Episode225
控え室では、ミナツキちゃんの衣装に着替えた美菜が鏡の前に座っていた。
首元のリボンを指先でつまんでは、ひらひらと体を揺らしてみる。さっきまでの興奮も落ち着き、代わりにじわじわと緊張が胸を締め付け始めていた。
「……はぁ……」
ため息をこぼしながら、美菜は横で静かに待機している瀬良をちらりと見る。
相変わらず落ち着いた表情で、何もかも余裕そうにしている彼に、思わず小声で尋ねた。
「瀬良くん……私、緊張してるみたい。こういう時はどうしたらいいの?」
瀬良は美菜の方へゆっくり視線を向け、少しだけ口角を上げた。
「深呼吸とか、肩動かすとか?まあでも実際は慣れ。大会主催のパーティーに何回か行ったことあるけど、大勢の前に出るのは緊張するし、数を慣れるしかない」
「慣れかぁ……私、全然慣れないよ……」
「美菜はモデルなんだから一言も話さなくていいってローズさん言ってたじゃん」
「……そうだけどぉ……やっぱり大勢に見られるのは緊張するんだもん……!」
肩を落とした美菜の様子に、瀬良は椅子ごとゆっくり彼女の隣へ移動し、膝の上に手を置く。
「ほら深呼吸して、肩の力を抜く。緊張は体が硬直してるだけだから、呼吸で落とせる」
そう言いながら、瀬良は美菜の手を取って、自分の呼吸に合わせるよう優しくリズムを刻んだ。
美菜もそれに合わせて、ゆっくり息を吸い、吐く。
――けれど。
「……うーん、ダメ。やっぱりドキドキする……」
どうしても胸の奥の高鳴りは収まらない。
そんな美菜を見て、瀬良はふっと息を漏らすように笑った。
「……仕方ないな」
「……んっ!?!?」
そう呟いた次の瞬間、彼は椅子に座った美菜の顔を両手で包み込むと、ぐっと顔を近づけ、ためらいなく唇を重ねた。
一瞬戸惑った美菜だったが、瀬良のキスは思っていたよりもずっと深く、甘く、そして何より熱くて――
「あっ……ふ、ぁ……」
腰が抜けそうなくらい、全身がじんわりと溶ける感覚に包まれた。
唇が離れる頃には、呼吸も心拍も、緊張どころではなくなっていた。
ぼんやりとした表情の美菜を見て、瀬良は余裕たっぷりの悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「はい。緊張、解けてよかったな」
「っ……もう、瀬良くんっ……!」
驚きと恥ずかしさ、そしてキスの余韻で頬を真っ赤にしながら、美菜はぷくっと膨れて瀬良を睨む。
それでも、体の奥から広がる温かさが消えず、ぷんすかしながらもどこか幸せそうだった。
そんな二人のもとへ、ノックの音が控え室に響いた。
「河北美菜さん、そろそろスタンバイ大丈夫ですか?」
スタッフの迎えの声が、いよいよイベントの本番を告げる。
美菜は深呼吸を一つして、瀬良の顔を見上げた。
「行ってくるね」
「……ああ、ちゃんと見てるからな」
瀬良の短いエールを背に、美菜はステージへと向かう。
間もなく、ローズのメイクアップ講習が始まった。
***
「さぁ皆さん、お待たせしました! 本日はスペシャルゲストの笹原ローズさんによるコスプレメイクアップ講座です!」
イベントスタッフの司会の声が響き渡ると、会場の熱気が一気に高まった。
ローズはいつもの華やかな笑顔を浮かべてステージに現れ、美菜もそっと隣に座る。
「みなさぁーーん!こんにちはーーー!今日のコスプレメイクは“魔法少女ミナツキちゃん”というキャラクターをイメージしてメイクアップしていくわよぉ〜!コスプレイヤーの皆様、アタシの必見のテクニック、しっかり見ていってねん!」
ローズの言葉に、客席からは拍手と期待の声が上がった。
そして始まる、魔法のようなメイクタイム。
ファンデーション、シェーディング、目元のライン、ハイライト。
ローズの手は迷いなく、リズムよく、美菜の顔を“ミナツキちゃん”へと作り変えていく。
「コスプレメイクも普段のメイクもテレビや撮影用のメイクも、一つ一つのバランスが大事。特にコスプレメイクは2次元に近づけないといけないけど、やり過ぎるとただのラクガキになるわ。ここはこう色をつけて、影を意識してちょうだい。ほら……左右比べてみると違うデショ?」
ローズは口も手も同時に動かしながらメイクを進める。
会場のあちこちからは、感嘆の声が漏れ始めた。
「違和感なくアニメから出てきたみたい……!」
「すごい、顔立ちが変わっていく……!」
その後もローズの講習に耳を傾け、たくさんのコスプレイヤーが頷く。
そしてメイクも終わり、仕上げにミナツキちゃん専用の巻き髪ウィッグが被せられる。
観客の目の前には、もう先程までのモデルではない“ミナツキちゃん”が、そこに座っていた。
会場は大きなどよめきと、黄色い歓声に包まれる。
「わぁ……」
美菜自身もその仕上がりに驚き、少しだけ照れくさそうに頬を赤らめた。
ローズは慣れた様子で手を振り、軽やかに応じる。
「美菜チャン、完璧よ。さぁ次は、撮影タイムね」
***
講習が終わると、スタッフに案内されるまま撮影ブースへ移動する。
そこには――見覚えのある男がカメラを構えて立っていた。
「え……? 斯波さん?」
驚きの声を上げる美菜。
それもそのはず、そこにいたのは業界でも知られたカメラマン、斯波英介だった。
ローズがこっそり呼んでくれていたのだ。
「ほぉ……完璧すぎて、最初わからなかったよ。これが美菜ちゃんか」
隣の瀬良とローズが微笑んで頷くと、斯波も満足そうにカメラを構え直す。
撮影が始まると、斯波は次々にミナツキちゃんらしいポーズを要求した。
「はい、もっと可愛く! あ、今の表情いいね、美菜ちゃん!」
美菜も次第にノリノリになり、完璧なミナツキちゃんの笑顔を何度もカメラに向ける。
その光景を少し離れた場所で見ていたローズが、ぽつりと呟いた。
「……あんなに楽しそうに撮るのは、伊月チャンと美菜チャンだけなのよねぇ」
瀬良がその言葉に小さく息を飲む。
しばし無言のまま、撮影の様子を見つめていた瀬良が、ふと小声でローズに相談する。
「……あの、実は伊月のことで、少し困ってます」
瀬良の真剣なトーンに、ローズは視線を外さず静かに頷いた。
「うん、なーんとなくだけど、分かってるつもり。あの子……海星チャン、最近かなり危ういわよ」
ローズは声を潜め、耳打ちするように続けた。
「これは、ここだけの話だけど……今、ドラマの撮影が途中で止まってるの。理由は海星チャンが一旦休業したから」
瀬良は驚き、視線をローズへと向ける。
「……休業?」
「うん。業界に戻ったばかりで不安定だったのに、さらに今回のことで色々言われてるみたい。
噂ではね……一人の女の子とイチャイチャしてるところを誰かに見られたとか。マスコミに嗅ぎつけられる寸前だったって。
アタシとしては美菜チャン絡みだと思ったけど……隣にいた女の子は美菜チャンじゃなかったワ。
ちなみにスキャンダルはドラマの監督が、必死で揉み消したらしいわよ」
ローズは少し呆れたように息をつく。
「ほんと、あの子には振り回されっぱなし。でも……これだけは言えるわ。あの子が今あなた達にとってとても危険というコト。美菜チャンは特に。最後にアタシが見た海星チャンの目……あれはもう話が通じる目じゃなかったわ……」
瀬良は黙ってローズの言葉を噛みしめた。
伊月が休業――その理由が女の子?
詩音の顔が脳裏に浮かび、不安が胸をよぎる。
何を考えているのか――本当に心変わりしたのか、それとも何か別の理由があるのか。
考えれば考えるほど、瀬良の表情は険しくなっていった。
そんな彼の頬を、ローズが両手でそっと挟み、グイッと美菜のいる方向へ向けさせた。
「ま!今は、美菜チャンのコスプレを見て楽しみなさい。
海星チャンのことは……言わなくても、アタシには大体わかるわ。でもね、瀬良チャン。アタシ、美菜チャンにはハッピーエンドじゃなきゃ、ヤなのよ」
その言葉は強く、でも優しい、どこか頼もしい声だった。
瀬良は一瞬驚き、そしてふっと笑った。
「……はい。俺もです」
美菜がポーズを決めるその姿を、瀬良の目は静かに、確かに見つめていた。




