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Episode79



「じゃあ、そろそろ仕事戻るか」


瀬良が立ち上がり、軽く伸びをする。

その流れで、田鶴屋も紅茶のカップをテーブルに置いた。


「そうだね。午後の予約、結構詰まってるし」


美菜も立ち上がりかけたが、隣の木嶋がまだ何か言いたそうな顔をしているのが気になった。


「……ほんとにサインだめぇ?」


「だめ」


瀬良が即答する。


「えぇぇぇ……美菜ちゃん、あとでこっそり書いてくれない?」


「えっ、それは……」


美菜が戸惑っていると、田鶴屋がふっと笑った。


「まあまあ、そんなにほしいならまた今度、機会があったらってことで」


「えぇぇぇ……」


明らかに不満そうな木嶋だったが、これ以上ゴネても仕方がないと悟ったのか、しぶしぶ立ち上がった。


「じゃあ、仕事戻るかぁ……」


美菜もホッと息をつき、スタッフルームを出ようとした。


すると、横を通り過ぎる瞬間、瀬良がぼそっと呟いた。


「……俺も貰おうかな」


「え?」


思わず足を止めた美菜に、瀬良はわずかに目をそらしながら付け足す。


「……みなみちゃんのサイン」


「……」


美菜はぽかんと瀬良の顔を見つめた。


(え、何それ……)


驚きと戸惑い、それからじわじわと湧いてくる嬉しさと気恥しさ。


瀬良がぽんっと頭に手を置いてクスリと笑う。


「……じょーだん」


「えっ!?あっ!冗談ね!!」


短いやり取りを交わし、4人はそれぞれの持ち場へ戻っていく。


美菜は胸の奥が少しくすぐったい気持ちになりながら、午後の仕事へ向かった——。



***



美菜は身バレしたことを気にするのをやめ、むしろ開き直って仕事に打ち込むことにした。そう決めてから数時間後、店には新規の予約客が訪れた。


伊月海星(いづきかいせい)様ですね。担当させていただきます、河北です」


席へ案内しながら、何となく違和感を覚える。どこかで見たことがある気がするのだ。


カウンセリングを進めつつ、記憶をたどっていると、ふと背後を通った千花が足を止めた。


「……っ!」


目を見開き、口をぱくぱくと動かしているが、声にならない。

いや、正確には、驚きすぎて声が出なかったのだろう。


(え、何?)


不審に思っていると、千花はそっと後ずさり、そのままカウンターの向こうへと消えていった。


「何か?」


目の前の客——伊月海星が、美菜を見つめる。


(…あ……!そういうことか)


ようやく美菜は、彼の正体を思い出した。

伊月海星。モデル兼俳優。テレビや雑誌で見たことがある、あの華やかな世界の住人。


(だから千花ちゃん、あんな反応してたんだ……)


美菜は密かに納得しながら、カットに取りかかる。


「髪、結構伸びてますね。前回のカットからどれくらいですか?」


「さあ、覚えてない」


「そうなんですね……」


ふわりとした口調。物腰は柔らかいが、その余裕のある態度がどこか瀬良に似ている気がする。

考え方や話し方の端々に、瀬良特有の飄々とした雰囲気を感じるのだ。


(でも瀬良くんほどぶっきらぼうではないし……うーん、でもやっぱり似てるかも……)


そんなことを考えながら手を動かしていると、不意に、彼の声がすぐ近くで響いた。


「……俺以外のこと考えてる?」


「え?」


驚いた瞬間、美菜の頬に手がふれる。


「っ……!」


思わず息をのむ。

顔を覗き込まれ、視界いっぱいに伊月海星の端正な顔立ちが広がった。

放たれる圧倒的なオーラに、美菜は完全に固まってしまう。


(…すごい、これが芸能人の顔か…)


美菜はあまりにも整いすぎた顔に興味を持ってしまう。


(卵型の美形、フェイスラインも綺麗、目は大きくて写真写りが良さそう……。圧倒的に撮られるためにある顔だな…。カットモデルでうちの店で撮りたいくらい…)


美菜は真剣に考えていると伊月がその大きな瞳で美菜を見つめながらおもむろにつぶやく。


「……君、モデルとか興味無い?」


彼は何かを確かめるように、美菜の瞳を一直線に覗き込んでくる。

その目は、からかうようでいて、それでいて探るような色を帯びていた。


美菜はどう反応していいのか分からず、ただ唖然とするばかりだった。


そしてカウンター越しに覗いていた千花は震える声で言った。


「……事件です……!」



***



カウンター越しに隠れて何かを覗いている千花を不思議に思い、瀬良は千花に声をかける。


「何してんの…?」


千花から「事件です」とだけ言われ、詳細を聞く前から嫌な予感がしていた。

そして案の定、聞けば聞くほど気分が悪くなるような話だった。


——美菜が、新規の客に顔を覗き込まれていた。

——しかも相手は俳優兼モデルの伊月海星。

——さらに「俺以外のこと考えてる?」なんて言われた上に、手を頬に添えられている。

━━モデルのスカウトまでされた。


「……は?」


千花から詳細を聞いて言葉にできない感情が喉元までこみ上げる。

まるで胃の奥底に重たい鉛を詰め込まれたような感覚だった。


「なあ伊賀上」


「な、なんでしょうか…?」


「その伊月とかいうやつのしてる事って客からのハラスメント行為だよな?」


「えっ、そ、それは……!?」


千花が明らかに動揺する。

自分から情報を与えたのだから仕方がない。

仕方がないのだが、千花が初めて見る瀬良の怒り顔だった。


それもそうだ。今の瀬良の雰囲気が、普段の気だるげなものとは違う。誰がどう見ても怒っている。


「いや、さすがに接客中に手出しはしない」


そう言いつつ、右手で無意識にお揃いで買ったハサミを握りしめる。

大丈夫だ、仕事はちゃんとする。プロとして。


だが、それとは別に、どうにかして伊月海星を牽制しなければならない気がしてならなかった。


(……あいつ、絶対美菜に興味持ってる)


俳優だろうがモデルだろうが関係ない。

どこの誰であろうと、美菜に手を出そうとするなら——


「……瀬良先輩…?」


「悪い、ちょっとだけ手が滑るかも」


千花の顔が一気に青ざめる。


「ちょ、だめだめ!お客様!お客様だからね!?」


「分かってるよ、嘘嘘」


分かってはいる。

だが、どうやって止めるかはまだ決めていない。


とりあえず——


(カット、俺がやるしかないな)


そう決意し、美菜の担当を強引に奪うべく、瀬良は足を踏み出した。


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