Episode61
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その日の午後、美菜は予約の入っているお客様のカットに入っていた。
今日の客層は比較的落ち着いていて、年配の常連が多い。朝のドタバタも落ち着いた今、美菜は改めて新しいハサミの使い心地を試していた。
(やっぱり、すごく手に馴染む……)
開閉がスムーズで、刃の滑りも軽い。シザーの重さも適度で、指にフィットする感覚が心地よい。瀬良が「美菜にも合う」と言っていたのも納得だった。
カットをしながら、鏡越しにお客様と目を合わせる。
「美菜ちゃん、今日はなんだか手つきが軽やかねぇ」
70代の常連・山本さんが、ふとそんなことを言った。
「え? そうですか?」
「そうよ。なんだか楽しそうに仕事してるわ」
美菜は思わず頬をかく。
「実は今日、新しいハサミを使ってるんです。感触がすごく良くて……!」
「まあ、そういうことねぇ。道具が変わると気分も変わるものね」
山本さんは目を細めながら、美菜の手元を見つめていた。
「それにしても、美菜ちゃんももう立派な美容師さんね。前はもっと慎重に切ってたのに、今はすごく自然に手が動いてるもの」
「……そうですか?」
「ええ。最初の頃は、こう……ちょっと緊張してる感じが伝わってきたのよ。でも今はリラックスして、ちゃんとお客様に似合うスタイルを考えながら動けてるわ」
山本さんの言葉に、美菜は嬉しくなる。美容師として成長できているのだと、実感できた。
「ありがとうございます。これからも、もっと上手くなれるように頑張ります!」
「ふふ、頼もしいわね」
そんなやりとりをしながら、美菜は丁寧に仕上げをしていった。
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仕事がひと段落し、バックルームに戻ると、ちょうど瀬良も別の施術を終えたところだった。
「どう? 使い心地」
「めちゃくちゃいい! 手に馴染むし、軽くてカットしやすい!」
嬉しそうに話す美菜に、瀬良は満足そうに頷いた。
「なら良かった」
「でも、やっぱり高い……」
「まだ言うか」
「だって……」
美菜が言いかけたところで、ちょうど田鶴屋がバックルームに顔を出した。
「あれ、河北さん、午後の予約終わった?」
「はい、ひと通り終わりました!」
「じゃあさ、この後ちょっとヘルプ頼める?」
「大丈夫ですよ!」
「助かる! ちょっとカラーの塗布が立て込んでてさ」
田鶴屋の頼みに快く頷き、美菜は仕事モードに切り替える。
一方で瀬良は、美菜の後ろ姿を見送りながら、ぼそりと呟いた。
「……まあ、気に入ってくれたならいいか」
美菜の仕事ぶりを見ていると、やはりプレゼントして正解だったと改めて思う。
同じハサミを持つことで、仕事の相棒としての一体感も増したような気がして、瀬良は少しだけ口元を緩める。
瀬良はそっと、またシザーケースの中の新しいハサミに触れた。
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その後もサロンは穏やかに営業を続け、夕方に差し掛かる頃、美菜は一息つくために再びバックルームへ戻ってきた。
冷蔵庫から水の入った水筒を手に取りながら、ふと気づく。
「……あれ?」
スタッフ用のスケジュール表に、瀬良の名前が載っていなかった。
「瀬良くん、今日の夜は早めに上がり?」
「おう」
瀬良はスマホを見ながら気だるげに答える。
「珍しいね」
「今日は夜、予定があるから」
「そっか……」
(忙しいんだなぁ……)
瀬良とは約1ヶ月ほどお付き合いをしているが、彼の詳しい日々の行動まではまだ知らない。
「ふーん、何の予定?」
なんとなく聞いてみると、瀬良は少し考えた後、「まあ、ちょっとな」と曖昧に濁した。
「そっか……」
それ以上は聞かず、美菜は水を飲み干す。
瀬良の”夜の予定”がなんなのか、美菜には分からないままだった。




