Episode81
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伊月海星の一件が落ち着き、店内の空気も普段通りに戻った。
瀬良はシャンプー台の片付けをしながら、さりげなく受付の方を確認する。美菜は特に変わった様子もなく、千花と話しながらカルテを整理していた。
(…まあ、大丈夫そうだな)
少しだけ安堵しつつも、瀬良の中にはまだ違和感が残っていた。
(にしても…伊月海星が、なぜここに?)
もちろん、ただの偶然という可能性もある。だが、あまりに不自然だった。美菜もスタッフも伊月の知り合いや友人ではなかった。
本当にたまたま来ただけなのだろうか…?
(……まさか、美菜のことを知ってて来たのか?)
瀬良の頭に、一瞬だけそんな考えがよぎる。
だが、確信はない。ただの勘に過ぎない。
瀬良はかなり疑い深い。
そして考察能力が高い。
自分の感が当たるなら、昼間に知った“みなみちゃん”関連かもしれない…。
「瀬良先輩〜、そっち手伝いましょうか?」
千花の声に思考を中断され、瀬良は軽く頷いた。
「問題ない。そっちも終わったら上がっていいぞ」
「はーい!美菜先輩も、もう少しで終わります?」
「うん、あとちょっと」
千花と美菜が和やかに話しているのを横目に、瀬良は無言で道具を片付ける。
(……まあ、考えすぎかもしれない)
そう思いながらも、完全に警戒を解くことはできなかった。
***
その日の営業が終わり、美菜は帰ろうとしていた。
「美菜」
名前を呼ばれて振り向くと、そこには瀬良が立っていた。
「帰るのか」
「うん。瀬良くんは?」
「もう少し残る。今日は色々あったしな」
「そっか…」
美菜は少し躊躇うように足を止めた。
「……今日は助けてくれてありがとう」
「気にするな。俺が気になっただけだ」
「でも、瀬良くんがあそこまでしてくれるなんて、ちょっと驚いた」
「…まあ仕事だからな」
そう言いながらも、瀬良の目はどこか鋭かった。
「…伊月、また来るかもしれない」
「え?」
「たぶん、あいつは美菜の事何かしら知ってる」
「……そんなこと、あるのかな」
「あるさ」
瀬良は確信めいた口調で言った。
「美菜、何かあったらすぐに言えよ」
「うん…」
美菜は少しだけ不安そうに頷いた。
瀬良はその表情を見つめながら、もう一度心の中で決意を固めた。
(伊月が何を考えていようが、俺は美菜を守る)
その想いが、静かな夜の空気に溶けていった——。
***
夜の冷たい空気が肌を刺す。
店を出て数分、美菜は人通りの少ない道を歩いていた。普段ならなんてことのない帰り道。けれど、今日はどこか落ち着かない。
まるで誰かに見られているような、そんな気がする。
首元を軽く擦りながら、美菜は気のせいだと言い聞かせる。
「……こんばんは、みなみちゃん」
突如、すぐ後ろからかけられた声に、心臓が止まりそうになった。
(どうして?)
そんなはずはない。VTuberとしての自分を知る人間が、現実で自分を呼ぶことなど。
しかし、どこかで聞いたことのある声だった。
「……え?」
恐る恐る振り向くと、そこにいたのは伊月海星。
昼間、美容室に来たばかりのはずの男が、まるで待ち伏せしていたかのように、楽しげな微笑みを浮かべて立っていた。
「……伊月さん?」
「あ!名前覚えてくれたんだね。嬉しいなあ。普段は名前は呼んでもらえないもんね。ふふ、やっとみなみちゃんが近くにいる。やっぱり会いに来て良かったなあ…」
柔らかい口調。しかし、その言葉には異様な執着が滲んでいた。
美菜は本能的に危険を感じる。
(逃げなきゃ…)
そう思うのに、足が動かない。声も出せない。
「昼間はごめんね?でも、ちゃんと迎えに行くなら色々確認しておこうと思ってね」
何を言っているのか、理解できなかった。
迎えに行く?確認?
その意味を問いただすよりも先に、ゆっくりと首元に伸びてくる手の感触に、吐き気がこみ上げる。
絶対にやばい。
美菜は震える声で、できる限り冷静に言葉を紡ぐ。
「……伊月さん、申し訳ございませんが、何を言っているのか分かりません。手を離していただけますか?」
伊月は少し寂しそうに眉を下げた。
「そんなに警戒しないでよ。俺はただ、みなみちゃんを見つけて会いに来ただけなのに」
やはり、確信に変わる。
——この男は、みなみちゃんとしての自分を知っている。
つまり、伊月海星は…ストーカーだ。
「………みなみちゃん、首元からドクドクって早い脈の音が伝わるよ……緊張してるの?やっぱりはじめましてだからだよね」
優しげな声音とは裏腹に、その言葉は恐怖を煽るものだった。
話が通じない。
美菜はあまりの怖さに、ますます声が出なくなる。
(………たすけて、瀬良くんっ……)
心の中で必死に助けを求める。
頼むから、今すぐここに来て——!
そう願った、その瞬間……
「美菜!!」
鋭い声が夜道に響いた。




