Episode80
「お客様に失礼があってはいけないからな」
そんな適当な理由をつけながら、瀬良は伊月海星の施術席へ向かう。
千花は焦ったように後を追おうとしたが、瀬良の足は速かった。
「失礼いたします」
努めて平静を装いながら、美菜と伊月の間に入るように立つ。
美菜が驚いた顔でこちらを見上げた。
「瀬良くん?」
「悪い、河北さん。指名のお客様がどうしてもと仰って受付で待ってるから行って対応してくれるか?…伊月様のカットは、俺が引き継ぐから」
「え、でも——」
「このお客様から指名は受けてないし、俺がやっても問題ないよな」
「え…そういうもんなの!?」
動揺する美菜。
こんな事初めてだ。
すると伊月が楽しそうに口を開く。
「いーよ。君がこの子の代わりに切ってよ。今から君を指名してあげる」
「…ありがとうございます。担当変わります瀬良です。よろしくお願いします。」
瀬良は伊月を正面から見据える。
伊月は微かに口角を上げたまま、面白がるように瀬良を見返していた。
「別に、誰が切ってくれても構わないよ」
「そうですか、良かったです」
淡々とした態度で答えつつも、瀬良の目は冷たく光っている。
そのまま、美菜の肩にそっと手を置いた。
「……受付に行ってくれ、頼む」
瀬良がわずかに力を込めると、美菜は戸惑いながらも「わかった」と小さく頷いた。
瀬良の意図を察したのか、それ以上は何も言わず、美菜は受付に向かった。
その様子を見送りながら、伊月はくつくつと笑った。
「へえ、なかなか独占欲が強いんだね」
「……何のことでしょうか」
瀬良はハサミを持ち直しながら、鏡越しに伊月を見つめる。
「仕事中ですので」
ハサミが鋭く光り、軽やかな音を立てながら動き始める。
だが、その刃先には僅かに力が込められていた。
(……伊月海星、ね)
こいつが何を考えているかは分からない。
だが、少なくとも美菜に対して無関心ではないのは確かだった。
(美菜に手を出すなら……容赦はしない)
瀬良は無言でハサミを走らせながら、静かに警戒を強めていった——。
***
伊月は楽しげな様子で目の前の鏡に映る自分をじっと見つめている。
その視線を感じながら、瀬良は言葉を選んで少しだけ冷徹に告げる。
「不快な思いをさせたくないので、無駄なことはしないでください」
伊月が目を細め、ほんのりと皮肉っぽく笑う。
「君、なかなか面白いね。全然顔に出ないけど、気になるって言ってるのは分かるよ」
瀬良は一瞬だけ伊月を見つめ返したが、すぐに冷静を保ち、ハサミを握り直す。
「勘違いしないでください。ただ、無駄なトラブルを避けたいだけです」
鏡越しに瀬良の目を追う伊月。その顔にわずかな違和感を感じたのか、伊月は不意に質問を投げかけた。
「君、あの子のこと、どう思ってるの?」
「…どうというのは?」
「まあ、別にいいか。今はカットをお願いしようかな」
伊月は面白そうに肩をすくめて言う。
瀬良はその問いに少しだけ戸惑ったが、すぐに態度を変えることなく、淡々とカットを進めていく。
実際ここで美菜と付き合っているともう言ってやりたい。付き合っているのだからいきなり出てきて人の恋人の頬に触れるな、と言ってやりたい気持ちを隠してカットを進める。
社内恋愛はスタッフにバレるのはまずいが、お客様にバレるのはもっとまずい。
変な口コミを書かれたり、最悪はネットに書かれて店も自分も美菜も信用度がガタ落ちしかねない。
瀬良はなんとか冷静に秘密を守ることにした。
「特に何もありません」
「ふーん。君、鈍感そうだもんな」
「………」
「今日彼女を本当は指名して予約取ろうと思ってたんだけどさ、指名できてなかったみたいで。でも丁度空いてるからって入ってくれて嬉しかったよ」
「…それなのに俺の方を指名に変えてくださってありがとうございます」
「いえいえ。…………今日は見に来ただけだしね」
(……見に来ただけ?)
一瞬、伊月が再び楽しそうに笑ったのを、瀬良は引っかかりながらも無視してカットに集中する。
それでも、心の中ではあと少しのところまで混み上がってきていた。
(美菜に寄る変な虫は早めに駆除しないとな…)
その想いが、手元のハサミにすべて込められているような気がした。
しかし、そんな静かな戦いの中で、瀬良は冷静に考える。
(この伊月ってやつ、何か隠してるな)
その直感を信じて、瀬良はさらに慎重に作業を進めながら、伊月の言動に対して警戒を続ける。
時間が過ぎ、カット中、伊月は何か独り言をぶつぶつと言っていた。瀬良にはギリギリ聞こえず、何と言っているか分からないが正直瀬良はその行動を気持ち悪く感じていた。
そしてカットの作業がほぼ終わろうとした時、伊月が再び口を開く。
「…君、まさか彼女の恋人じゃないよね?」
その問いに、瀬良の指がほんの少し止まる。
ぶつぶつ独り言を言っていたと思ったらいきなり不躾な質問だ。
鏡越しに伊月を見つめたが、その目には確信を持ったような、意味深な怒りが浮かんでいた。
「……なぜそう思うんですか?」
「まあ、そう思わないほうが不自然だよ」
その言葉に、瀬良の心の中に微かな苛立ちが生まれる。
だが、すぐに冷静さを取り戻し、言葉を返す。
「恋愛とか、そういった個人のプライベートな事やプライバシーな事は伝えできませんが、河北さんと変わったのは同性である自分が適任だと思ったからです。トラブルを早期に避けるため、正直見ていて止めに入るべきと判断しました。お客様からのハラスメントはかなり問題になりますので。」
「ふーん、そういう感じか」
伊月は納得したのか、少し肩をすくめてから、再び鏡に映る自分を見つめた。
その視線の奥に、何か企みがあるのを感じた瀬良は、心の中で警戒をさらに強める。
(こいつ、やっぱり気持ち悪いな…)
仕事を終わらせ、カットが完了したことを告げる。
「終了しました。後ろ、確認してください」
伊月は鏡の中で自分を確認し、にっこりと笑って言った。
「ありがとう、君の技術には感謝してるよ。」
その言葉に、瀬良は軽く頷きながら答える。
「ありがとうございます。お気をつけて」
その後、伊月は悠然と席を立ち、支払いを終えて店を後にした。
瀬良はその後ろ姿を見送りながら、再び静かな息をついた。
(大きなトラブルにならなくて良かったな…)
そして、しばらくしてから、瀬良はふと気づく。
「…そもそもなんで芸能人がうちの店に来たんだ?」
モデルなら専属スタイリストがいるかもしれない。
いなくてももっと名の知れた美容室だったり、行きつけの美容室があるはずだ。
芸能人である伊月がここに来る意味がわからなかった。
単なる気まぐれだろうか…?
色々考えてしまう瀬良。
そして心配になって受付に向かうと、そこにいた美菜は少しホッとした表情で振り返った。
「瀬良くん、千花ちゃんから聞いたよ。心配して代わってくれたんだね。」
その言葉に、瀬良は軽く微笑んで頷いた。
「あれは客からのハラスメントだ。許可なく触るのはNGだし、この前の件もあるから変な客は客としてみないって俺は思ってる」
「まあ…ね」
従業員を守るのは会社の方針だ。
確かにあの場合、トラブルになる前に瀬良が変わったのは正解だったのかもしれない。
「田鶴屋店長には俺から報告しとくから」
実は田鶴屋は現状店にいなかった。
突如開かれた店長会に急いで出かけていた。
なんともタイミングの悪い人だ。
(俺で対応できて良かったな…)
瀬良は最善策だったかどうかは分からないが、何事もなく終わって良かったとは思えた。
だが、内心ではまだ警戒心を解いていない。
伊月海星の行動には、何かしら裏がある。
根拠はないが、そんな気がして仕方なかった…。




