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Episode88



休日の朝、まだ肌寒い風が吹く中、美菜は水族館の入り口で瀬良を待っていた。


「待った?」


少し息を切らしながら、瀬良が駆け寄ってくる。無造作に整えた髪にシンプルな黒のコート。仕事の時よりもラフな姿が、どこか新鮮だった。


「ううん、私が楽しみで早く来すぎただけ」


美菜は小さく笑いながら答えると、瀬良も少し笑って美菜の手を自然に握った。


伊月の一件から数日。当時伊月海星の芸能界引退というニュースには多少驚いたが、あれから何も起こらず、平穏に過ごせていた。美菜は何も言わなかったが、瀬良にはわかっていた。まだ少し不安な気持ちはあるのだろう。だからこそ、こうして水族館に誘ってくれたのだ。


館内に入ると、ゆったりとした音楽と水の揺らめきが出迎えてくれた。


「結構人いるな」


「だね。カップルとか、家族連れとか」


「俺らもそのカップルの一組だけどな」


瀬良がさらりと言う。その言葉に美菜は少し顔を赤くしたが、すぐに誤魔化すように水槽の方へ歩く。


大きな水槽には深い青の世界が広がり、魚たちが優雅に泳いでいた。水の揺らぎが光を反射し、美菜の頬に淡い影を落とす。


「わぁ……凄い」


「圧巻だな」


美菜は楽しそうに見つめる。


「…来てよかったね」


「だな」


瀬良は美菜の隣で、同じように水槽を見つめる。


「クラゲのコーナーもあったよね?」


「行ってみるか」


暗闇の中で、クラゲがふわふわと漂っていた。淡い光を放ちながら揺れるその姿に、美菜は思わず見惚れる。


「綺麗…」


「お前みたいだな」


瀬良が不意に呟く。


「…へ?」


「ふわふわして、綺麗で。一生懸命動いててさ」


「あ、ありがと……?」


照れたようにそっぽを向く瀬良。その横顔を見て、美菜はそっと彼の手を握り返した。


何が、とは言わない。でも、ただ隣にいてくれることが嬉しかった。


クラゲの水槽を後にし、美菜と瀬良は手を繋いだまま館内を歩いた。


「次、イルカのショーやるみたいだけど、見ていく?」


掲示板を見上げながら美菜が尋ねると、瀬良は「行くか」と頷いた。



***



ショーの会場に着くと、すでに多くの観客が集まり始めていた。瀬良が周りを見渡しながら「前の方、行くか?」と聞く。


「うーん……前だと濡れちゃうかも」


「じゃあ、ちょっと後ろの方で」


二人はほどよく見やすい席に並んで腰を下ろした。瀬良は何も言わず、美菜の手をもう一度握り直す。今度は指を絡めるようにしっかりと。


「……」


心臓が跳ねるのを感じた。仕事のときはこんなこと絶対にしないのに、不意に甘い。瀬良の横顔を盗み見ると、本人は特に何も気にしていないように前を見つめていた。


(ずるい……)


頬が熱くなるのを誤魔化すように、美菜は視線を前に戻した。


やがてショーが始まり、軽快な音楽とともにイルカたちが華麗にジャンプを決めていく。水しぶきがキラキラと舞い、観客席から歓声が上がった。


「おぉ……すげぇな」


「ね! イルカってすごく賢いんだよね」


「俺より頭いいかもな」


「ふふっ、そうかも」


瀬良が冗談めかして言うと、美菜はくすっと笑った。


しばらくショーを楽しんでいると、大技の時間がやってきた。トレーナーの合図で、三頭のイルカが一斉に高く跳び上がる。そして次の瞬間、勢いよく水面に落ち、観客席へと大量の水しぶきが飛んできた。


「うわっ!」


「きゃっ!」


前方の席の人たちはずぶ濡れになりながらも笑っている。美菜と瀬良はそこまで濡れずに済んだが、美菜の頬に小さな水滴がついていた。


「ついてる」


瀬良が手を伸ばし、美菜の頬を指で拭う。


「……っ」


仕草があまりに自然で、そして優しくて、美菜の胸が一気に高鳴る。


「ん、取れた」


瀬良は何でもないように手を引いたが、美菜は一瞬も動けなかった。


「……」


「……どうした?」


「なんでもない」


どう考えても“なんでもない”わけがないのに、そう言ってしまう。こんなところで「ドキドキした」なんて言えるはずがない。


(ほんと、ずるい)


瀬良は、こういう無自覚な優しさをさらっとする。それが時々、美菜の心を簡単に揺さぶる。


ショーが終わり、観客が一斉に立ち上がる。美菜と瀬良も席を立った。


「次、どこ行く?」


「えっと……ペンギンの展示、行ってみたい」


「よし、行くか」


繋いだ手をそのままに、二人は次の展示へと向かった。美菜は気づかれないように、瀬良の手を少しだけぎゅっと握る。彼の温もりが、心の中の不安を少しずつ溶かしていくような気がした。



***



イルカショーの会場を後にし、美菜と瀬良はペンギンの展示コーナーへと向かった。館内は適度に薄暗く、水槽に映る光が幻想的に揺れている。


「ペンギン、いた!」


美菜が小さく声を弾ませると、瀬良は「そんなに好きだったっけ?」と横目で見る。


「うん、可愛いもん。ちょこちょこ歩くところとか、ふわふわの毛とか」


「……まぁ、確かに可愛いな」


ガラスの向こうでは、小さなペンギンがよちよちと歩いていた。時折バランスを崩しながら、それでも一生懸命進んでいく。美菜はそれをじっと見つめながら、ふっと笑う。


「なんか、ちょっと自分と重なるな。さっきのクラゲもそうだけど……」


「ん?」


「なんか……上手く歩けなくても、自分なりに一生懸命なのが、ね」


瀬良は黙って美菜の横顔を見つめた。いつも明るく振る舞っているけれど、きっと色々なことを考えている。少し前の出来事だって、何も感じていないはずがない。


「……美菜」


呼ばれて、ふと瀬良を見上げる。


「何かあったら、ちゃんと言えよ」


「……うん」


素直に頷いたものの、瀬良はそれだけでは納得しなかったのか、美菜の手を引いて少し人気のない場所へと歩いた。


「ちょ、瀬良くん?」


「……疲れてないか?」


急にそんなことを言われ、美菜は瞬きをする。


「疲れ……?」


「無理してねぇ?」


優しい声だった。突き放すでもなく、ただ気遣うような、包み込むような。


「……無理なんて、してないよ」


「ならいいけど」


それでも瀬良は美菜の頭をそっと撫でた。大きな手が、まるで子どもをあやすように優しく髪を梳く。


「……瀬良くん」


「お前はちゃんと甘えろ。俺に」


「……っ」


心臓が跳ねるのがわかる。瀬良はさらっと言ったつもりかもしれないが、美菜には十分すぎるほど甘い言葉だった。


「……じゃあ、ちょっとだけ」


美菜はそっと瀬良の腕に寄りかかった。肩が触れ合い、彼の体温が伝わってくる。


「ん」


瀬良はそれ以上何も言わず、ただ美菜の頭をぽんぽんと優しく叩いた。


しばらくそうしてから、「そろそろ行くか」と瀬良が言う。


「うん」


二人はまた手を繋ぎ、ペンギンたちの元へと戻った。さっきよりも心が少し軽くなった気がした。



***



一通り館内を見終わり、軽く食事を済ましてまたふらふらと2人は歩いた後、水族館を後にした。

朝よりも少し暖かくなった風が頬を撫でる。


「……楽しかった?」


「うん、すごく」


素直に答えると、瀬良は「そっか」と頷き、繋いでいた手を少し強く握った。


「なぁ、美菜」


「ん?」


「そろそろ俺のこと、新羅って呼んで?」


唐突な言葉に、美菜は思わず足を止めた。


「……え?」


「デートの時くらい、下の名前で呼んでほしい」


瀬良はなんでもないことのように言うが、美菜の心臓は一気に跳ね上がる。


「……なんで?」


「なんでって、お前の口から俺の名前、聞いてみたいから」


さらっとした言い方。でも、その言葉は思った以上に甘く響く。


「……」


美菜は戸惑いながら瀬良を見つめた。今までずっと「瀬良くん」だった。仕事の時も、プライベートでも。


「……無理?」


瀬良はそう言いながら、美菜の手を優しく撫でる。


「無理じゃないけど……恥ずかしい」


「じゃあ、今試しに言ってみろよ」


「えっ、ここで?」


「うん。ほら」


瀬良は少し屈んで、美菜の顔を覗き込む。その距離が近くて、美菜は思わず目を逸らした。


「……し……」


「ん?」


「……新羅…くん」


やっとの思いで呼ぶと、瀬良は一瞬驚いたような顔をした後、不意に微笑んだ。


「……いいじゃん」


「……もう、恥ずかしいから笑わないで」


「笑ってないよ」


「笑ってる!」


「いや、嬉しかっただけ」


そう言って、瀬良は美菜の手を引き寄せる。そのまま、ゆっくりと歩き出した。


「じゃあ、これからデートの時は下の名前呼びで」


「……ぜ、善処します…!」


「なんだよそれ」


瀬良は軽く笑いながら、美菜の髪を優しく撫でた。


「もっと呼んでいいからな」


「……考えとく」


そう言いながら、美菜は少しだけ瀬良の腕に寄り添った。


新羅くん。


心の中で何度も唱えてみる。なんだか距離が近づいていくような気がした。


(……いや、思ったより恥ずかしいな……!)


「一気には無理なので、時々そう呼ぶという事で……」


「はいはい、美菜のペースでいいよー」


真っ赤になってしまった美菜を見て、珍しく機嫌が良くなる瀬良。こんなに分かりやすく嬉しさを見せてくれるのは美菜にとっても嬉しかった。


(名前呼び……頑張らないと!)


美菜は心の中でそう決意した。


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