Episode95
「じゃ、行くか」
瀬良はそう言うと、美菜の手首を軽く引くようにして歩き出す。
彼にしては珍しく、はっきりとした行動だった。
「お、おお……マジで行っちゃうのね」
木嶋が後ろからしみじみとした声を漏らすが、瀬良は振り返りもしない。
美菜も驚きつつ、自然と彼の隣を歩いていた。
***
夜の駅前は、人の流れが落ち着いていて心地よい静けさがあった。
クレープ屋は小さなキッチンカーのような店舗で、柔らかい照明が優しく灯っている。
「ほんとに連れてきてくれるとは思わなかった」
「食いたいんだろ」
「まあ、そうだけど……」
並びながら、メニューを眺める。
シンプルなシュガーバターから、たっぷりの生クリームとフルーツを乗せた豪華なものまで。
「何にする?」
「んー……チョコバナナ、生クリーム多め!」
美菜がそう言うと、瀬良はふっと息をついた。
「甘そうだな」
「疲れた時は甘いものが欲しくなるの」
「……なら、それにしろ」
そう言って、瀬良はすっとカウンターに手を伸ばし、代金を払ってしまう。
「えっ、いいの?」
「仕事終わりだからな」
「……ありがと」
自然な流れで奢られたことに、少しだけ心が温まる。
受け取ったクレープは、評判通りのもちもち生地で、クリームが甘すぎず口当たりがいい。
「ん〜! おいしい!」
美菜が満足そうに頬を緩めると、瀬良は横目でちらりと見てから、静かに視線を逸らした。
「……ならよかった」
それだけ言うと、自分のクレープを黙々と食べ始める。
彼が選んだのはシンプルなキャラメルナッツ。
「瀬良くん、意外と甘いのいけるんだね」
「……疲れてるからな」
そう言う彼の横顔は、どこか柔らかく見えた。
美菜がクレープを食べながらふと横を見ると、瀬良がスマホを取り出して何かを打っている。
「木嶋さん?」
「……あいつ、食い物の話だけは覚えてるからな」
短く答えると、すぐに返信が返ってきたらしく、瀬良は小さく息をついた。
「何て?」
「『やったー! 瀬良くんマジ優しい! オレはキャラメルナッツでお願いします!』……うるさい」
そう言いつつも、瀬良はカウンターに視線を向けると、追加でキャラメルナッツのクレープを注文する。
「なんだかんだで優しいよね」
「……あいつがうるさいのが面倒なだけ」
そう言いながらも、受け取ったクレープをきちんと袋に入れ、大事そうに持っている。
美菜は思わず微笑んだ。
駅前の静かな夜風の中、2人でクレープを食べる時間は思ったよりも心地よかった。
***
店に戻ると、木嶋はカウンターにもたれかかるようにしてスマホをいじっていた。
扉が開く音にすぐ反応し、待ち構えていたかのように顔を上げる。
「おっ! ついに帰ってきた!」
瀬良が無言のままクレープの袋を差し出すと、木嶋は満面の笑みで受け取った。
「瀬良くん、マジで優しい! いや〜、ちゃんと俺のことも考えてくれるとか、ほんとイケメンっすわ〜」
「うるさい」
「ま、ま、照れなくていいじゃないっすか! いやー、ありがたくいただきます!」
袋の中を確認し、キャラメルナッツのクレープを取り出して嬉しそうにかぶりつく。
「うまっ……! これは神……!」
その様子を横目に、瀬良は「じゃ、帰るぞ」と美菜に視線を向ける。
「うん、じゃぁ先に私達はでるね」
「おつかれー!2人ともありがとーー!ゆっくり休んでくださいね〜!」
木嶋の軽い言葉を背中に受けながら、二人は並んで店を出た。
***
夜風が少し冷たく、クレープの甘さがまだ口の中に残っている。
駅に向かって歩きながら、ふと瀬良が口を開いた。
「……明日、休みだろ」
「うん、瀬良くんもだよね?」
「ああ」
少しの間を置いて、彼は何気ない口調で続けた。
「飲みに行くか」
「え?」
不意の提案に、美菜は驚いて瀬良の顔を見る。
彼は特に表情を変えずに前を向いたままだったが、その低い声の響きが、なぜか妙に心地よく感じた。
「……いいね、でも外で飲むより、家のほうが落ち着かない?」
「家?」
「うん、宅飲み」
「…………」
美菜がサラッと言うのを見て瀬良は少し考えた後、短く息をついた。
「……まあ、いいけど」
「おっけー!ならここからだと……瀬良くんの家にする?」
「いいよ」
「お酒とサッと作れるものの材料買いにスーパー寄ってこー」
「うん、行こうか。それとさ、」
瀬良が何か言おうとしているが、通りの賑わいに若干聞こえずらい。
既に美菜の頭は買って帰るお酒や材料をスマホにメモし、宅飲みを楽しみにしている。
「なにー?」
「それとさ、今日泊まってく?」
「あ、そうだね!じゃぁそうしようかな」
「……了解」
美菜が嬉しそうに歩いている姿を見て、瀬良は静かに自分の煩悩と戦っていた。
美菜は全く気にしていないようだ。
(…………なんも分かってねーな)
今日泊まっていく。
それは美菜にとって、特に深い意味のある言葉ではなかったのかもしれない。
でも、瀬良にとっては、そうじゃなかった。
普通なら、何かしらの期待があってもおかしくない状況だ。
少なくとも、今夜は2人きり。
焦るつもりはないが、この距離感を変えるタイミングは、そう遠くない気がする。
(美菜のペースで……だよな)
そう自分に言い聞かせ、美菜の後を追って歩き出した。




