Episode50
サロンはすぐに平静を取り戻し、田鶴屋は各お客様に「ご迷惑をおかけしました」と謝罪しつつ、サービスとしてハンドクリームを手渡していた。
美菜が接客に入っていたお客様には田鶴屋が直々に説明をし、怪我は大した事ないが今一応冷やしていて、今日の残りの施術を変わらせていただけないかと説明をする。
「なんだか美菜ちゃん災難ね……私は大丈夫よ!また美菜ちゃんが大丈夫になったらよろしくね」
美菜の指名のお客様は基本的にいい人達だ。
美菜の事を心配しながらも、田鶴屋に任せる事にした。
***
スタッフルームでは、美菜が鏡を見ながら額の赤みを確認していた。
「……大したことないよ」
「一応冷やしとけ」
瀬良がスタッフルームの冷凍庫に入っていた保冷剤を差し出す。
「ありがと」
少し微笑んで受け取るが、隣では千花が泣きじゃくっている。
「美菜先輩のせいじゃないのに……! 私がちゃんとできなかったせいで……!」
「千花ちゃんのせいでもないよ」
美菜は優しく千花の背中を撫でる。
「千花ちゃんは何も悪くない。むしろ、あそこでしっかり対応してくれたから、助かったよ」
「でも……!」
「……大丈夫。ほら、泣き顔見られたくないでしょ? もうすぐ次のお客様来るよ」
千花は涙を拭いながら、何度も頷いた。
一方で、瀬良は黙ったまま、美菜の額をじっと見つめていた。
美菜を心配しつつも、怒りを抑えきれないその表情が、彼の本心を物語っていた。
***
「……仕事戻るわ」
瀬良は短くそう言い残し、スタッフルームを出ていった。
「瀬良先輩……」
千花がまだ涙の跡を残したまま、彼の背中を見送る。
美菜は額の冷たさを感じながら、瀬良の表情を思い返していた。
普段は冷静な彼が、あんなふうに怒りをにじませるのは珍しい。
(……瀬良くん、心配してくれたんだ)
そう思うと、少しだけ心が温かくなった。
「千花ちゃんも、そろそろ戻ろうか」
「……はい」
まだ不安そうな千花の肩を軽く叩き、二人はスタッフルームを後にした。
***
午後の施術が始まり、サロンは再び忙しさを取り戻す。
だが、どこか張り詰めた空気が残っていた。
瀬良は淡々と仕事をこなしていたが、いつものクールさとは少し違った。
カットする手つきは変わらず正確で滑らかだが、どこか力が入っているように見える。
(瀬良くん……)
美菜がセット面の鏡越しに彼を見ていると、不意に目が合った。
一瞬、瀬良の指が止まる。
「……」
けれど彼はすぐに視線を逸らし、何事もなかったようにカットを再開した。
美菜も気まずくなり、手元のブラシに意識を戻す。
その時——
「瀬良さん、さっきよりちょっとだけ優しくしてもらえますか?」
指名客の女性が、冗談めかしながら微笑んだ。
「え?」
瀬良が手を止める。
「いや、別に痛いとかじゃないんですけど……いつもよりちょっと力強い気がして」
「あ……申し訳ございません」
瀬良は一瞬戸惑いながらも、冷静に謝罪し、手元の力を緩める。
美菜は、それを見て確信した。
(やっぱり……さっきのこと、まだ引きずってるんだ)
心のどこかで怒りが消えていないのだろう。
美菜は軽く息をつき、仕事に集中することにした。
***
サロンの営業が終わり、片付けを終えた頃には外はすっかり暗くなっていた。
美菜がロッカーで荷物を整理していると、不意に背後から声がかかる。
「……額、まだ赤い」
振り向くと、そこには瀬良が立っていた。
「え? あ、もう大丈夫だよ」
鏡をちらりと覗くと、確かにまだ少し赤みが残っている。
だが、痛みはほとんど引いていた。
「……お前、ああいう時は無理に謝るな」
「え?」
「伊賀上の対応が悪かったわけでもないし、あの客が勝手に怒ってただけだろ。お前が頭下げる必要、なかった」
瀬良の声は低かったが、どこか苛立ちを滲ませていた。
「でも……」
「……あいつ、頭を押さなかったら、お前は普通に謝って終わってたんだろ?」
言葉に詰まる。
確かに、あの客が手を出さなければ、美菜は深く頭を下げ、穏便に終わらせていたかもしれない。
それが最善策だと思っていた。
だが、瀬良の表情を見て、その考えが揺らいだ。
「俺だったら、謝らない」
瀬良はそう言い切った。
「……でも、私は店長じゃないし、お店のためにも——」
「関係ない」
ピシャリと遮られる。
「お前は、自分が悪くないのに謝るのが正しいと思ってるのか?」
「……」
美菜は何も言えなくなる。
「謝るべき時と、そうじゃない時がある」
瀬良の言葉は淡々としていたが、その奥には強い感情があった。
「お前が傷つくのを見たくない…」
その一言に、美菜の心臓が跳ねる。
(瀬良くん……?)
「……今日はもう帰れ。あと家でちゃんとおでこは冷やせ」
瀬良はそれだけ言うと、さっさとロッカーを閉めて先に出ていった。
瀬良なりの優しさだろう。
そして美菜を守れなかった悔しさも、なんとなく滲み出ていた。
美菜はしばらくその場に立ち尽くし、彼の言葉を反芻する。
「……ありがとう」
小さく呟きながら、額をそっと撫でた。




