人々の認識の違いは何故発生するのか
貴方が正論を言ったつもりでも、相手は話しを聞いてくれないことがあると思う。
彼らは、反射的にSNS・現実でも以下のような言葉を言うだろう。
「人それぞれ」
「俺はそう思わない(意地を張る)」
「お前に言われてもな」
何故このような現象が発生するのだろうか。
それは、貴方と相手の生きている国が異なるからだ。
「生きている国? はー何言ってんだこいつ。同じ日本に住んでいるだろう」と思う方もいるかもしれない。
しかし、私が定義した『生きている国』とは、常識のことだ。
常識とは、社会的に当たり前と思われる行為や物事のことである。
少し例を出そう。
・恋人が異性と二人で出かけるのは、アリ/ナシ。
・集合時間5分前には着く。
・無責任な情報を発信しない。
・法律よりも、社内の慣習に従う
これらの常識が国同士や人同士で異なるから、争いが生れる。
アインシュタインは、「常識とは、18歳までに身に着けた偏見のコレクションである」と言ったそうだ。
私もこの説に同意する。
なぜなら、人は先天性と後天性(生まれ育った小さな環境)の両側面を持っているからだ。他にも文化的な側面もあるだろう。
つまり、先天的に賢く努力ができ、国家や家族、同級生に恵まれた性格が良い人物は、とある社会での優れた偏見の持ち主と言うことになる。
とある社会とは、国や都道府県で変る。
例えば、対人関係の在り方は、日本の偏見とアメリカの偏見では少し異なる。
同様に地球の市民であるような偏見を植え付けられた人は、日本の偏見と異なる。
だから、常識とは、偏見のコレクションであり、対人関係でぶつかる要因なのだ。
しかし、ぶつかると言っても、小さなことから大きなことまである。
家族が牛乳の蓋を閉めないと言った問題は些事であり、単純なミスや習慣などの問題でもあるように思える。
急いでいたので閉め忘れたり、恋人家族の間では閉め忘れが普通だったり。
これらは根本的に対話や無視で改善可能な範囲にある問題だ。
一方で、先ほど箇条書きで上げた例の中には、大きな問題が含まれ、重大な認識の違いは知性の差で生まれることがあるように思える。
もちろん、知性があっても後天的に偏見のコレクションを学ばない人間や、生来の性格の良否の問題の場合もある。
しかし、これらの要素は、全て知性とは言えないが、大きく知性の影響を受ける。
なぜなら知性とは、動物そのもの、人間そのものであるからだ。
つまり、言語や論理などの人間由来の知性――動物的知性の影響もうけている。
例えば、鳥が紫外線を見れるのも知性と捉えることも可能だし、草食動物は反復的に肉食動物の足音を聞くことでより優れたランナーになれる。
また、先天的に保有している五感を巧みに使えるのも、知性と言える。
だから、知性の差で説明したいと思う。
しかし、知性とは定義しがたい概念であるから、××が知性だとは断言しがたい。
しかもややこしいことに、先天性もあり後天性もある。
だからこのエッセイでは、知性は一般的に言われている、一般知能指数や物体認識能力などの感覚器官から得る情報をより技巧的に扱えるかどうか、知識、思慮深さだと仮定する。
単純化するなら、頭の良さでいい。
対人関係のトラブルは、この知性の影響を受けている。
その中でも、一般的な人間関係のトラブルは、人間特有の言語的思考が主たる原因だろう。
なぜなら、偏見同士のぶつかり合いを解消しようとする二人は、言語を用いるからだ。
決してテレパーシーや、非言語的な解決をしない。必ず言語での衝突が起こる。
つまり、人間は、言語的・論理的に、相手の偏見を改善するように要求する。
「30分前に出勤してくれない? なぜなら、みんなしているから」
「お前のものは俺のもの。なぜなら友達だから」
「多様性が重要だ。ひとそれぞれでいいから、君の話は間違っている」
「この公園では、球技をしてはいけません。ルールですから/慣習ですから」
現実には存在しない言語的な概念に従うように要求するのだ。
それは人間同士が共通して理解し合える国であるとも言える。
なぜなら、人間は、その脳内の国のルールを守り、その市民であろうとするからだ。
善き市民であることは、人間にとって得がある。
集団内の食料は、分け合うことにします。
このルールにより、飢えずに済む。
狩猟採集した食料を独り占めしてはいけません。
このルールにより、集団は不正をする人間を追放することができ、損することを防ぐことができた。
これらのルールは言語上にあり、今現在だけでなく、しかも未来を束縛する。
だから、言語上の国では、未来が重要である。(分かりやすく言うと)
まとめると、人間の偏見のコレクションは、知性の影響を多分に受けている。偏見のコレクションは言語上の国に存在し、その国は過去から未来へと続いている。
では、(各個人のではなく、共通の)言語上の国では、どの偏見のコレクションが正しいだろうか。
例えば、青々と茂った木々を想像してください。
人間は、葉が緑で幹が茶色の存在だと言います。
鳥は、葉が赤みを帯びているように見える。
コウモリは、音波で木々が存在すると分かる。
つまり、動物共通的に木々が存在することが確認でき、人間は帰納的にそれは木々だと分かる。
しかし、鳥が喋れると仮定して、「木々が存在すると分かった。でも、葉は赤だ」と言ったらどうだろうか。
それを聞いていたある人は、「いやいや緑だ」と言うかもしれない。
この場合、どちらの意見がより正しいのだろうか?それとも、別の意見が正しいのだろうか。
その答えは、生命体である以上、おそらく知り得ない。
もしかしたら、人間が誤った方法で木々を認識しており、木々は鳥が言うように『紫いろの葉をしているかもしれない』
だから、現代人は我々の特性から逃れられないので、自ら作り上げた『言語上の国』で考えなければならない。
つまり、木々は、言語論理上は、『人間には茶色の幹と緑の葉があるように思え、鳥には赤い葉があるように思え、コウモリには音波が跳ね返ってくるように思える』存在というのが明らかに正しいだろう。
例えば、窃盗の概念を考えてください。
大多数の人は、どんなに些細な物でも盗んではいけないと理解しています。
一方で、これくらいなら盗んでも問題ないだろう(生活困窮などの深刻な場合を除く)と考える人もいます。
つまり、人間共通的に窃盗の概念が存在することが確認でき、人間の数によって帰納的に正しいと分かります。
この情報に付加価値を付けくわえるのならば、窃盗の法律が存在することです。
言語論理的に、どんな物でも窃盗はしていけないと分かります。
この二例で挙げた動物/人間同士の言語論理的な差異が、認識の差として生れます。
ですから、本来、空想空間で一番鋭い言論を言った者の考え方は、その時々で正しいと言えるわけです。
その時々とは、変化が生じる場合があると言うことです。
例えば、より優れた意見や、文化的な影響などを考慮する必要が発生するとき。
とは言え、知性と言動の神秘について、人間は完全に解き明かせていませんので、その正しさは普遍性を持つが完ぺきではないと言えそうです。
例えば、嘘を吐かない方が良いが、時として優しい嘘も必要。
結論。
この鋭い言論を理解できない人は、鳥や『ある人間』などと同じ様であり、言語論理的な人間として失格であるとまで言えると思います。そのルールに従っていませんから。
もしくは、現実との妥協案を採用するのならば、『私は鳥として生きているので、葉は紫に見える。上位概念は理解した』こう言えばいいわけです。理想的には、ね。
認識の差とそこから生まれる偏見のコレクションの差異の話でした。