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Episode221



夜の街は、少し肌寒い風が吹いていたけれど、二人の手の温もりはその冷たさを忘れさせてくれた。まるで昨日の喧嘩なんて最初からなかったかのように、美菜と瀬良は並んで歩いていた。


営業後のサロンを出たばかり。閉店作業を終えてからも、二人は特別急ぐわけでもなく、自然と距離が縮まったまま、互いの表情を確かめるように言葉を交わしていた。


「あ!ねぇ、瀬良くん。今日までなんだよね、ヘンテコ名画展」


ふと、美菜がそんなことを思い出したように口にした。


前から何度も行きたいと話していた、あのショッピングモール内の期間限定イベント。実際の名画に、ちょっとしたユーモアや違和感が加えられた奇妙なアートたち。仕事終わりの疲れた頭には、ちょうどいいくらいの軽さと面白さ。美菜は、ずっと楽しみにしていたのだ。


「今日までか」


瀬良は、短く返事をしながらスマホの時計に目を落とす。

まだ間に合う。閉館までには1時間ほど余裕がある。


「行くか」


その一言だけで、美菜の顔がぱっと明るくなる。


「……いいの?」


思わず、そんな言葉が漏れた。

喧嘩のあと、こんな風に隣を歩いて、手まで繋いで、まるで何もなかったみたいにデートへ向かうだなんて。胸の奥がじんわり温かくなる。素直に嬉しかった。


瀬良はそんな美菜の手を、軽く握り直す。


「行こう、せっかくだし。今日までなら見逃すのもったいない」


まるで喧嘩の原因さえ忘れてしまうほど、二人は歩幅を揃えてショッピングモールへと向かう。美菜の方からきゅっと指先に力が入ると、瀬良も無言のまま、その手を離さず、歩き続けた。


ネオンの灯りに照らされた道を、二人の影が並んで伸びていく。

何でもないような夜なのに、心はどこか浮き立っていた。



***



ショッピングモールのエスカレーターを上がると、期間限定の“ヘンテコ名画展”はちょうどフロアの一角で静かに来場者を迎えていた。


閉館間際だというのに、展示スペースにはまだ数組の客がいて、ところどころからくすっと笑い声が漏れていた。美術館のように堅苦しい雰囲気はなく、むしろ肩の力が抜けるような空間だ。


瀬良と並んで一枚一枚の絵を見て回りながら、美菜は子どものように目を輝かせた。


有名な名画が、シュールでちょっとおかしなアレンジをされて展示されている。

モナ・リザがソフトクリームを食べていたり、ゴッホのひまわりが全部たんぽぽになっていたり。


見れば見るほど細部まで作り込まれていて、思わず笑ってしまう作品ばかりだった。


「この発想、天才だね」


「モナ・リザ、ソフトクリーム似合いすぎだろ……」


そんな他愛もない感想を言い合いながら、瀬良は何度も美菜の横顔に目を向けていた。


昨日の夜の険しい表情はもうどこにもなく、展示を眺めるたびに小さく笑ったり、驚いたりするその表情が、瀬良の胸をじわりと温めていく。


今日、もしこのまま喧嘩をしていれば、この笑顔は見られなかったかもしれない――そう思うと、改めて美菜の存在が愛おしくてたまらなくなる。


展示を一通り見終わると、ショッピングモールの館内放送が閉店時間のアナウンスを始めた。


とはいえ、まだ少し時間はある。

夜も深まり、人の姿がまばらになったモールの通路は、昼間とは違った静けさとゆったりした空気に包まれていた。


「ちょっと、座って待ってて」


ふいに瀬良がそう言い、近くのベンチに美菜を座らせる。


「え? どうしたの?」


美菜が首を傾げる間もなく、瀬良はすっと立ち上がり、静かにその場を離れていった。


しばらく待っていると、瀬良が小さな花束を手に戻ってきた。

オレンジ色のガーベラや小ぶりのバラを中心にまとめられた、可愛らしいサイズのブーケ。無言のまま、それを美菜に差し出す。


「……なにこれ?」


驚いたように受け取った美菜に、瀬良は少し照れくさそうに目をそらしながら言う。


「昨日、本当に悪かった。……これ、美菜に似合いそうだと思って」


オレンジ色の花々は、まるで夕陽のように暖かい色合いだった。


喧嘩をして、すれ違って、それでもこうして手を繋いで、隣にいる今。


言葉以上に瀬良の気持ちが伝わってきて、美菜の胸がじんわりと熱くなる。


「ありがとう。……すごく、嬉しい!」


そう言って花束を抱きしめる美菜の声も、ほんの少し震えていた。


閉店間際のショッピングモールを抜け出すと、夜風が少し冷たかった。

それでも二人の手はしっかり繋がれたままで、離れることはなかった。


帰り道、美菜がふと立ち止まり、瀬良の顔を見上げた。


「瀬良くんと、付き合えてよかったって思うよ」


その言葉は、まっすぐで、どこまでも素直だった。


瀬良は、黙って小さく頷き、美菜の頭を優しく撫でる。

誰に見せるわけでもない、ささやかな幸せ。それでも、この何気ない瞬間が、きっと何よりも大切だと噛み締めた。


これから先も、こういう小さな幸せを、二人で重ねていきたい――そう静かに思いながら、瀬良はまた、美菜の手を強く握り直した。



***



帰り道の余韻を引きずるように、二人はゆっくりと歩き、自宅のドアを開けた。部屋の中は少しひんやりしていて、けれど、靴を脱いでリビングに並んで座った瞬間、さっきまでのデートの続きを包み込むような安心感がそこにはあった。


瀬良は慣れた手つきでキッチンに立ち、冷蔵庫の中から材料を取り出して静かに料理を始めた。今夜のメニューは、美菜の好きなロコモコ。

ハンバーグを焼く音とソースの香ばしい匂いが部屋に広がる頃には、美菜はソファで花束を眺めながら、幸せそうに目を細めていた。


「ほら、できた」


瀬良がテーブルにロコモコを並べる。目玉焼きの黄身がとろりと揺れて、照り焼きソースが香り立つ。美菜はスプーンを手に取り、ひと口食べると、思わず笑顔になった。


「……美味しい。やっぱ、瀬良くんが作るごはん好き」


「そりゃどうも」


瀬良は照れくさそうに短く返しながら、自分の分も口に運ぶ。

二人きりの静かな夜、何でもない食事が、こんなにも満ち足りた時間になるなんて、少し前までは思いもしなかった。


食事を終えると、瀬良は食器を片付けながら、お風呂を溜め始める。

湯気がふんわりと洗面所に立ち込める頃、瀬良はタオルを持ってリビングに戻った。


「……美菜、お風呂入りな」


声は優しくて、どこか今日はいつも以上に甘やかすような響きが混じっていた。

けれど、美菜はすぐに立ち上がらず、瀬良の方をじっと見つめていた。

その視線の意味を読み取れず、瀬良が小さく首を傾けたその瞬間、不意に美菜が静かに身体を寄せ、そっと抱きついてきた。


「……新羅と一緒に入りたいな……?」


少しだけ小さく、甘えるような声。

意識して呼ぶ、普段は呼ばない下の名前。

瀬良はその言葉を聞いた瞬間、固まった。

普段は我慢強くて、自分から甘えたりわがままを言ったりしない美菜が、こんなふうに素直に甘えてくる。

それが瀬良には、たまらなく嬉しかった。


「………………」


言葉が出てこない。だけど、断る理由なんて一つもなかった。

美菜のぬくもりを感じたまま、瀬良は静かに息を吐き、喉の奥で小さく笑う。


「あー……じゃあ、一緒に入るか」


少し照れたように、どこかぎこちなく言葉を繋げた瀬良の様子に、美菜は顔を上げて、くすくすと笑った。

その笑顔は、何よりも柔らかく、どこまでも幸せそうで。

瀬良も、思わずつられて小さく笑い返してしまう。


湯気の立ちこめる浴室は、まるでふたりだけの小さな世界だった。


静かな水音の中で、美菜は湯船に身を沈めたまま、そっと後ろに座っている瀬良へ身体を寄せた。

肩と肩が触れ合う距離――それこそがこんなにも心が満たしていく。


「……新羅」


ぽつりと名前を呼ぶ声は、湯の熱さに溶けるように静かだった。


瀬良はその声に反応し、目が合った瞬間、ほんの少しだけ微笑む。


喧嘩していた時間が、遠い昔のことのように思えるほど、いまは穏やかだった。


「さっき言いそびれたけど……」


美菜は言葉を選ぶように一呼吸置き、瀬良の腕に指を絡めた。


「今日、デートしてくれてありがとう。花束も、嬉しかった。……仲直り、してくれてありがとう」


瀬良は短く息を吐き、そっとその手を包み込む。

湯の温度よりも熱い指先の感触が、互いの肌を伝い、心まで染み込んでいく。


「俺のほうこそ。お前の顔、やっとちゃんと見れた」


瀬良の声は、低く静かで、どこか甘く響いた。


「美菜が笑ってるだけで、もう十分だって思った」


美菜はその言葉に胸がじんと熱くなり、ゆっくりと体制を変え、瀬良の肩に額を預けた。

熱いお湯に浸かっているはずなのに、瀬良のぬくもりはそれ以上に心地よかった。

喧嘩をして、離れそうになった距離を、いま確かにまた縮めた――その実感が、何よりも幸せだった。


「新羅といると、全部があったかい」


「……そりゃ、湯船だからな」


「違うよ……そういうんじゃなくて」


美菜はくすっと小さく笑いながら、瀬良の指をぎゅっと握り直した。


「一緒にいると、心まであったかくなる。喧嘩しても、怒っても……やっぱり新羅がいいなって思うの」


瀬良はその言葉を静かに噛みしめるように、美菜の肩にそっと腕を回した。

お湯に浸かる二人の距離はもう、隙間すらないほどに寄り添っている。


「俺も、美菜じゃなきゃ駄目だって思った」


「……ふふ」


「これから先、いくら喧嘩しても、お前のこと……絶対に手放さない」


その言葉は、静かな浴室に深く響き、美菜の胸を甘く締めつけた。

安心と愛しさがじんわりと広がって、熱いお湯とともに体の芯まで染み渡っていく。


ゆっくりと唇を重ねるような、そんな静かなキスは交わさなくても――

指先から伝わる温度が、何より確かに“愛してる”と語っていた。


喧嘩を乗り越えた夜。

ふたりは、互いの存在をただ静かに、確かに噛みしめるように湯の中で寄り添い続けた。


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