。
真音はライブの時に着ていたロックな服装から、どうやら着替えたようだ。
ベージュのトレンチコートに、淡い青のニットが、鮮やかな彩りを添える。
濃紺のスキニーデニムの足元には、雪を考慮して、ダークブラウンのブーツが合わせられていた。
大人びた印象を与える服装――これを本当に見せたかったのだろう相手のことを考えて、飛鳥は静かに苦笑した。
「それじゃあ行こうか。素敵な歌のお礼に、今日は君にたっぷりと楽しんでもらないとね?」
本をクラッチバッグにしまうと、飛鳥は軽く伸びをして立ち上がり、片目をつむってみせた。
「ふふふ、ハードル上げるねぇ〜。それじゃあ楽しみにしてるよ」
肩を並べて歩き出す飛鳥達を見送る、二つの影があった。
「良い雰囲気ね。気になる?」
「別に……」
「ここまで女を追っかけに来てて、それは無理があると思うけど……」
「お、俺は別に! 急に魚、見たくなっただけだ! あぁ、そういえば、あいつらも今日行くとか行ってたかなぁ」
「あなたね……」
顔を真っ赤に染め、見苦しい言い訳を並べる隼人に、偶然にも尾行仲間となったサハリエルは、腕を組んで嘆息した。
【都内某所水族館】
「見て! 飛鳥くん、カクレクマノミだよ。可愛いなぁ〜」
真音は水槽と同化しそうな淡青色の瞳をキラキラと輝かせ、オレンジ・白・黒の三色で構成された魚を愛おしげに見つめていた。
隣で頷く飛鳥の慈しむような色を帯びた瞳は、真音の横顔へと一直線に注がれていた。
「どうしたの?」
「楽しそうで良かったなって」
「心配かけちゃったね……」
「気にしないで、それに僕は君と隼人くんの隙間につけ込むようなことをしてるんだから」
「飛鳥くんは何というか、直球だね……」
何食わぬ顔で、そう言ってみせる飛鳥に、真音は戸惑うように視線を落とし、頬をわずかに赤らめて答えた。
「必要なら、嘘だってつくよ」
「あはは……君は結構悪い人なのかな?」
「そうかもね。それじゃ今日一日で僕のことを見極めてみて」
「あっ!」
飛鳥は悪戯っぽい微笑みを浮かべて、真音の手を取ると、ゆっくりと歩き出した。