Episode51
翌朝。
朝練の時間になり、いつものように美菜は店に向かった。
まだ静かな店内。
バックルームに荷物を置いてセット面に向かうと、そこにはすでに瀬良がいた。
「……おはよう」
「おはよう」
短い挨拶を交わし、二人はいつも通り黙々と練習を始める。
瀬良はウィッグに集中していて、昨日のことには触れない。
美菜も、自分から話題に出すつもりはなかった。
(……いつも通り、か)
少し安心しながらハサミを動かしていると、ふと視線を感じた。
ちらりと横目で見ると、瀬良がほんの一瞬、美菜の額を見た気がした。
「……?」
「まだ赤い」
言われる前に気づいていた。
「大丈夫、もう痛くないし」
「そうか」
瀬良はそれ以上は言わず、また黙々と手を動かし始めた。
美菜も練習に集中する。
——そのまま、しばらく静かな時間が流れた。
***
朝の掃除が終わり、営業開始前の準備を進めていると、田鶴屋がバックルームから出てきた。
「お、二人とも。ちょっといいか」
「はい?」
「昨日の件、オーナーに報告したら、今後の対応をちゃんと決めることになった。伊賀上にも伝えたけど、お前らも一応、共有しとく」
田鶴屋の話によると、今後はスタッフへの過度なクレームや理不尽な要求に対しては、毅然とした対応を取る方針になったらしい。
「今までは基本、お客様第一で対応してきたけど、スタッフが無理に頭を下げる必要はないってことになった」
「……そうですか」
美菜は少し考え込みながら答えた。
「昨日のこと、悪いと思ってるわけじゃないんですけどね…」
「わかってるよ。お前は店のことを考えて、ああするしかなかったんだろ」
田鶴屋は柔らかく笑った。
「でも、瀬良の言う通りだ。お前は悪くなかったし、これからは店としても守る」
美菜は驚いて瀬良を見る。
瀬良は相変わらず表情を崩さないまま、「当たり前だろ」と言わんばかりに軽く肩をすくめただけだった。
「……ありがとうございます」
美菜は素直に頭を下げた。
「まあ、そういうわけだから、気にしすぎるな」
田鶴屋はそう言って準備に戻っていった。
***
その日の営業中、美菜はお客様のシャンプーを終え、アシスタントの千花に引き継ごうとした。
「千花ちゃん、次の準備お願い——」
「……はい!」
千花は少し緊張した顔をしていたが、その目には昨日とは違う強い意志があった。
(……大丈夫そうだね)
美菜は安心して微笑んだ。
一方で瀬良は、淡々と仕事をこなしながらも、美菜が動くたびにふと視線を向けていた。
けれど、美菜がそれに気づいて振り向くと、彼は何事もなかったように目をそらす。
(……なんか、意外とわかりやすいかも)
そう思うと、少しだけ楽しくなった。
そして、美菜はいつも通り仕事に集中する。
昨日とは違い、心の中が少しだけ軽くなった気がした。
***
数日後。
朝の準備を終え、店内に軽やかな音楽が流れる頃には、すでに最初のお客様が来店し始めていた。
美菜はシャンプー台の片付けを終え、スケジュールを確認しながらセット面を見渡す。
瀬良も田鶴屋も、相変わらず指名の予約がぎっしり詰まっていた。
(今日も忙しくなりそう)
気を引き締め、アシスタントの動きをフォローしながら仕事に入る。
そんな中、千花がセット面の近くで少し緊張した様子で立っていた。
「千花ちゃん、大丈夫?」
「……はい! ちょっと緊張しますけど、頑張ります!」
千花が担当するのは、初めてのトリートメントのお客様だった。
先日の一件から、彼女はますます真剣に仕事に取り組むようになり、技術チェックにも熱心に参加していた。
美菜はそっと背中を押すように微笑む。
「大丈夫、ちゃんとできるよ」
「……はい!」
千花は頷き、意を決したようにお客様のもとへ向かっていった。
(頑張れ、千花ちゃん)
美菜がそう思いながら自分の仕事に戻った瞬間、近くで瀬良の声が聞こえた。
「……痛くないのか?」
「え?」
驚いて振り向くと、瀬良はさりげなく美菜の額を見ていた。
「赤み、引いたけど、ぶつけたとこ」
「ああ……もう平気だよ。冷やしたから!」
「そうか」
短いやり取りのあと、瀬良は何事もなかったように仕事を再開した。
(まだ気にしてたんだ)
そのことが、なんだか少し嬉しかった。
***
昼休憩になり美菜はスタッフルームに戻る。
スタッフルームには先に田鶴屋がいて、スマホをいじりながらコーヒーを飲んでいた。
「おつかれ、河北さん」
「おつかれさまです」
美菜が軽く会釈しながらお弁当を広げると、瀬良も遅れて入ってきた。
「おつかれさまです」
「ああ、お疲れ様です」
瀬良は挨拶だけすると、棚の奥からプロテインのボトルを取り出す。
その様子を横目で見ていた田鶴屋が、ふっと笑った。
「瀬良くんって最近、河北さんのことよく見てるよねー」
「……は?」
瀬良が手を止めて、鋭い視線を向ける。
わざとらしくコミカルな動きをしながら田鶴屋は続ける。
「いや、別に悪いことじゃねえよ。でもさっきも、河北さんの額見てたなーって思っただーけっ!」
「……」
瀬良は答えず、プロテインの蓋を開ける。
「河北さんを心配してるってことー?」
「別に」
そっけなく言い捨てたが、その耳が微かに赤いことを美菜は見逃さなかった。
(……なんか、かわいいかも)
そう思いながら、美菜はお弁当を一口食べた。
その後、田鶴屋は面白そうに笑いながらスマホをいじり続け、瀬良は黙ってプロテインを飲み干した。
何気ない昼休憩。
だけど、美菜はどこか心が温かくなるのを感じていた。




