Episode87
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帰り道、瀬良と田鶴屋と美菜は話しながらゆっくり帰っていた。
伊月は結局約束をし、美菜に謝りながら帰っていった。
「…いや〜…なんだかドラマ見てるみたいだったなぁ」
「俺はイマイチ納得してないですけどね」
田鶴屋は頷きながらしみじみとしている。
一方瀬良は結局不貞腐れていた。
「2人ともありがとうございました。」
どこかすっきりとした美菜は2人に頭を下げる。
「まーじで何もしてないけどねぇ」
「俺も結局何もできなかったな…」
「2人が後ろに控えててくれたから怖さとかも乗り越えれたし、2人がいたから最後の話し合いができたんですよ?」
多少嬉しそうに話す美菜を見て、瀬良と田鶴屋は少し安心した。
「俺の超超超こじらせバージョンが伊月さんって感じだよねぇ〜、俺マジで変なリスナーにならないように気をつけよ」
「田鶴屋さんも結構変ですけどね」
瀬良が呆れたように言うと、田鶴屋は「えぇ〜?」と不満げに唇を尖らせた。
「俺、意外と純粋なリスナーだよ? みなみちゃんの配信、わりと最初からずっと見てたし」
「それが逆に怖いんですよ」
瀬良がため息混じりに言うと、美菜はくすっと笑った。
「田鶴屋さんは、ずっと応援してくれるリスナーさんだから大丈夫ですよ。…って、そもそも私、伊月さんが私のリスナーだったの知らなかったんですけどね」
「まあ、それが普通だろうな」
瀬良が肩をすくめる。
今回の一件で、美菜が配信者としてどれだけ多くの人に影響を与えていたのか、改めて思い知らされた。
「…でも、リスナーって怖いね。愛が重すぎるとこうなっちゃうのかぁ」
田鶴屋がしみじみと呟くと、美菜は少しだけ苦笑した。
「そうですね。でも、だからこそ大切にしないといけないとも思いました」
「…それって、まだ伊月さんのこと気にしてるってこと?」
瀬良がじとっとした目で美菜を見つめる。
「……気にはなるよ。だって、今までずっと応援してくれていた人だからね」
「ふーん……」
瀬良はどこか納得がいかないような顔をしつつも、それ以上は何も言わなかった。
「ま、何はともあれ解決ってことでいいのかな?」
田鶴屋が腕を伸ばしながら言うと、美菜は小さく頷いた。
「はい。これで伊月さんが本当に約束を守ってくれたら…ですけどね」
「大丈夫じゃない? なんか、最後の方はちょっと吹っ切れてた感じしたし」
「……そうだといいんですけど」
美菜の表情には、まだ少しだけ不安が残っていた。
それを見た瀬良は、ふと視線を逸らしながら言った。
「……もしまた何かあったら、今度は俺が止めるから」
美菜は一瞬驚いたように瀬良を見つめたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「……ありがとう、瀬良くん」
その笑顔を見た瀬良は、少しだけ視線を逸らして、「別に」とそっけなく答えた。
田鶴屋はそんな2人を見て、にやにやと意味深な笑みを浮かべた。
「おやおや〜? なんだか甘酸っぱい雰囲気じゃないですか〜?」
「……田鶴屋さん、それセクハラですよ」
「まじかっ!」
そう言い合いながら、3人は夜の街を歩き出した。
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美菜との約束を交わした翌日、伊月は何かが抜け落ちたような気持ちで目を覚ました。
あの夜、美菜に突きつけられた言葉は、今も頭の中で響いている。
「伊月さんに私が与えてきた言葉全てを否定します」
それは、伊月にとっての終わりを告げる言葉だった。
今まで支えにしてきた美菜の言葉も、優しさも、すべてを失う恐怖。
けれど、それが現実だった。
「……俺は、何をやってたんだろう」
自分のスマホを手に取り、通知を眺める。
SNSには未読のメッセージがいくつも溜まっていた。
ファンからの応援、心配の声、そして仕事関係者からの催促。
伊月は、やはり人気俳優だった。
華々しい経歴と、多くの支持を受ける存在。
けれど、彼の心はそこにはなかった。
全てを投げ捨ててでも、美菜に執着していた。
いや、正確には過去の思い出に。
「……もう、やめるか」
呟くと、伊月はスマホを操作し、マネージャーへメッセージを送った。
芸能界を引退したい
数分後、電話が鳴る。
『伊月!? 何を言ってるんだ、冗談だろ?』
「本気です。もう無理なんですよ、俺は」
『待て、考え直せ! まだお前は人気があるんだ、次の仕事だって…』
「関係ないです。もう、芝居もモデルの仕事も全部どうでもいいんです」
電話の向こうで、マネージャーが必死に説得する声が聞こえる。
けれど、伊月の心は揺るがなかった。
『お前、何があったんだ? こんな急に…』
「今までありがとうございました。これで最後にしてください」
電話を切ると、伊月は深く息を吐いた。
本当に、終わらせたのだ。
俳優・伊月海星としての人生を。
それから数日後、伊月は芸能事務所へ正式に引退の申し出をし、契約を解除した。
ニュースが報じられ、ファンの間では驚きと悲しみの声が広がった。
「伊月海星、突然の芸能界引退」
「期待の若手俳優、なぜ?」
けれど、伊月はそれらのニュースを見ることはなかった。
SNSのアカウントもすべて削除し、完全に姿を消した。
そして、最後にやるべきことが残っていた。
伊月はパソコンを起動した。
みなみちゃんのチャンネルを開き、登録を解除する。
最後の動画を再生し、少しだけ聞いた後、静かに画面を閉じた。
「ありがとう。さようなら」
それが、伊月の最後の言葉だった。
伊月はみなみちゃんの世界から完全に姿を消した。
もう、ここには戻ることはない。
美菜は友達でと言ってくれたが、自分が変わると決めた以上今はそれはできなかった。
新しい人生を歩むために――。
「もっといい男になったらまた笑いかけてくれるかな」
友達としていつか会いに行ける日がくれば…。
「はぁーーー、明日から何しようかな」
伊月は少しだけ明日の希望を探しに出かけた。




