Episode222
喧嘩をしてから、もう数日が経っていた。
言い合った時間も、すれ違った想いも、今では静かに心の底で丸くなっている。
あの日を境に、美菜と瀬良はどこか、互いに素直になれていた。
小さな不満や、ささいな気持ちも、言葉にして伝えることができるようになった。
一度ぶつかり合ったことで、壊れるどころか――
前よりもずっと、深く繋がっていく。
そんな、穏やかで落ち着いた日々。
午後の柔らかな陽差しが店内の床を照らし、いつもと変わらない日常の風景のなか、美菜はパソコンに向かい黙々と作業をしていた。
予約表の整理と、SNSの更新準備。細かなチェックに集中していたそのとき、カウンターから聞き慣れた瀬良の声が響く。
「美菜、ローズさん……って人から電話予約」
その名前に、手を止めて顔を上げた。
瀬良から受話器を受け取り、反射的に口元がやわらかくほころぶ。
「お電話変わりました。河北です」
耳に届いたのは、明るく派手な、けれどどこか懐かしい声だった。
『あ!美菜チャン!!元気ぃ?アタシよ!ローズ!』
「お久しぶりです!お元気ですか?」
言葉の裏に、思わず笑みが混じる。
電話越しでも変わらないテンションに、自然と表情も緩む。
『元気盛り盛り盛り盛りよ!!』
声の張りは相変わらずだ。
電話の主――笹原ローズ。
カリスマメイクアップアーティストとして名を馳せるその人は、美菜にとって特別な存在だ。
数ヶ月前、伊月のモデル撮影でメイクを直接教わった相手。
雲の上の人間だと思っていたローズが、美菜の名前を覚えていてくれた。
それだけでも胸の奥がじんわりと温かくなる。
「ご予約…ですか?」
思わず口を引き締めて尋ねると、電話の向こうでローズが軽く笑った。
『いーえ!あ、でも予約と言えば予約かも!!アタシ、美菜ちゃんをちょーっと予約できないかなーと思って電話してるのよぉ』
「……はい?」
聞き返した美菜の声は、無意識に戸惑いを含んでいた。
仕事の予約ではない様子に、少し首をかしげながらも、ローズの言葉の続きを静かに待った。
『今日の営業後に、お店まで迎えに行ってもいいかしら?直接話したいことがあって!』
思わず視線を瀬良へ向け、小さく囁く。
「瀬良くん……ローズさん、営業後迎えに来たいって……いい?」
瀬良は少し考える素振りを見せたものの、すぐに「いいよ」と穏やかに頷いた。
その返事を受けて、美菜は電話口に戻る。
「わかりました。今日の営業後、お待ちしてます」
ローズの明るい声に背中を押されるように通話を切る。
胸の中は、なんだかソワソワと落ち着かなかった。
用件はわからない。でも、きっと悪い話ではない――そう信じて、美菜は再び仕事に集中していく。
***
営業終了間際、思いのほか仕事が立て込んでしまい、美菜はローズに連絡する暇もなくバタバタと動き回っていた。
最後のお客様を見送った時、ふっと小さく肩で息をつき、額の髪をかき上げる。
「ヤッホー!お疲れ様〜。もお〜!遅いから来ちゃったわよぉ?」
振り返れば、店のドアの隙間から覗く見慣れた派手な顔。
ローズがひょっこりと現れた。
「あ!お疲れ様です!ごめんなさい!」
「いいのよ、お仕事頑張ってたんだもの。気にしないで」
優雅に笑いながら、美菜の頬に軽く手を添え、まるで子猫でも撫でるように優しく触れるローズ。
そして、ふと何かを思い出したかのように小首を傾げる。
「翌々考えたら、こんな可愛い子を1人で歩かせるのも悪いからね?夜道は危ないオオカミがたくさん……」
ローズの指が、美菜の頬をそっと撫でる。
その瞬間、店内の受付に座ってカルテを整理していた瀬良とローズの視線がぴたりと交差した。
「………………Oh…」
「………………は…?」
ローズの目が、瀬良に釘付けになる。
スッと整った顔立ち、落ち着いた空気感と今風のセンス。
美しさが作り込まれていない、自然体の洗練――伊月と並ぶレベルの衝撃。
ローズは無意識に、瀬良の前へ歩み寄っていた。
「アナタ、名前は!?」
「……瀬良…ですけど…」
ローズは感動したように瀬良の顔を両手で包み込み、鼻息荒くじっと見つめた。
その勢いに、さすがの瀬良も不快げに眉をひそめる。
「……あの、近いんで離れてもらえますか…」
「瀬良チャン、身長何cm?芸能界とか興味無い?アタシがトップに連れて行ってあげるわよ!?」
「いや微塵も興味無いですねー」
淡々と答える瀬良。
一部始終を見ていた美菜は、その温度差に思わず吹き出してしまう。
「ローズさん、瀬良くん困ってますよ」
「アラヤダっ!興奮しちゃったわ!!」
ローズが騒ぐのも無理はない。
瀬良の整った顔立ちは、美菜ですら時々見とれるほどだ。
以前、斯波も瀬良を見て同じように目を輝かせていたのを思い出し、妙に納得する。
「まあ今日は美菜チャンに用があって来たから…さ、おでかけしましょっ!」
「あっ……はい…!」
「……いや、ちょっと待ってください。俺も行っていいですか?」
ローズの腕にすっぽり収まっていた美菜。
そのまま連れていかれそうになったところで、瀬良が静かに口を開く。
表情は、どこか険しい。
「失礼ですけど、ローズさんって、男性ですよね?」
「アラ、アタシに性別を聞くなんてナンセンスよ!アタシはね!男も女も超えた存在なの!!そんなちっぽけな枠に囚われるような人間じゃないのよ!!」
「いやでも男ですよね?とりあえず美菜離してもらえます?」
ローズの腕から美菜を引き剥がす瀬良。
その動作は、ごく自然に美菜を自分の側へ引き寄せていた。
「アラ、貴方もしかして美菜チャンのナイト?」
「………彼氏ですけど、なにか?」
さらりと、そして静かに言い切る瀬良。
ローズは小さく目を見開き、まじまじと瀬良を眺めたあと、含み笑いを漏らした。
「まあ…まあまあ…!ふーん…なるほどねぇ…」
意味深に上から下までじっくりと眺めるローズ。
何かを確信するように、ひとりごちた。
「…ライバルは同じレベルなのね…大変ねぇ…」
「……?」
瀬良には、意味がよくわからない。
が、ローズの含み笑いに、軽く睨み返して黙り込む。
「じゃぁ一緒に行きましょ!美形に挟まれてアタシは気分いいわよーー!」
瀬良と美菜の手をぐいっと強引に掴み、外へ引っ張り出そうとするローズ。
だが瀬良は、すかさず冷静に言葉を挟んだ。
「いや、締め作業あるんで待ってください」
すると、ローズは瀬良の手だけさっと離し、美菜の手だけをしっかり握ったまま満面の笑みを浮かべる。
「Time is moneyよ!アタシの1秒は高いのっ!そこの喫茶店に居るからさっさといらっしゃーい!」
「わっ……わ!」
美菜はあっけなくローズに連れ去られていく。
瀬良はローズの派手なテンションにため息をつきながら、手早く締め作業へと手を動かした。
***
喫茶店の窓際、カップの紅茶からふわりと立ちのぼる香りが、夜の冷えた空気にほどよく混じる。
店内は落ち着いたジャズが流れていて、ローズはスイーツプレートを優雅につつきながら、美菜の前で腕を組んだ。
「さて、美菜チャン。本題だけど……ちょっと大きなお仕事、頼んでもいいかしら?」
美菜はスプーンを置き、少しだけ姿勢を正す。
ローズがわざわざ“予約”なんて言い方をして、営業後に迎えに来るほどの用件だ。
胸の奥がすっと緊張で引き締まった。
「お仕事……ですか?」
「そう。冬に毎年開催される“Winter Dream”っていうコスプレイベント、知ってる?」
ローズは、指でスッと空中に字を書くような仕草をする。
その名は美菜も耳にしたことがあった。コスプレイヤーやアーティスト、クリエイターたちが集う冬の一大イベント。
もちろん一般の来場者も素人コスプレイヤーも、カメラマンも大歓迎のイベントだ。
華やかで、派手で、夢のような時間が流れるあの場所に、自分が関わるなんて思ってもいなかった。
「ええ、知ってます。すごく有名なイベントですよね……」
「ふふん、そこにアタシのコスプレメイクアップコーナーが今年も出るんだけど──」
ローズはひときわ艶っぽく微笑み、紅茶に唇を寄せる。
「美菜チャン、アンタをメインモデルにしたいのよ」
「──え?」
一瞬、時間が止まったかのようだった。
冗談のように軽く言うその言葉が、あまりにも現実離れして聞こえて、美菜はまばたきさえ忘れる。
「アタシのメイクで、最高に可愛く変身した美菜チャンをみんなの前で披露したいの。もちろん、ただ座ってるだけのモデルじゃなくて──アタシのメイクテクを舞台で生披露するのよ」
ローズは美菜をじっと見つめる。その瞳はいつもの陽気さとは違い、プロの眼差しだった。
あの時、伊月の撮影で学んだローズのメイク術。その師匠から、自分に直接オファーが来たという事実が、じわじわと実感へ変わっていく。
「……私なんかで、いいんですか?」
「アンタじゃなきゃダメなのよ、美菜チャン」
ローズの言葉は断言だった。
背筋が自然と伸びる。だけど胸の奥がじんわりと温かくなる。信じてくれる人がいる。それが、こんなにも嬉しい。
「はい。ぜひ、お願いします!」
その返事を聞いた瞬間、ローズは満足げに手を打った。
「さすが、美菜チャン!期待してるわよ!」
そこへ、締め作業を終えた瀬良が喫茶店へやってくる。
ローズのハイテンションと美菜の真剣な表情を交互に見て、首を傾げる瀬良。
「……なんの話してたんだ?」
「うふふ、瀬良チャン。美菜チャン、すごい子なのよ。アタシのモデル、冬のイベントの顔になるの!」
ローズは誇らしげに笑う。
瀬良は少し驚いた表情を浮かべたあと、何気なく美菜の方を見る。目が合うと、美菜は少し照れくさそうに微笑んだ。
その顔を見て、瀬良は無言のまま、ゆっくりと頷いた。
──喧嘩して、ぶつかって、それでも信じ合えるようになった。今の美菜の挑戦も、きっと支えたい。
「……ふーん。頑張れよ、美菜」
「うん、ありがとう。瀬良くん」
ローズはふたりのやり取りを見ながら、にやりと口元を歪めた。
「いやーん、いいわねぇ!恋人って!青春ねぇ!」
そんなおどけた言葉も、今夜はやけに心地よく聞こえる夜だった。




