Episode85
伊月が店の扉を押し開ける。
落ち着いた様子のまま、受付へ向かって歩いてくるが、その目はまっすぐ美菜を捉えていた。
「こんばんは、美菜ちゃん」
穏やかな口調だったが、その奥に隠された熱のようなものが、美菜の背筋を冷やす。
「こんばんは。遅い時間にすみません、お時間いただいて」
「いえ、君から直接お話があるなんて……むしろ光栄です」
微笑む伊月に、美菜は控えめな声で椅子へと促す。
「こちらへどうぞ」
伊月が座り、美菜も後に続く。
空間には緊張が満ちた。
美菜は心を落ち着けるように息を整え、正面に座る伊月を見つめた。
「……昨日のことですが」
その一言で、伊月の表情がわずかに変わる。
美菜は静かに続けた。
「どうして、私がみなみちゃんだとわかったんですか?」
伊月は数秒黙った後、困ったように笑った。
「やっぱり、それが気になりますよね」
「ええ」
伊月は腕を組み、考えるふりをしてから言った。
「直感……と言ったら信じてもらえませんよね。でも、本当に、そうなんです。最初は偶然、声を聞いたときに、どこかで聞いたことがあるような気がして。それから、仕草とか、ちょっとした言葉の使い方とか……そういうのを見ていたら、確信に変わったんです」
「それだけで、VTuberの正体がわかるとは思えません」
美菜の声が硬くなる。
「私の配信、そんなに特徴的でしたか?」
「ええ、もちろん」
伊月は微笑みながら頷く。
「みなみちゃんのファンなら、きっと誰でも気づいたと思いますよ」
——嘘。
美菜はそう確信した。
そんなに簡単に気づけるはずがない。
瀬良や田鶴屋のように毎日職場で話しているからこそ気づけるくらいなもんだ。一瞬で確信的にわかるわけがない。
彼は、何か他の情報を手にしていた。
「……それだけじゃないですよね」
美菜がそう言うと、伊月は少し目を細めた。
「どういう意味ですか?」
「誰かから、私のことを聞きませんでしたか?」
伊月は笑みを崩さなかったが、目の奥が冷たく光った。
「僕が誰かから情報をもらったとでも?」
「……違うんですか?」
伊月はゆっくりと身を乗り出し、静かに囁くように言った。
「もし仮に、誰かが美菜さんの正体を教えてくれたとしたら——それは、僕のような熱心なファンにとって、とてもありがたいことですよね」
美菜の心臓が強く跳ねる。
伊月は微笑みながら続けた。
「でも残念、そんな薄っぺらな気持ちじゃないんです。覚えてないですか?僕たちの運命的な出会い…僕は君に救われたんだよ、みなみちゃん」
——怖い。
美菜は、無意識に椅子の肘掛けを強く握りしめていた。
「……伊月さんと私はお会いした事ありましたか…?」
できるだけ冷静を保ちながら、問いかける。
伊月は一瞬固まるが、直ぐにまた笑顔に戻る。
「教えてください…私は全く覚えていません」
すると、伊月の笑みがわずかに深まった。
「いいよ、話してあげる。ずっとこうしてみなみちゃんとゆっくり2人で話してみたかったんだー。僕は幸せだよ」
「……」
「あの日、僕はもう疲れていたんだ。クソみたいな芸能界だって入りたくて入ったわけじゃない。親の借金を返すために勝手に入れられたんだ。僕の顔を利用する人達にもう疲れた。だから、この顔が許せなくて、ぐちゃぐちゃになればもう誰も僕を見なくなるんじゃないかと思ってね…飛び降りようとしたんだ。終わっても構わない。もう誰からも見られたくない、利用されたくない、そう思って僕は階段を登っていたんだ。そしたらね、天使のように可愛い女の子が僕と階段ですれ違ったんだ。そして僕の手をいきなり引いて心配そうに見つめてくれて…ね?覚えてない?君はこう言ってくれたんだよ?“ごめんなさい、大丈夫ですか?…なんか辛そうで…あ、知らない人にいきなり話しかけられて困りますよね”って。可愛かったなぁ。いきなり声を君がかけてくれたんだ。正直僕は驚いたよ。それで僕がほっといてくれって言ったらね、君はバックから缶コーヒーを出してプレゼントしてくれたんだ。“よく分からないど、あまりにも辛そうな顔をしていたので、良かったらこれでも飲んでください”って。嬉しかったんだよ?本当に。辛くて誰も気づいてもらえれなくて、怖かった。でも君は見ず知らずの俺に優しい言葉をかけてくれた。誰も気づかなかったのに君だけが気づいてくれてた。これは運命だと思ったよ。こんな天使みたいな子がいるんだって、巡り会えて感謝したさ。感謝してその日飛ぶのは辞めたんだ。君が救ってくれたんだよ?ありがとう。本当にありがとう。それから僕は君を探した。ずっと探してたんだ。探して探して探して探して探して探して、やっと見つけた。美容師さんだったんだね。お店のホームページで初めて名前を見つけた時、感動したよ。美菜ちゃんっていうのか、名前も可愛いねって。そして会いに行こうと思ったんだ。でも丁度クソみたいな仕事が立て込んでて遅くなったんだ。君を迎えに行くためにたくさんお金も稼がないといけないと思ったからね。2人で暮らすならお金はあった方がいいもんね。それでね、仕事の間なんでもいいから繋がりたくて、ネットでたくさん色々な事を探したんだ。…でも何も出てこなかった。出てこなかったからまた僕は探したんだ。君が好きそうな物、人、プロフィールに書いている少ない情報からたくさん探して、やっと見つけたんだよ。アバターはあれど、この声は美菜ちゃんだって。間違える訳がない。僕はずっとあの日の会話を毎日何千回と思い出していたからね。君の声を聞き間違いなんてしない。みなみちゃんは美菜ちゃんだった。でねでね!僕嬉しくて嬉しくてコメントしたんだ。何回かスルーされたけど何度目かで読んでくれたね。あ、スルーされたのは別に気にしてないよ?ただその読まれたコメントがね、みなみちゃんの最近のことを教えてくださいってコメントだったの。そしたらみなみちゃんは“この間とても辛そうな顔をした人とすれ違っちゃって、どうしても声をかけなきゃって思っちゃったの。変な人だと思うよね。でも救ってほしそうな…そんな顔をしてたから、思わず声かけたけど、リスナーの皆は辛いことや苦しい事があった時、良かったらこの配信で少しでも元気になればいいなーって思う事があったよ”って。僕の事を言ってくれてたんでしょ?凄く嬉しかったよ。こんなに想ってくれてるんだって。それからはずっとみなみちゃんの配信を見てたんだ。仕事中だったりしてコメントはほとんどできなかったかど、いつもみてたよ。そしてやっと会いに行こうって思ったんだけど、まずはお客として会いに行った方がいいかと思って指名して予約したんだ。でも指名ができてなかったみたいで最初は焦ったよ。結果担当してくれる事になって良かったけどね。それで…」
ずっと独りで話が止まらない伊月。
口調も変わっており、美菜は聞いていてもはや恐怖の感情しかなかった。
「…それで、瀬良って奴が邪魔だなって分かったんだ」
「……っ!」
美菜は息を呑む。
伊月の先程の輝かせた表情や瞳とは打って変わって、ドス黒い何か怒気を感じる。
「最初は美菜ちゃんの目を見て誰がどう見えてるのか分からなかった。でもあの時…僕は映っているのに全く別の人の事を考えている目だった。それが気になったんだ。だから瀬良って奴が来た時すぐ分かったよ。こいつが邪魔なんだって。」
美菜はもう何も言えずにただ聞くことしかできなかった。
恐怖。
はじめて美菜はこんな歪んだ考えの人間が現実にいるのかと疑うほどの恐怖に怯えていた。
伊月の言葉は、どんどん美菜の心を追い詰めていった。彼の目はますます冷たく、彼女を捉える視線に無邪気さは一切感じられなかった。
「瀬良くんが邪魔だって、何を言ってるんですか……」
美菜は、声を震わせながらも冷静を保とうと必死だった。しかし、伊月はその言葉に耳を貸さず、続けた。
「君が誰と一緒にいるか、何をしているか、全部見えてるんだ。君が瀬良ってやつに心を動かしてることも、すぐにわかった。だって、君の目は変わった。彼が来た時、君の目の中にあの光があった。だから僕は気づいたんだ、君が本当に誰を選ぶか、どんな人を好きになるか。」
美菜の体が固まる。彼の言葉には、単なる嫉妬や不安ではなく、何かしらの執着が滲み出ていた。彼の愛情は、もはや理性を失い、歪んでしまっている。
「でも、僕はあきらめないよ、美菜ちゃん。君を守るためなら、何だってする。だって、君が僕を必要としてくれる日がきっと来るから。」
その言葉が、さらに恐怖を呼び起こした。美菜は深く息を吸い込むが、伊月はそんな彼女を見逃さなかった。
「怖いですか?大丈夫、君を傷つけたりしないよ。君が僕を受け入れてくれる日が来るまで、ずっと待つから。君を幸せにすることが、僕の使命だから。」
その時、椅子の背もたれに手をかけて座り込むような体勢を取る伊月の目は、今や完全に冷徹だった。そして、少しでも美菜が反応すれば、それを確信に変えようとするような目をしていた。
「僕は君を一人にしない。君がどこに行こうとも、君を見守り続ける。」
その言葉の重さが、美菜の心を圧迫していった。彼の目は、まるで彼女を束縛するような、独占的な輝きを持っていた。
美菜は自分の立場が今、どうしようもないほど危険な状況にあることを理解した。彼の異常な愛情が、どれほど深いものであろうと、彼女はそれに向き合わなければならなかった。
美菜はゆっくりと口を開く。
「……それは、あなたの一方的な思い込みです。私は、そんな風に思われる覚えはない。」
伊月はその言葉を聞いても、微笑んでいるだけだった。だが、その微笑みの裏に隠れた冷たさは、まるで氷のように冷え切っていた。
「そんなことないよ、美菜ちゃん。君は僕を必要としているんだ。君の心の中で、僕の存在は確かに大きくなってる。」
美菜は、無意識に手を握りしめた。彼の言葉に押し潰されそうになる自分を何とか堪えて、深呼吸をした。
「……でも、私はあなたには何も感じていません。これ以上、私に干渉しないでください。」
その言葉を聞いた伊月の目に、一瞬、狂気が宿った。それでも、彼は冷静に、そして少しだけ寂しげな笑みを浮かべた。
「それでも、僕は待ち続けるよ。君が僕を必要としてくれるその時まで。君が僕を好きになるまで、僕は君のためにずっと守り続ける。」
美菜は立ち上がり、恐怖を感じながらも、できるだけ落ち着いて言った。
「これ以上関わるなら警察に言います。伊月さんは芸能人ですよね?マスコミにだって…」
「言えばいいよ?」
「……っ!」
「例えば僕が君をストーキングした事で捕まるとしよう。接近禁止命令が出たとしても、僕は君を迎えに行く。そして2人で暮らすんだ。誰も、何も邪魔されない世界で。マスコミに言ったところで僕は怖くない。だって僕はあんな芸能界なんか辞めたいと思ってるんだ。…でもありがたい事にお金も充分に貯まったよ。借金もなくなって、まあ君と一生困らないくらいは貯めたんだ」
美菜は、伊月の不安定な態度に心は乱れ、ただその場から逃げたい一心だった。しかし、ただ逃げることができれば良かったのだろうか。彼の心の中には、どれだけ深い闇が潜んでいるのだろうかと、怖さが募る。
「美菜ちゃん…君に近づいていると、どうしてもこの気持ちを抑えられなくなってしまうんだ」
その言葉が、美菜を苦しめる。
「もう、お願い…やめて。私が何をしても、伊月さんの気持ちにはこたえられないです…」
美菜は声を震わせながら言った。もう何度も、彼に対して冷静に伝えてきた。しかし、彼はその度に態度を変えることなく、ますます強引に近づいてきた。
話し合いの前、美菜は決心していた。彼に対して心の中で誠実に向き合い、彼が抱えているものを理解することができれば、少しでも心の中に変化を与えられるかもしれない。これ以上逃げ続けることはできない。
「伊月さんお願い。もうこれ以上、私に近づかないで」
伊月の目の前で、もう一度その言葉を繰り返す。今度は強い決意が込められていた。伊月は、しばらく黙って美菜を見つめていた。その表情に浮かんでいたのは、深い絶望と少しの驚きだった。
「…君がそう言うなら、僕がどれだけ変わっても無駄かもしれないって思うけど、でも、それでも」
伊月は、少し声を震わせながら言った。美菜の心の中では、彼の言葉がどこか虚しく響いた。それでも、何かを変えなければならないと感じたのだ。
「伊月さんの愛は本当に私のためなの…?」
美菜は、彼の目を見つめながら尋ねた。その問いには、彼の心の奥底に潜む恐怖と不安を突きつける意味が込められていた。
彼は少しの間、黙っていた。そして、ようやく口を開いた。
「…僕は君がいないと、何もできないんだ。君が僕の唯一の光だから」
その言葉を聞いた美菜は、一瞬言葉を失った。彼の中で、どれほどの孤独と恐怖が支配していたのか、それを感じた瞬間だった。しかし、その言葉には、彼が理解できていない本当の「愛」の意味が込められていなかった。
「それは違うよ、伊月さん。私が君を愛しているわけじゃない。伊月さんが私を愛しているって言うけれど、その愛には一線があるべきなの」
美菜はその言葉を、しっかりと伝えた。そして続けた。
「私はあなたの恐怖や不安を抱えることはできない。私には私の生活があって、私の道がある。それを理解してほしい」
伊月はその言葉を受け入れるのに時間がかかったが、少しずつその表情が変わり始めた。彼の中で、少しずつ理解が芽生え始めていたのかもしれない。
「わかった…君がそう言うなら、僕はもう…」
彼はうつむき、声を絞り出すように言った。
「…僕は、君が幸せになってほしい。君の気持ちを理解したい。これからは、君の邪魔をしないようにするよ」
美菜はその言葉を信じることができるのか、心の中で自問自答しながらも、少しだけほっとした気持ちになった。




