第46話:分かっているよ、そんなことは。
かつてこの国の王位継承第一位だったヨハン王子は、仕事熱心な父親――当時の国王に比べ、やや厭世的で、人間の欲望渦巻く宮廷社会を渡り歩くことを苦手とする性格だった。
王子は十五歳になれば花嫁候補を探さなければならない。
「一目見ればすぐにそれと分かる」と父親に言われ、来る日も来る日も、身分の高い者から零落した者まで、国中の年頃の女性と言う女性と顔見せをさせられた。
王子のお相手探しのための舞踏会も、何度も開かれた。
ところが、花嫁候補はなかなか見付からなかった。
国王陛下には他に子どもがいなかったため、このままならば、前例のないことだが妃のないまま国王になるか、世継ぎを作ることができないのならば、どこか親戚筋から魔法の使える人間を連れて来て後継者にするしかないと言われていた。
そう、この国では、国を守るための加護の大魔法が使える人間だけが、王になれるきまりだったのだ。
それが、長らくこのラドラック王国が繁栄してきた秘訣だった。
花嫁探しに食傷気味だったヨハン王子は、これ幸いと王宮を抜け出し、市井の宝石商としての暮らしを始めた。
仰天して制止しようとした国王陛下や家臣たちのことも、ヨハン王子はすべては花嫁を探すためだと言って丸め込んだ。
ヨハン王子は面倒臭い宮廷社会から抜け出して、悠々自適な生活を始めた。
自由な生活が楽しくて仕方がなかった。
女性にはまったく興味の無かったヨハン王子だったが、そんな生活の中、彼はついに、運命の相手を見付けたのだ。
「出逢った時、セレスタはまだ十八歳だった。流星の色に染められたような銀の髪、紫水晶のような深い目の色。肌は陶器のように白く、触れればしっとりとしたビロードのようだった」
カレルさんは長い指の背で私のおとがいから首筋の肌を弄ぶようになぞりながら、うっとりとした表情でそう言った。
当時のことを、思い出しているのだろう。
私は初めて見る彼のそんな表情に、クラクラした。
「彼女は、先代オーナー、フレデリック・パースの経営していた頃のあの店に、宝飾品を探してふらりとやってきた。……父親の言った通りだった」
一目見て、それと分かった。
今までどんな女性を目にしても一切心が動くことのなかった自分が、一瞬で恋に落ちた。
——いまの女性、いったいどこの誰ですか?
カレル・クラマルスは必死でオーナーに尋ねた。
——ああ。美人だろう。最近巷で人気の歌姫だよ。街で一番大きなキャバレーで踊り子をしている。あの美貌だから、言い寄る男は星の数ほどいるが、絶対に誰にも心を開かないのだそうだ。そういう、『高嶺の花』感も、彼女の魅力なんだろう。誰もが彼女を微笑ませたくて、必死だよ。……おいおい、止めておきなさいよ。彼女に入れ込み始めたら、身を滅ぼすことになるよ。
店主はつまらない世間話でもするように説明した。
カレルはすぐに行動を起こした。
居ても立っても居られなかった。
噂のキャバレーに入り浸り、彼女に会って話をするために湯水のように金品を使った。
王太子である身分を明かせば話は速いのにと、そう思うだろうか。
カレル・クラマルスは自分の身分を明かすことはしなかった。王太子の名を使って強引に手に入れるようなことはしたくなかった。
権力とかそういう類のものを毛嫌いしていたから、正々堂々、生身のままの自分を、好きになって欲しかった。
カレル・クラマルスとして彼女と向き合い、そして自分を好きになってくれるのならば、正式に求婚しようと心に決めていたのだ。
互いに不器用なところがよく似ていた二人は、身を寄せ会うように恋に落ちた。
カレルは幸せだった。
誰に何と言って蔑まれようとも、カレルにとってヒルダは、大切な大切な宝物だった。
二人は結婚し、すぐに子どもができた。
玉のように美しく、可愛らしい娘だった。
二人は幸せだった。
アリシアに、魔力がないことが分かるまでは。
アリシアが物心つき、魔力がないことが判明したとたんに、宮廷は、心にもない噂で持ちきりになった。
やはりヒルダはヨハン王子を誑かす悪女だったのだ。
もともと貧しい家の出で、キャバレーで歌いながら大勢の人間に金品を貢がせていたような女だ。
王太子妃になってからも、昔の悪いクセは抜けなかったのだろう。
王太子妃という立場にありながら、色々な男と寝ているのだろう。
それは、宮廷や、国民にとっては格好のゴシップだった。
先代の国王が亡くなり、ヨハン王子が戴冠して国王となってからも、口さがない人々の噂は途絶えることが無かった。
美貌の悪女に誑かされ、国王陛下は本当に、愚かな王だ。
この国の将来を揺るがす、由々しき事態だ。
ラドラック王家の権威は失墜した。
「周囲の人間は、別の男の子どもを身籠った末、二人目の子どもをなかなか授からないセレスタに冷たかった。もう彼女のことは捨てて、新たな王妃を探すべきだとすら言われた。俺は、人々の噂を信じたりはしなかった。俺は誰よりも、尊く清い心を持ったセレスタのことを心から信じていた。彼女が自分を裏切ることなど、万に一つもあり得ないと。それでも……、毎日毎日、呪言のように繰り返される讒言に、俺の精神も少しずつ侵されていたのかもしれない」
彼は懺悔するように言った。
「だから、俺は、『セレスタの嘘』を信じてしまったんだ」
結婚して五年。
アリシアがもうすぐ五歳になる頃。
セレスタは、その頃には一切ヨハンに対して微笑んだり、優しく言葉を交わすようなことは無くなっていた。
倦怠期の夫婦のように、夫のことを口汚く罵り、臣下達や国民と同じように、無能な王だと見下すようになっていた。
「他の誰に言われても聞き流すことができたが、セレスタに言われるのは、何よりも堪えることだった。俺は呪いに掛かっているようなものだったのだから。セレスタという一人の女以外目に入らず、愛することのできない呪いに。決定的だったのは、やはりアリシアが自分の子ではないと告げられた時だった」
——本当に、なんて愚かな男だろうと思ったわ。本気で私があなたを好きになったとでも思ったの?
私はね、確たる地位と安定が欲しかっただけ……!
あんな、下着みたいな服を着せられて、夜通し歌わされて、こき使われて、盛りを過ぎたら、使い捨てみたいに代わりの若い子と取り替えられる……あんな世界にいつまでも居るつもりはなかった。
王妃になれるなんて、最高じゃない。
相手を愛しているかなんて、そんなことはこの際どうだっていい話。
愛ある結婚なんて、別に望んじゃいなかったし、私はあなたのことを愛しているフリをしていただけ……!
なぜって、私はね、フィドル・クルールを心から好きだったから!
本当はフィドルと結婚したかったのに、あなたに無理矢理引き離されたのよ!
フィドルの隣に居る時が、唯一本当の幸せを感じる時だったわ。
だから私は王宮をこっそり抜け出してフィドルに逢っていたの。
馬鹿ね、アリシアが本当の娘だと信じて、可愛がっているなんて。本当に、可哀想な人。
「やめて……っ!それ以上は、言わないで……」
私は思わずエヴァンの悲痛な告白を遮っていた。
エヴァンは絶望に駆られたように顔を両手で覆っていた。
「……気付けば俺はセレスタを殺していた」
セレスタの身体が覚えている。
私はペンダントの中でこちらを睨むエヴァンの肖像画を見るたびに、激しく、何度も何度も執拗に打ち据えられるような、燃え上がるような傷みを感じていたのだ。
拷問のような傷みだった。
「そんなの嘘よ。フィドルさんがそんなことするはずがない。あの人は、やろうと思えばいくらでもできたのに、蘇生した私に自分の妹だと言い聞かせて、絶対に手を出そうとはしなかった。カレル・クラマルスを出し抜く訳にはいかないから。セレスタを蘇らせてくれたカレル・クラマルスに申し訳がないからと言って……。あんなに誠実で強固な意思を持った人が、陛下を貶めるようなことをするとは思えないわ。それに……私の中のセレスタは、死してもなお、いつでもあなたを求めている」
「分かっているよ、そんなことは。だから、後悔しているんじゃないか。そうでなければ、そんな女のことを、わざわざ魔法を使って蘇生させたりするわけがないだろう……?」
俺は狂っていたんだ、と、カレルさんは続けた。
呪いのようなものだよ。
『運命の花嫁』のこととなると、とたんに盲目になってしまうんだ。
アリシアが、セレスタの不貞の子どもだったなら、と、嫉妬に狂い、何度アリシアをくびり殺しそうになったか分からない。
そして、セレスタが死んだら、見事にその呪縛は解かれたんだ。
霧が晴れるように頭が冴えて、すべてを理解した。
「セレスタの手記を、読んだか?」
カレルさんは静かな口調で言う。
私は首を横に振った。
「最後の一頁だけで構わない。目を通してみるといい」




