Episode71
午後の施術がひと段落し、美菜はスタッフルームで軽くストレッチをしていた。忙しい日は立ちっぱなしで体がこわばるので、こうして休憩時間に軽くほぐすのが習慣になっている。
「……それ、意味あるの?」
何気なくかけられた声に振り向くと、瀬良が缶コーヒーを手にしながらドアにもたれていた。
「あるよ。肩とか腰とか固まると疲れやすくなるし、頭痛の原因にもなるし」
「へぇ……」
瀬良は興味があるのかないのか、曖昧な相槌を打ちながら近くの椅子に座った。
「瀬良くんは?ストレッチとかしないの?」
「しない」
即答だった。
「でも肩こりとかあるでしょ?美容師って手も腕も酷使するし」
「まあな。でも別に、放っておいてもなんとかなるし」
「……ほんとに?肩、ちょっと触ってもいい?」
「は?」
瀬良が不審そうに眉を寄せたが、美菜は気にせず手を伸ばした。
「ちょっと力抜いて」
「……」
渋々了承したのか、瀬良は軽く肩を落とした。美菜は指先で軽く押してみる。
「……固っ!」
驚いて思わず声が出た。
「瀬良くん、これヤバいよ。もうガチガチ。よくこれで仕事してるね」
「別に、慣れてるし」
「慣れる問題じゃないでしょ……。ちょっとそのまま」
美菜は軽く肩を揉みながら、圧を加えるポイントを探った。
「……痛くない?」
「いや」
「ほんと?」
少し強めに押してみる。瀬良の肩が微かにぴくっと動いた。
「痛いなら痛いって言っていいんだよ」
「別に……」
とは言いつつ、顔が少しだけこわばっている。
「……やっぱり痛いんじゃん」
美菜は呆れつつ、優しく力を緩めた。
「瀬良くん、ストレッチしたほうがいいよ。マッサージに頼るのもいいけど、普段からケアしないと」
「……面倒くさい」
「またそれ。じゃあ、仕事終わったらちょっとだけ教えてあげようか?」
瀬良は一瞬、美菜の顔を見て、それからふっと視線を逸らした。
「……職場では恥ずいから俺の家でなら……」
その返事を聞いて、美菜は小さく笑った。
「じゃあ、仕事終わったらね」
瀬良は何も言わなかったが、そのまま席を立つと、缶コーヒーを持って部屋を出ていった。
(ふふ、素直じゃないんだから。きっと痛がってる姿をみんなに見られたくないんだな!)
そんな瀬良の反応に、少しだけおかしさを覚えながら、美菜はストレッチの続きを始めた。
***
仕事終わり、瀬良の家に寄ることになった美菜は、少しだけ落ち着かない気持ちでいた。
(まあ、今日は疲れてる瀬良くんを癒すために来たわけだし……別に大丈夫よね?)
そう自分に言い聞かせながら、瀬良の後ろをついて部屋に入る。
「適当に座ってて」
瀬良がそう言いながら、カウンターに鍵を置く。相変わらずシンプルで無駄のない部屋だ。
「じゃあ、早速始めようか」
美菜がソファに腰を下ろすと、瀬良は少し面倒くさそうにしながらも、美菜の前に座った。
「まず、肩回してみて」
瀬良は言われた通りにゆっくり肩を回す。美菜はその動きをじっと観察した。
「うーん、可動域が狭いね。やっぱり凝ってる」
「別に困ってないし」
「今はね。でも放っておくとひどくなるよ」
そう言いながら、美菜はそっと瀬良の肩に手を置いた。
「ちょっと押すよ。力抜いて」
「……ん」
指でじんわりと圧をかけると、瀬良の体がわずかに強張る。
「力入ってる」
「……別に」
「はい、息吸ってー……吐いてー……」
「……」
瀬良は少し息を吐き、美菜の指に合わせて肩の力を抜いた。
「そうそう。じゃあ、ここからストレッチね」
美菜は瀬良の腕を軽く持ち上げ、ゆっくりと後ろに伸ばす。
「痛かったら言ってね」
「……大丈夫」
「瀬良くん、体硬いね」
「そうか?」
「うん。こういうの、普段からやらないと柔らかくならないよ」
「別に柔らかくなくても困らないし」
「じゃあ、今日で終わりでいい?」
「……」
沈黙。
美菜はクスッと笑った。
「もう少し続けてみてもいいんじゃない?」
瀬良は何も言わなかったが、黙って美菜の動きに従っていた。
(素直じゃないけど、ちゃんとやるところが瀬良くんらしい)
そんなことを思いながら、美菜はゆっくりとストレッチを続けた。
***
美菜が瀬良の肩をほぐし終えたころには、すっかり夜も更けていた。
「ふぅ……こんな感じで、ちょっとは楽になった?」
「まあな」
瀬良は肩を回しながら、軽く息を吐く。少しは効果を実感しているようだった。
「じゃあ次は――」
「お返し」
「え?」
美菜が言い終わる前に、瀬良がさらりと言った。
「俺だけやってもらうのは悪いし。ほら、そっち座れ」
「え、いいよ別に。私は大丈夫――」
「さっきまで俺の肩ガチガチとか言ってたけど、美菜も相当だろ」
そう言って瀬良は美菜の手を取り、ラグの上に座らせた。
「ちょ、瀬良くん?」
「じっとしてろ」
美菜が反論する間もなく、瀬良の手が肩に触れる。
「……」
指先がゆっくりと首筋をなぞりながら、肩の付け根を押していく。力加減はちょうどよくて、思わず小さく息を漏らした。
「……うん、やっぱりこっちも固い」
「そ、そんなこと……っ」
「力抜けよ」
瀬良が低い声で言いながら、親指でゆっくりとツボを押す。その感触があまりに心地よくて、美菜は抵抗する気が失せた。
「ん……」
自然と肩の力が抜ける。
「ほら、素直に気持ちいいって言えばいいのに」
「うるさい……」
頬が少し熱くなったのを感じた。
「次、背中」
「え?」
「前屈みになって」
「え、いや、それはちょっと――」
「拒否権ないから」
そう言って瀬良は美菜の肩を軽く押し、自然と前に倒れる体勢を作る。
「ちょっ、瀬良くん……!」
「じっとしてろって」
囁くように言うと、そのまま美菜の背中を指先でゆっくりと押しながら、肩甲骨のあたりをほぐし始める。
「……くすぐったい……」
「でも、効いてるだろ」
確かに、じわじわと体がほぐれていくのを感じる。でも、それ以上に――
(なんか……距離近くない?)
背後から覆いかぶさるように触れられているせいで、瀬良の体温や微かな息遣いまで感じる。
「……瀬良くん、ちょっと近い……」
「そりゃ、マッサージするには近づくしかないだろ」
そう言いながら、瀬良の手が腰のあたりまで滑る。
「ちょ、どこ触ってるの……!」
「ここも凝ってる」
「そこはいい!」
「いや、ダメ。ほら、力抜いて」
「や、やだってば……!」
美菜がもぞもぞと動くと、瀬良はふっと笑った。
「……美菜、敏感?」
「っ!」
耳元で囁かれ、全身が一瞬で熱くなる。
「ち、違う……!」
「ふーん?」
瀬良の指が腰骨のあたりを優しくなぞる。わずかに力を入れて押すたび、美菜の体がぴくっと跳ねる。
「ちょ、瀬良くん、本当にやめ――」
「動くな」
低い声で言われ、美菜はぎゅっと唇を噛んだ。
「……お前が俺にやったこと、俺も返してるだけ」
「そ、そんなことしてない……っ」
「じゃあ、美菜もさっき俺の肩触ってた時、俺がどんな気分だったか考えたことある?」
「え……?」
美菜が言葉を失うと、瀬良の手がゆっくりと離れる。
「……ま、これくらいにしといてやるか」
そう言いながら、美菜の隣にどさっと座り込んだ。
「……」
顔が熱い。心臓がまだ速く跳ねている。
(絶対わざと……)
ちらりと瀬良を見ると、いつも通りのクールな表情をしている。でも、ほんの少しだけ、口元が楽しそうに歪んでいた。
「……瀬良くん、性格悪い」
「へぇ?」
「もう知らない……!」
ぷいっと顔を背けると、瀬良はくくっと喉を鳴らして笑った。
「そんな怒るなよ」
「怒ってる……!」
「……じゃあ、また今度、もっとちゃんとやってやる」
「もういい!」
怒ったふりをしながら、瀬良の顔をまともに見られないまま、美菜はクッションを抱きしめるようにぎゅっと丸くなった。
でも――
(……ほんとは、嫌じゃなかった)
それだけは、自分でも誤魔化せなかった。




