Episode59
翌朝、美菜はいつもより早く目を覚ました。まだ眠気が残る中、隣に瀬良がいないことに気づく。枕の横に彼の温もりが残っているような気がしたが、目を開けるとその場所は空っぽだった。
「……瀬良くん?」
寝ぼけたまま、美菜はつぶやく。スマホを見れば、瀬良からのメッセージが届いていた。
『帰って仕事に行くからまたあとで』
時刻はもう朝練には間に合わない時間だ。美菜は少しだけ寝坊した自分に気づき、少し慌てながらも、メッセージに返信を送る。
『おはよう!あとでね!』
その後、慌てて仕事に向かう準備をしながら、心の中で昨晩のことを思い出す。瀬良と過ごした穏やかな夜がまだ胸に残っていた。
***
いつもより少し遅めに出勤した美菜は、受付でパソコン業務をしている田鶴屋と顔を合わせた。軽く挨拶をし、通り過ぎようとするが、田鶴屋がちょっと不思議そうに振り向いた。
「河北さんが朝練ないの珍しいねえ」
美菜は何も言っていないが、田鶴屋の表情から察するに、どうやら昨日の配信を見ていたらしい。田鶴屋がなにかふくませ気味に言った言葉に、思わず苦笑いを浮かべる。
「ええ、ちょっと寝坊しちゃって」
「ふーん、ゲーム実況楽しすぎて寝坊したってわけか」
田鶴屋は勝手にそう決めつけると、さらに美菜を気遣うように肩を叩いた。
「まあ、そんな日もあるよな。気にしなくていいよ」
美菜はうなずきながらも、心の中で田鶴屋に対してリスナー思考で良かったなぁと思った。
理由を言うのは面倒だし、そういう事にしておこうと思って、とりあえず話を切り上げ、足早にスタッフルームへと向かった。
***
スタッフルームには、既に朝練を終えて水を飲んでいる瀬良がいた。他のスタッフはフロアにいるようで、2人だけの静かな空間だ。
「おはよう」
「おはよう、いなくてびっくりしちゃった」
美菜は笑顔で瀬良に返し、少し残念そうに言う。
「もっと起こしてくれて良かったのに」
「つい、ね」
瀬良は軽く謝りながら、2人の会話が幸せに満ちていることを感じる。どんな言葉も必要なく、この瞬間だけで十分だと思った。
***
仕事が始まると、美菜も瀬良もお互いにしっかりと切り替えて仕事に集中した。今日の予約は比較的ゆったりしているが、手を抜かずにテキパキと業務をこなしていく。こういう日のサロンは時間が過ぎるのが早かった。
夕方になり、サロンも閉店間際。ちょうどその時、ハサミの営業担当である日下部さんが来店した。
「営業終わりに失礼いたします。定期メンテナンスに来ました」
日下部はサロンで何人かのハサミのメンテナンスを定期的にしている。その中に美菜も瀬良もいるのだ。
日下部に、使っているハサミを預け、その間に彼が持ってきた新しいハサミのサンプルを2人は触ってみる。
「あ、これめちゃくちゃ手に馴染む!」
美菜が開閉しながら感想を言うと、瀬良も同じハサミを手に取る。
「結構使いやすそうだな」
瀬良も気に入ったのか、思わず日下部に言った。
「このハサミ、2挺欲しいです」
日下部は少し驚きながら、「2挺ですか?」と聞き返す。美菜も不思議に思って見つめるが、瀬良はサラッと答える。
「河北さんの分も俺が払うので」
美菜は驚きながらも、「そんな…」と遠慮しようとするが、瀬良はにっこりと笑って答える。
「この間臨時収入があったから、それのおすそ分け。だから気にしないで」
美菜はその意味がよくわからなかったが、どうしてもと言う瀬良の言葉に、結局ハサミを2挺受け取ることにした。




