Episode93
朝のサロンには、昨日の宴会の余韻は微塵も残っていなかった。
瀬良はいつも通り無駄のない動きで道具を整え、美菜も手際よく準備を進めている。千花はミラーを拭きながら黙々と作業し、木嶋も鏡越しに自分の身だしなみを軽く確認すると、すぐにタオルを畳み始めた。
田鶴屋がカウンターの奥からその様子を見て、口元に小さく笑みを浮かべる。
「……昨日、あれだけ飲んだとは思えないな」
誰もが当たり前のように仕事をこなし、疲れの色一つ見せない。
「プロだから」
瀬良が淡々と答えると、田鶴屋は「まぁ、そうだな」と満足げに頷いた。
木嶋が手を止めずに言う。
「そりゃ飲みの次の日だからってダラダラしてたら、お客様に失礼っすもんね」
「そういうこと」
美菜が軽く返しながら、スプレーのノズルを確認し、セット剤を棚に並べ直す。
「むしろ、こういう日こそ気を引き締めないと」
「そうそう」
千花も軽く頷き、ドライヤーのコードを整える。その仕草には一切の無駄がなく、表情にも倦怠感は見えない。
「仕事とプライベートは別ってことよ」
「そういうの、かっこいいっすよね」
木嶋が感心したように言うと、瀬良が少しだけ口元を緩める。
「……当然だろ」
店のオープン準備が整い、シザーケースを腰に下げる音が静かに響く。
「さて、そろそろ始まるな」
田鶴屋の一声で、全員の意識が完全に切り替わる。
店の扉を開けると、朝の光が差し込んだ。そこにはもう、昨夜の宴会を楽しんだ彼らの姿はなかった。ただの美容師として、最高の技術を提供するプロの顔があった。
***
店がオープンすると同時に、店内にはドライヤーの音と、軽快なハサミのリズムが響き始めた。
瀬良は落ち着いた手つきでカットを進め、美菜は手際よくブロッキングを取りながら、カラー剤を塗布していく。千花もミラー越しにお客さんと笑顔で会話をしながら、セットを仕上げていた。
その中で、木嶋の動きは一際目を引いていた。
彼の持ち味は、圧倒的なテンポの良さだった。
「お待たせしました! ではシャンプーしていきますね!」
明るい声と同時に、木嶋は流れるような動きでお客さんを誘導する。
シャンプーブースに座らせ、首元のタオルをさっと巻くと、絶妙な力加減で指を滑らせた。
「このくらいの力加減で大丈夫ですか?」
「はぁ……あなた上手ねぇ〜……」
シャンプー中の会話を交わしながらも、指先は寸分の狂いもなく動いている。指圧のバランスが絶妙で、力強さと柔らかさを兼ね備えた技術は、初めて担当するお客さんですら一瞬で虜にする。
そのまま無駄なく流し、タオルドライを終えたら、手早くドライヤーに移る。
「今日はちょっとふんわりめに乾かしていきますね!」
ただ乾かすだけではない。ブローの段階で、すでに仕上がりの形を計算している。
美菜がちらりと視線を向けると、木嶋はお客さんの髪の毛のクセを瞬時に見極め、最適な角度でドライヤーを当てていた。
(……仕事モードの木嶋くんってほんと別人)
彼の最大の強みは、相手の「なりたい」を瞬時に理解し、実現する力だった。
お客さんがぼんやりと「こんな感じがいいなぁ」と口にしたことを、木嶋はすぐに形にできる。そこには長年の経験や知識もあるが、なにより彼の「直感的なセンス」がずば抜けているのだ。
そして、その才能は接客にも活かされる。
「今日は特別なご予定とかあるんですか?」
「えっ、どうしてわかったんですか?」
「なんとなく、ワクワクしてる感じが伝わってきたんで!」
軽い会話の中で、お客さんの気分や状況をさりげなく汲み取り、それに合わせた施術を提案する。
会話を交わしながらも、手元は一切止まらない。カットに移れば、スピーディーかつ正確に仕上げ、スタイリングの際には、「こうしたほうがもっと似合うかも」と即座に判断して調整する。
お客様のしたい事をサポートする事が木嶋の強みだ。
田鶴屋がそんな木嶋の仕事ぶりを見て、ふっと口元を緩めた。
「やっぱり、木嶋くんはお客様に尽くせるいい美容師だねぇ」
瀬良も、ハサミを動かしながら静かに同意するように頷く。
「……あいつのそういうとこ、認めざるを得ないですよ」
器用で、飲み込みが早く、何よりもお客さんの希望を瞬時に形にする才能を持っている。
美菜も内心で思う。
(木嶋さんは、感覚で動いてるように見えて、実は誰よりも人のことを見てるんだよね)
それは、ただの技術力ではない。
「この人にお願いしてよかった」と思わせる圧倒的な安心感。
「また来たい」と思わせる確かな実力。
その両方を持ち合わせているからこそ、木嶋の指名は途切れることがないのだった。




