Episode84
翌日。
瀬良と美菜は並んで職場へ向かっていた。
昨夜の出来事が頭に残っているのか、美菜はどこか落ち着かない様子だったが、瀬良の隣を歩くことで少しは安心しているようだった。
「……結局、田鶴屋さんに直接話すってことでいいんだよな」
瀬良が確認するように言うと、美菜は頷く。
「うん。もう、ちゃんと話しておきたいから……」
伊月海星が、みなみちゃんの正体を知っていた。そのことを知る数少ないリスナーの一人が田鶴屋——タヅルだった。
もし、どこかから情報が漏れているのだとしたら、彼が何か知っている可能性もある。
「田鶴屋さんが何か知ってるとは限らないけど……どの道仕事中の出来事も絡んだ事だし、事情を話しておくのは必要だな」
「そうだね」
やがてサロンに到着し、二人は店内へ入った。
すでにスタッフたちは準備を始めており、田鶴屋は受付近くでタブレットを操作していた。
「おはようございます」
美菜が声をかけると、田鶴屋は顔を上げ、二人を見て少し驚いたように眉を上げた。
「おはよう。……珍しいな、二人一緒に来るの」
「少しお時間をいただけますか。お話ししたいことがありまして……」
「おっ、結婚の報告とかじゃな…」
田鶴屋は冗談を言おうとしたが、瀬良と美菜の様子を見てタブレットを閉じた。
「いいよ。場所変えて話そうか」
「ありがとうございます」
三人は早くから営業している喫茶店へ移動する事にした。
***
田鶴屋は椅子に腰掛け、腕を組んで二人を見やった。
「それで、話って?」
美菜は一度息を整えてから、昨日起こった出来事を説明した。
伊月海星という男が店に来店した事、美菜の頬に触れ危険と判断した瀬良が施術を変わった事、美菜がみなみちゃんと知っている事…そして、それが偶然とは思えない事——。
一通り話し終えると、田鶴屋は少し考え込むように目を細めた。
「……それ、身バレについてはさ、本当に伊月海星が自分で気づいたと思う?」
「……え?」
「普通、いくらファンでも、VTuberの正体を特定するのは簡単じゃないよ。俺みたいに、昔からずっと追いかけていたならまだしも……昨日今日で分かるものじゃない」
「……つまり、誰かが情報を流した可能性がある、ということでしょうか」
瀬良が低い声で言うと、田鶴屋はゆっくりと頷いた。
「そう考えるのが自然だな。少なくとも、俺は誰にも話していない。美菜ちゃんがみなみちゃんだって気づいたのは、偶然だったし……それに、わざわざ他人に言う理由もない。みなみちゃん大好き古参リスナー舐めんなよォ?」
「……ですよね」
美菜は唇を噛んだ。
「けれど、そうなると……一体誰が……」
沈黙が落ちる。
誰かが意図的に情報を流したのだとしたら、その目的は何なのか。
単なる興味本位なのか、それとも——。
「……それだけじゃないんです」
美菜が小さな声で呟いた。
田鶴屋が視線を向ける。
「伊月さん、私のこと……ストーカーみたいに付け回してて、昨日…襲われかけて…瀬良くんが助けに来てくれたから良かったですけど…」
「……何?」
田鶴屋の表情が一変した。
美菜は、昨日の帰り道に後をつけられていた事、直接自宅を特定されたらいけないので瀬良の家に泊まらせてもらった事を話した。
瀬良が険しい顔で続ける。
「昨日は俺の家に泊まらせました。つけられてる可能性もあったので……まだ確定ではないですが、放置できる状況じゃない」
田鶴屋は腕を組み、低く息を吐いた。
「……それは、ただの偶然とかじゃなくて、明らかに狙われてるな」
「はい……」
美菜の声が少し震える。
「……とりあえず、警察には?」
「まだ……でも、次何かあったらすぐに相談しようと思ってます」
田鶴屋はしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「河北さん、仕事の後は誰かと一緒に帰るようにしなさい」
「……はい」
「瀬良、お前もなるべく付き添ってやれ」
「もちろん、そのつもりです」
田鶴屋は少し目を伏せ、考え込むように指を組んだ。
「……伊月海星、直接話をするしかないな。」
「田鶴屋さん……」
「ただ、下手に刺激するのもよくない。慎重にやるべきだ」
美菜はぎゅっと手を握った。
「……できれば私だけで話したいので、良かったら2人は隠れて見ててくれませんか?危ないと判断したら入ってきて欲しいです」
「…分かったよ」
「本当に危なかったら俺は迷わず警察呼ぶからな」
まだ、不安はある。
けれど——何もしなければ、何も変わらない。
美菜はそっと拳を握りしめた。
***
営業後、3人は伊月をどうやって呼び出すか相談していた。
「やっぱり直接電話しましょうよ」
「カルテに書いてるこの番号にかけてみる?」
「そうだねぇ。先手を打たれる前に呼び出したいよね」
店に呼び出すなら安全だろうと3人は話し合った。
ここなら監視カメラもついているので最悪は証拠にもなる。
もちろん様々な対策はするが、まずは伊月自体が来てくれるかが問題だった。
「…私が直接電話して、来てくれるか聞いてみます。みなみちゃんのファンなら、私が呼び出すと来るんじゃないでしょうか…?」
「やっぱりそうだよな」
瀬良としてはもう美菜に何も関わって欲しくなかったが、当事者は美菜なのでそういう訳にもいかない。
3人は恐る恐る電話をしてみる事にした。
美菜は深呼吸をし、カルテに記載された番号を見つめる。
指先がかすかに震えているのを自覚しながらも、覚悟を決めて発信ボタンを押した。
コール音が鳴る。
1回、2回——。
「……はい?」
伊月海星の声が聞こえた。
美菜は一瞬息をのんだが、なるべく冷静を装って口を開く。
「伊月さん、こんばんは。突然すみません、美菜です」
電話の向こうで、微かな息を呑む音がした。
「……美菜ちゃん?あぁ、みなみちゃん?どうしたんですか?」
その声には驚きと、どこか嬉しそうな響きがあった。
「お話ししたいことがありまして……お時間をいただけませんか?」
「えっ……僕とですか?」
「はい。色々少しお話ししたくて……できれば、今営業後で誰もいないのでお店に来ていただけると助かるのですが」
数秒の沈黙。
やがて、伊月の声が少し弾んだように返ってくる。
「もちろん、行きますよ。今から向かいます」
美菜は小さく息を吐いた。
「ありがとうございます。お待ちしてますね」
通話を切ると、田鶴屋と瀬良がすぐに視線を向けてきた。
「どうだった?」
「来るって言ってました……すぐに」
瀬良が腕を組み、険しい顔をする。
「……警戒しとけよ」
「はい……」
田鶴屋は静かに息を吐き、店内のカメラの位置を改めて確認する。
「俺と瀬良くんは見えない所でちゃんと待機してるから。河北さん、無理しなくていいからな」
美菜は頷く。
「……ありがとうございます」
時計を見ると、すでに約束の時間が近づいていた。
やがて、ガラス扉の向こうに、一人の男の姿が見えた。
伊月海星。
美菜は、小さく拳を握りしめた——。




