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Episode66



それから数日が経ち、木嶋はすっかり店に馴染んでいた。

初日から客をしっかり掴み、スタッフとも積極的にコミュニケーションを取る姿は、まさに「明るくてうちの雰囲気に合う」と田鶴屋が言っていた通りだった。


とはいえ、美菜はまだ木嶋に対して少し距離を感じていた。

彼のほうはすっかり「美菜ちゃん」と呼んでくるし、遠慮なく話しかけてくるけれど、美菜はどうしても「木嶋さん」と呼んでしまう。


(……私も、もう少しフランクに話したほうがいいのかな)


そう思いつつも、なかなかタイミングがつかめずにいた。



***



ある日の閉店後、美菜は掃除を終えたあと、鏡の前で軽く髪を整えていた。

すると、ちょうどスタッフルームから出てきた木嶋と目が合った。


「お、まだいたの?おつかれ〜!」


「うん、ちょっと髪が乱れてたから……」


「へぇ、やっぱりそういうの気にするんだなー」


「そりゃあ、美容師だから……」


美菜が少し不思議そうに言うと、木嶋は「いやいや、そういうことじゃなくてさ」と笑った。


「なんていうか、美菜ちゃんってクールなイメージあるから、そういう細かいとこまで気にしてるの、ちょっと意外で」


「クール……?」


(私ってクールなイメージ?……どの辺が?)


自分ではそんなつもりはなかったが、確かに木嶋とはあまり雑談もしないし、仕事での絡みもかなり少なかった。


「俺、前の店ではさ、けっこう適当な感じだったんだけど、美菜ちゃんみたいにちゃんと自分のスタイル持ってる人って、見ててかっこいいなって思うよ」


「……そ、そう?」


褒められるとは思っていなかったので、少し照れくさい。


「うん。瀬良もさ、美菜ちゃんのことよく見てるよな」


「え?」


不意に瀬良の名前が出てきて、美菜は驚いた。


「なんか、仕事してるときの雰囲気が似てるっていうかさ、あの人、口には出さないけど、ちゃんと認めてる感じするよ」


「……そう、なのかな」


(瀬良くんが、私のこと……?)


普段、瀬良とは仕事中は恋人というのを意識しないようしていたので、瀬良から見た美菜の評価も気にしないでいた。

でも、木嶋の言葉を聞いて、少しだけ意識してしまう。


そのとき、スタッフルームから瀬良も出てきた。


「あ、木嶋まだ居たのか」


「ちょうど帰るとこ!」


木嶋が軽く手を上げると、瀬良は「ならいいけど」と言いながら、美菜のほうをちらりと見た。


「美菜も?」


「あ、うん。私も帰るよ」


「じゃあ、途中まで一緒に行く?」


「……うん」


瀬良の何気ない言葉に、美菜の心臓が少しだけ跳ねた。


(なんだろ……こんなふうに意識するの、変なのに)


「……え、いやいやいや、ちょっとまって?」


「なんだよ」


瀬良はもう美菜と一緒に帰りたいばかりに不機嫌な態度で木嶋を見る。

木嶋は瀬良の口から出た「美菜」という言葉に引っかかった。

いつも営業中は「河北さん」と呼んでいたじゃないか。


「え、だってさ、瀬良……今、普通に美菜(・・)って呼んだよな?」


木嶋がニヤリとしながら瀬良を見ると、瀬良は少し不機嫌そうに眉を寄せた。


「だから?」


「いやいやいや、普段は河北さん(・・・・)って呼んでるのに、今のはめちゃくちゃ自然に美菜(・・)って。俺、ちょっと聞き捨てならないんだけど?」


木嶋はまるで面白いものを見つけたかのように、瀬良と美菜を交互に見る。

一方、美菜は一瞬で顔が熱くなり、どう返せばいいのか分からなかった。


「……っ、別に、いいでしょ、たまたまだよ!」


「おぉ〜〜!? いいのか!? いや、待てよ? ってことは……まさか……」


木嶋がわざとらしく口元に手を当てる。


「お前ら、付き合ってるとか?」


「……っ!」


美菜は思わず息をのんだ。

まさかこんなふうにあっさり気づかれるなんて思ってもみなかったし、木嶋の軽い口調が妙に恥ずかしくて、目を逸らしたくなる。


「……そんなわけないだろ」


「だよな〜! いやでもさぁ、今のは結構怪しかったぞ? 普通に名前呼びって、同期の俺から見てもレアだし」


木嶋がまだしつこく突っ込もうとすると、瀬良は「帰るぞ」とだけ言い残し、美菜の腕を引いた。


「うわっ、強引! いいねぇ、そういうの!」


「うるさい」


瀬良の機嫌はあからさまに悪く、美菜はその腕に引かれながら、心臓の鼓動がどんどん速くなるのを感じていた。


(瀬良くん、今……)


これまで職場では絶対に見せなかった態度。

それが、なんだか特別なものに思えてしまう。


「じゃ、お先に!」


木嶋の声を背に受けながら、二人はそのまま夜の街へと出ていった。



***



しばらく無言で歩いたあと、瀬良が少しだけ足を緩めた。


「……悪かった」


「え?」


「名前、つい……癖で」


瀬良は前を向いたまま、少しだけ気まずそうに言う。


「……別に、私はいいけど」


美菜も正直、職場では瀬良のことを意識的に距離を取っていた。

でも、さっきみたいに自然に名前を呼ばれると、それがなんだか嬉しくなってしまう。


「……木嶋さん、鋭いね」


「アイツは、余計なことばっかり気づく」


瀬良が少し不機嫌そうに呟くのを聞いて、美菜は思わず笑ってしまった。


「でも、瀬良くん……本当はどう思ってる?」


「……何を」


「私と、仕事のときの距離感」


瀬良はふと立ち止まり、美菜の顔をまっすぐに見た。


「……あんまり、意識しないようにしてる」


「うん……私も」


「でも、やっぱり無意識に出るんだな」


そう言う瀬良の横顔は、いつもより少しだけ柔らかく見えた。


二人の間に流れる静かな空気。

それは、仕事仲間としての関係とも、恋人としての関係とも、どちらともつかない不思議なものだった。


(……このままでいいのかな)


美菜はふと、そんなことを思う。


でも、すぐに「今はまだ考えないでおこう」と心の中で呟いた。


「……じゃあ、また明日」


「おう」


いつもと変わらない別れの言葉を交わしながら、二人はそれぞれの家へと帰っていった。


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