Episode82
***
数分前━━━━━━━━。
瀬良は雑務を片付けながら、スマホで伊月海星について調べていた。
人気モデル、俳優。恋愛のスキャンダルはなし。誰にでも優しく、共演者やスタッフ、視聴者からの好感度も高い。
気持ち悪いほど悪い記事が出てこない。
(……考えすぎか?)
自分の勘を信じるべきかどうか、判断がつかなかった。
その時——。
「え!?瀬良先輩がいる!?!?…なんで美菜先輩を送ってあげてないんですか!?」
突然の大きな声に、瀬良はスマホから顔を上げる。
そこには、帰り支度を整えた千花が、信じられないとでも言うように睨みつけていた。
「……は?」
「は?じゃないですよ!瀬良先輩、何で美菜先輩を一人で帰したんですか!」
いつもの明るく朗らかな千花とは違う、真剣な剣幕だった。
「……いや、別に」
「別に、じゃないです!今日あんなことがあったのに、普通送るでしょ!?私、てっきり瀬良先輩が送ると思ってました!」
「……」
千花は続ける。
「私、瀬良先輩と美菜先輩、付き合ってるって知ってましたよ……だから、今日は当然瀬良先輩が一緒に帰るんだろうなって」
瀬良は言葉に詰まる。
(……知っていた…いや、気づいてた上で何も言わずに接してくれていたのか…)
それはともかく——。
千花の言葉が、瀬良の中にあった違和感をはっきりと形にした。
(……アホか、俺は)
今日、あんなことがあったんだ。
送るべきだったに決まっている。
美菜が大丈夫だと言ったからといって、それで済む話じゃない。
(……今なら追いつける)
胸騒ぎを感じながら、瀬良は走り出した。
千花の驚く声が背後で聞こえたが、気にしている暇はなかった。
(頼む、何も起きていないでくれ——)
そう願いながら、夜の道を駆け抜けた。
***
「美菜!!」
力強い声が闇を裂くように響いた。
美菜は反射的にそちらを向く。街灯の薄暗い光の中、見慣れたシルエットがこちらに向かって駆けてくるのが見えた。
「瀬良くん…!」
ほっとした瞬間、伊月の手が強く美菜の腕を掴む。
「……え、ちょっと、」
「まだ話してる途中なんだけどなあ」
伊月の声音は柔らかいままだったが、その指先に込められた力は、美菜が逃げ出すのを許さない。
「離せ」
低く、冷たい声。
瀬良がすぐ目の前に立っていた。
「えー?急に乱暴だなあ、瀬良さん」
伊月はまるで困ったように肩をすくめる。
「俺、ただみなみちゃんとお話ししてただけなんだけど」
「美菜が嫌がってるのが分からないのか?」
瀬良の視線は鋭く、敵意に満ちていた。
「そんな怖い顔しないでよ。俺、みなみちゃんのファンなんだよ?やっと会えたんだから、少しくらい話してもいいじゃん」
「……お前」
美菜の肩がわずかに震える。
瀬良の表情が変わったのが分かった。
「……なるほどな」
確信したように呟くと、瀬良は伊月の手を鋭く払った。
「痛っ」
伊月はわざとらしく手をさすりながら、美菜の方をちらりと見る。
「そんなに怖がらなくてもいいのに。せっかく会えたのに残念だなあ」
「二度と美菜に近づくな。マスコミに言ってもいいんだぞ。」
「……」
瀬良の静かな圧力に、伊月は数秒だけ沈黙した。
だが、次の瞬間にはまた笑みを浮かべる。
「……うん、今日は帰るよ。でも、またね、みなみちゃん」
そう言い残し、伊月はすっと踵を返して闇の中へと消えていった。
「……っ」
美菜はその場に崩れそうになる。
瀬良がすぐに腕を支えた。
「大丈夫か」
「……うん、でも……怖かった」
震える声で答える美菜を、瀬良は静かに見つめた。
「……1人で帰してごめん…」
「あ、謝らないで!大丈夫だよ!気にしないで!」
「全然大丈夫じゃなかった」
瀬良の声は、いつもより優しく、どこか悔しそうだった。
「……送る」
「ありがとう…そうしてくれると嬉しいな」
「あんな事があってこのまま帰らせるわけないだろ」
美菜は少しだけ笑いながら瀬良の手を握る。
「……助けてくれてありがとう、瀬良くん」
「当たり前だろ。それより行くぞ」
そう言って瀬良は歩き出す。
美菜の歩幅に合わせて瀬良は手を握り返した。
夜の寒さが肌に刺さる。
けれど、さっきまでの凍えるような恐怖は、少しだけ和らいでいた——。




