Episode43
営業後、掃除を終えてスタッフルームにいた美菜に、瀬良が何気なく声をかけた。
「途中まで一緒に帰るか?」
「あ……ごめん、今日はちょっと残る予定があって」
瀬良が少し目を細める。
「何かあるのか」
「スパ講習の練習を田鶴屋店長とやる約束してて」
「……ふうん」
短い返事のあと、瀬良は少し考え込んだ。
そして、すぐに結論を出すように言う。
「じゃあ俺も残る」
「えっ? でも……」
悪いと思い、美菜は遠慮しようとする。しかし、瀬良は軽く笑った。
「気にするな。明日の講習がスムーズに進むなら、それでいい」
それは嘘ではない。が、それだけでもなかった。
――田鶴屋と美菜を2人きりにさせるのが、なんとなく気に入らなかった。
美菜はそんな瀬良の本心を知る由もなく、「じゃあ……お願いしようかな」と、少し申し訳なさそうに了承した。
***
シャンプー台に戻ると、田鶴屋が少し驚いた顔をする。
「あれ? なんで瀬良くんも一緒に残ってるの?」
純粋な疑問、といった口調だったが、瀬良は淡々と答えた。
「明日はほとんどのスタッフが技術を見るだけだから、第三者視点があった方がいいと思ったんで」
「……ふーん……」
田鶴屋は、何かを探るように瀬良をじっと見る。
別に嫌味を言うわけではない。けれど、どこか瀬良と田鶴屋の間に微妙な空気が流れる。
美菜はなんとなくドギマギして、気を紛らわすように準備を始めた。
***
スパの練習自体は真剣そのものだった。
田鶴屋がモデルになり、美菜が施術を担当し、瀬良が第三者視点で質問を投げかけたりアドバイスをしたりする。
「指の力加減、もう少し均等にした方がいいかも」
「ここ、圧のかけ方はいいけど、移動するときに少し強弱つけたほうがリズムがよくなる」
田鶴屋と瀬良、それぞれの視点からのアドバイスを受けながら、美菜は真剣に技術を磨いていった。
最初こそ少し緊張していたが、2人の言葉は的確で、終わるころには気持ちが引き締まっていた。
***
練習を終え、田鶴屋が髪を乾かしている間、美菜と瀬良はシャンプー台を片付ける。
「瀬良くん、今日はありがとう! めちゃくちゃ勉強になった!」
美菜が明るく礼を言うと、瀬良はシャンプー台を拭きながら小さく微笑んだ。
「ならよかった」
そのままの流れで、美菜が使い終わったタオルをまとめていると――
「美菜」
突然の耳打ち。
「っ……!」
思わず心臓が跳ねる。
営業中は統一して“河北さん”と呼ばれていたのに、不意に名前を呼ばれると、妙に意識してしまう。
「このあと、ちょっとだけ時間ある?」
「あ、あるよ……!」
瀬良の声は低く、さりげなく田鶴屋に聞こえないようにしていた。
「じゃあ鍵は俺が閉めて帰るって店長に言うから、あとでスタッフルームに残ってて」
「……わかった」
それだけの短い会話なのに、美菜の鼓動は少し早まっていた。
***
田鶴屋のドライヤーが終わり、3人で帰る準備を始める。
しかし、美菜は瀬良との“秘密の約束”を意識して、ひそかに落ち着かない気持ちになっていた。
「じゃあ、帰りますか」
田鶴屋は軽く伸びをし、リュックを肩にかけながら店の出口へ向かう。
「今日はありがとうございました! 遅くなってすみません、店長も早く帰ってくださいね」
美菜がそう言うと、田鶴屋は軽く手を振って応える。
「大丈夫大丈夫。鍵は瀬良くんが閉めるんだもんな?」
「はい」
「おっけー、お疲れ様でした! 明日頑張ってね〜!」
軽やかな足取りで、田鶴屋は夜の街へ消えていった。
***
美菜と瀬良はスタッフルームに戻り、2人きりになった。
すると――
突然、瀬良の腕が美菜の身体を包み込んだ。
「……!」
驚きに息を飲む。
けれど、瀬良の抱きしめ方は優しくて、強引さはない。
「……ちょっとだけ」
低く囁くような声。
戸惑いながらも、美菜はその温もりに安心感を覚えてしまう。
(瀬良くんの腕の中……落ち着くな……)
肩に回された腕の力は、心地よい程度に穏やかで、それが逆に美菜の鼓動を早めた。
「明日、うまくいくといいな」
耳元でそっと囁かれ、くすぐったくて身じろぎする。
「うん、がんばるね」
自然と笑みがこぼれ、そっと抱きしめ返した。
すると、瀬良の腕がわずかに強まる。苦しくない程度に、けれど確かに離したくないような強さで。
しばらくそのまま静かな時間が流れた。
やがて、瀬良が少し名残惜しそうに呟く。
「……じゃあ、帰ろうか」
美菜も、本当はもう少しこのままでいたかったけれど、ゆっくりと腕をほどいた。
「うん、一緒に帰ろう」
2人は並んで店を出る。
肌寒い夜風の中、並んで歩く距離は、ごく自然にいつもより少し近かった。




