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Episode218



バタバタと騒がしかった朝のバックルームの喧騒も、営業が始まる頃にはすっかり落ち着き、サロン内はいつもの穏やかな空気に包まれていた。ドライヤーの柔らかな音、シャンプー台から微かに聞こえてくる水音、静かに流れるBGM。スタッフたちの声も、さっきまでの大騒ぎが嘘みたいに落ち着いている。


瀬良はフロントのカウンターに置かれた予約表を、何気なく手に取った。いつも通り自分の担当顧客の名前を確認しながら、目を止める。


その日、自分の欄に見慣れない名前があった。


――馬場 暦(ばば こよみ)


「……新規か」


無意識に声が漏れる。カットとパーマの組み合わせ、恐らく男性客だろう。メンズのカットは特に得意分野で、指名を増やすにはありがたい予約だ。瀬良は静かにパソコンの画面に目を移し、予約ソフト「サロンボード」を開いて、詳細を確認する。


(……新規クーポンは……似合わせメンズカットとパーマ選んでるな)


予約内容を読みながら、マウスをスクロールさせて備考欄に目を落とした。何か希望のスタイル指定でも書いてあるのかと思ったその瞬間――瀬良の手が止まった。


そこには、丁寧に整った文字で短いコメントが添えられていた。


『はじめまして。失礼承知ですが、Irisさんにお伺いしたい事があり予約を入れました。本日はよろしくお願いいたします』


「……は?」


瀬良は無意識に眉をひそめ、背もたれに軽く寄りかかった。


Iris。

その名前は、彼のゲームプレイ時の名前。美容師である自分とはまったく別の顔。

――その名前が、予約備考欄に書かれている。


「……またか」


低く小さな独り言をこぼし、ディスプレイから目を離す。


少し前、あの東谷詩音がネット記者に情報をリークしたせいで正体が特定され、一時的にネット上で“美容師Iris”の話題が広まった。サロン名まで漏れてしまい、物好きな“ファン”がわざわざ髪を切りに来る、なんてことが何件か続いた時期があった。


「……やっと落ち着いたと思ってたんだけどな」


瀬良はひとつ、静かに深く息を吐いた。特に拒否する理由もないし、接客自体は慣れている――だが、“Iris”目当てで来る客は、どこか普通の指名客とは温度が違う。


指名も、スタイル相談も後回し。ただの美容師としての瀬良ではなく、“Iris”としての自分に会いにくる。

どうしても、普通の仕事のように割り切れない空気になるのが、少しだけ厄介だった。


「……まぁ、いい。来たら来たで普通にやるだけだしな」


静かにそう呟き、予約表を閉じた。


馬場 暦――その名前が今日の指名リストにあるのを横目で見つつ、瀬良は再び、慣れた手つきでハサミを手に取った。

けれど内心、微かに沈んだ違和感は、なかなか消えそうになかった。


ふとフロントから千花の「いらっしゃいませ〜!」という明るい声が響き、瀬良は何気なく視線を上げる。


ガラス越しに見えるのは、どこか落ち着かない様子で立っている若い男の新規客。千花が笑顔で案内し、ゆったりとした足取りで席へ向かう。男は椅子に腰を下ろしてもなお、スマホをいじったり、店内をキョロキョロと落ち着かない様子だった。


そのソワソワした後ろ姿を、遠くからじっと見ていた瀬良は、近くを通りかかった千花にふと声をかけた。


「伊賀上、あの新規……どんな感じだった?」


「え?どんなって……普通にいい人そうでしたよぉ?」


千花は首をかしげながらも、特に警戒心なくそう答えた。


「カルテも別に、変なとこなかったですし?」


「ちょっと見せて」


瀬良は手を伸ばし、千花からさっき記入してもらったカルテを受け取った。


馬場 暦。

年齢は20歳。

性別、男。

職業欄には「専門学生」と書かれていた。


住所も、連絡先も――至って普通。

少なくとも、備考欄のあの妙なコメント以外は、どこにも不審な点はない。


「……専門学生なのか」


瀬良がカルテを眺めながらぼそっと漏らすと、千花がのんびりとした口調で返す。


「みたいですね〜!オシャレだったし、美容学生とかかもですねっ!」


その言葉に瀬良は小さく頷く。確かに――見た瞬間、薄々そう思っていた。

すこしルーズなオーバーサイズのトップスに、細身のパンツ。程よくくたびれたスニーカーもセンスは悪くない。髪は派手めなハイトーンのシルバーアッシュ、伸びかけたパーマのカールがまだ所々残っていて、耳元には大きく開いたピアス。


専門学生……特に美容学校生なら、この格好は珍しくない。


「……まぁ、美容学生か。ありがちだな」


そう小さくつぶやいたところで、横から千花がぐいぐいと背中を押してくる。


「瀬良先輩!待たせてますよ!早くカウンセリング行ってください!」


アシスタントとして千花も他の準備が山積みで、客の待ち時間を無駄にはできない。瀬良の腰を遠慮なく押してきて、彼女は少し急かすように笑った。


「ほらほら、瀬良先輩〜!逃げちゃダメですっ!」


「……はいはい、今行くから」


瀬良は短くため息を吐きつつ、カルテを戻しながら立ち上がった。

胸の奥に、かすかな違和感と嫌な予感を抱えたまま。

軽く首を回して気持ちを切り替えると、静かに歩き出す。


目の前でそわそわと座って待つ馬場暦。

その落ち着かない背中を目にしながら、瀬良はゆっくりと椅子の横に立ち、いつもの静かな声で話しかけた。


「馬場さん、お待たせしました」


「あっ!!!はい!!」


「はじめまして、今日担当の瀬良です。よろしくお願いいたします」


瀬良はゆっくりと椅子の後ろに立ち、声のトーンをいつも以上に柔らかくした。

まずは、この緊張を解かせることが先だ。

そのために、あえて備考の話には触れず、軽い話題から切り込む。


「……もしかして、美容学生?」


瀬良のその一言に、馬場は少し驚いたように目を見開き、すぐに恥ずかしそうに頷いた。


「あっ、はい!そうです、今2年で就活中なんです」


少しだけ笑みがこぼれた馬場の表情は、先ほどより幾分和らいでいるように見えた。

瀬良は内心、少しホッとしながらもパーマとカットのカウンセリングを進める。

話を聞けば聞くほど、彼は別に変な客ではないように思えた。

むしろ、話しやすくて人懐っこく、どこか瀬良との相性も良い。


髪型の好みや就活向けのスタイルについて会話を弾ませ、さらにブランドや美容業界の話題に及ぶと、二人は自然と笑い合うほど盛り上がっていた。

瀬良自身も、こうして新規の客と和やかに話すことは珍しく、自分でも不思議な気持ちになる。


だが――そんな空気は、ふとした一言で一変する。


「……あの、備考欄にも書いたんですけど……っ!!」


パーマのロットを巻いている最中、馬場がとうとう堪えきれないように切り出した。

瀬良は、その声色で「来たな」と察した。


「瀬良さんは……Irisさんなんですか……?」


真っ直ぐに向けられる期待に満ちた視線。

瀬良はほんの一瞬、手を止めそうになった。

だが、なんとか指先の動きを止めずに、静かに答えた。


「……そうだけど」


なるべく短く、あっさりと。

これ以上、話が広がらないように。


だが、馬場はそんな配慮もお構いなしに、勢いそのままに言葉をぶつけてきた。


「じ、実は……俺!!みなみちゃんの最初期古参リスナーなんです!!!」


「……は?」


その一言は、瀬良の思考を一瞬で止めた。

あまりの唐突さに、反射的に漏れた一言。

客相手に「は?」などと無愛想に返したことを、すぐさま心の中で反省する。


しかし思ってもみなかった言葉に思考が一瞬絡まる。

みなみちゃん――

彼女の名前が、こんな他人の口から出るとは思ってもいなかった。

その瞬間、瀬良の中で“美容師”としてのスイッチは切り替わった。


「それが、どうかしたんですか?」


内心、冷や汗をかきながらも表情には出さず、静かに聞き返す。


「Irisさんって、みなみちゃんとコラボしてましたよね……?だからもしかして……実際に会ったことあるんじゃないかなって……。ていうか、その、みなみちゃんがこのサロンで働いてるかもって投稿も見たことあって……もしかしたらって」


その言葉の続きを、瀬良は遮った。

このまま話させるわけにはいかなかった。


「すみません。そういった詮索みたいなことをするお客様は、前にもいらっしゃって。次回以降、全員お断りしています。自分がIrisだってことも、プライバシー的に迷惑なので、あまりその話題はしたくないんです。申し訳ございません」


言葉は謝罪を含んでいたが、その口調はひどく冷たかった。

それ以上は喋るな――瀬良の無言の圧は、確実に馬場に届いた。


馬場はしゅんと肩を落とし、視線を下げたまま、小さく頷いた。


瀬良は残りのロットを素早く巻き終え、薬剤を手にして流れるように次の工程へと移った。

まるで、もうこの話は存在しなかったかのように、機械的に仕事を進める。


そして、飲み物を聞くとすぐにカウンターへ向かう。

手際よく馬場が頼んだコーヒーを淹れながら、瀬良は心の中で重たい吐息を落とした。


(あー、俺じゃなくて美菜狙いか)


Iris目当ての客なら、まだ適当にあしらえた。

けれど、みなみちゃん――美菜の話題となれば、話は別だ。

瀬良にとって、美菜は何よりも大切で守りたい存在。

その彼女に興味本位で近づく人間がまた現れた。

それがたまらなく鬱陶しかった。


(……伊月だけでも手一杯だってのに、またかよ……)


コーヒーをカップに注ぎ終えると、瀬良はもう一度、深くため息を吐いた。

その吐息には、確かな苛立ちと、彼女を守ろうとする静かな覚悟が滲んでいた。



***



トレイを片手に席へ戻ると、馬場は瀬良の姿に気づいてバッと顔を上げた。

先ほどの会話がまだ尾を引いているのだろう。

馬場の表情は申し訳なさそうに歪んでいて、落ち着かない様子で手元をモゾモゾといじっていた。


瀬良がカップをテーブルへ置いた瞬間、馬場は慌てたように頭を下げる。


「……す、すみませんでした!本当に……!俺、Irisさんのこと考えずに探るような真似して……!」


声が少し震えていた。

その謝罪は、取り繕ったものではなく、素直な反省からくるものだと瀬良はすぐに察した。

相手の感情を読んで、計算して動く人間の空気とは違う。

伊月のように、裏でなにか思惑を張り巡らせているわけでもない。


「……別に。謝る必要はないけどな」


瀬良は短く返しながらも、どこかやりにくさを覚えていた。

ここまで真っ直ぐに謝られると、逆に責め立てることもできず、あの冷たく放った自分の言葉すら少し重く感じる。


馬場の顔は、まだどこか幼さを残していた。

背伸びして大人ぶろうとしながらも、気持ちが先走ってしまう子供のようだ。

この手のタイプは本当に興味だけが勝っただけだろう。悪意というより、純粋すぎるがゆえの行動だ。


瀬良は、ふと試すように問いかけた。

もし、この男が伊月のように害意を持って近づくなら、今のうちに警戒しておいたほうがいい――そう判断したからだ。


「……仮に俺が、みなみちゃんとリアルで知り合いだったとして。そんとき、お前はどうしたんだよ」


瀬良の声は落ち着いていたが、目はじっと馬場を捉えていた。

その問いかけに、馬場は口を開きかけて、少し考え込んだ。

眉を寄せ、指先を無意識に組んだり解いたりしながら、探るように言葉を選ぶ。


「……どう……したんでしょうか。うーん、たぶん……」


ぽつりぽつりと、素直に考えを紡ぎだす。


「俺……ただ、みなみちゃんのこと、最古参で推してるだけなんです。恋愛的に好きっていうより……うーん……アイドルに会いたいみたいな……そんな感じだと思います。好きは好きなんですけど、恋愛じゃなくて……」


馬場は言葉を探すように、じれったそうに眉間にしわを寄せた。

そして照れくさそうに苦笑しながら、肩をすくめる。


「変ですよね、こういうの……。でも本当に、みなみちゃんは“最推し”なんですよ。特別な存在っていうか、アイドル的っていうか。彼女はみんなのみなみちゃんで、俺だけのものになるなんて思ってないです。むしろ、心から幸せになってほしいって思ってるし……だから今日も、俺がどうこうしたいってわけじゃなくて……ただ、応援してます、これからも頑張ってくださいって、本人に一度だけ、伝えたかっただけというか……」


馬場は恥ずかしそうに、けれどその目はどこか真剣だった。

自分でもその感情を正確には言い表せないようで、言葉を選ぶたびに口ごもり、照れ笑いを浮かべる。


瀬良はその様子をじっと眺めていた。

ああ――と、内心でゆっくりと理解が降りてきた。


これは確かに、“オタク”の顔だった。

推しという言葉が、単なる流行りではなく本音から出ている。

本当に、馬場はみなみちゃん――美菜の、筋金入りのファンなのだろう。

アイドルや配信者に向ける純粋な憧れの目線。恋愛のそれではなく、ステージの上の存在を心から応援するファンの目だった。


馬場はふと、思い出したように小さく笑い、続けた。


「……俺、自分如きが支えてるなんて大げさなこと、思ったことはないです。でも、ずっと応援してるんです。初配信から、約7年……。最初から最後まで、ずっと」


照れたように俯いた馬場は、ふと顔を上げ、少しだけ希望を込めた声で瀬良に尋ねた。


「……あの。もし、Irisさんがみなみちゃんに会うことがあったら……良かったら、“いつも配信ありがとう”って伝えてもらえませんか?」


その言葉はまるで、緊張で震えながらも夢を託す少年のようだった。

瀬良は一瞬だけ視線を外し、少しだけ息を吐いてから、無表情のまま答える。


「……なら、伝えといてやってもいいけど」


その瞬間、馬場の顔はふわっとほころんだ。

心から嬉しそうに、小さく頭を下げる。


瀬良はその姿を静かに見つめながら、心の中でふと田鶴屋や木嶋の顔を思い浮かべていた。

馬場の話す“推し”への想いは、きっとあの二人が美菜に向ける感情と、どこか同じ場所にある。

独占欲ではなく、心から幸せを願う応援の気持ち。

確かに、美菜は“みんなのみなみちゃん”なんだと――そう、瀬良は思った。



***



パーマの工程もいよいよ終盤。

ロットを巻き終えた馬場の髪に薬剤がじわじわと馴染み、カールの形が少しずつ定着していくのを、瀬良は無言で確認していた。手際よく薬剤を塗布し、タイマーが鳴ったと同時に後ろへ回り込む。そろそろロットを外すタイミングだ。


「馬場くん、じゃあロット外していくから、首ちょっと楽にして」


落ち着いたトーンで声をかけると、馬場は「はい!」と緊張した様子で頷く。

だがその瞬間――横から、何食わぬ顔で美菜がスッとアシスタントとして現れた。


「お疲れさまです、瀬良くん。手伝うね」


爽やかな笑顔とともに馬場へも軽く会釈し、何の疑いもなくロットを外し始める美菜。

良かれと思っての行動――だが、瀬良の背筋には嫌な汗が流れた。


(……おいおい、今じゃないだろ……)


瀬良は心の中で顔を覆いたくなる。馬場との会話の流れも空気も読まず、無防備に飛び込んできた美菜の“タイミングの悪さ”に内心突っ込まずにはいられなかった。


「なんか盛り上がってたけど、何の話してたんですかー?」


何気なく――本当に何気なく、笑いながら美菜がそんな質問を投げかける。

ロットを外す手は止めず、ただ無邪気に。


その言葉に馬場の顔はピクリと引きつり、急激に赤面していく。耳まで真っ赤に染まった彼は、ボソボソと照れたように口を開く。


「あ……えっと、実は……す、好きなVTuberの話をしてたんです……」


その言葉を聞いた瞬間、美菜の顔もピクッと固まる。

瞬時に、脳内に警報が鳴り響いた。


「へー……VTuber……へー……今、流行ってますよね〜」


棒読み。

明らかに心ここにあらずのまま、上滑りするような言葉。

ロットを外しながら、無言で瀬良の方をチラッと見る。目が合った瞬間、あちゃーとでも言いたげな表情を浮かべた。


(……アホだな)


瀬良は心の中で小さくため息をつく。そんな美菜を見ていると、呆れながらも、どこか愛おしくなる。


このまま微妙な空気が流れるのも居心地が悪くて、瀬良はサラリと話題を変えた。


「てか、美容学生らしいよ、馬場くん」


美菜は一瞬間が空いてから、驚いたように顔を輝かせた。


「あ!!そうなんですか!!!!!」


「へ!?あっ、そ、そうです……」


馬場はうろたえながらも素直に頷く。美菜は、瀬良に“ナイスアシスト”とばかりに、目を細めて満足そうに笑った。

しかし馬場の様子は、どう見てもさっきからおかしかった。明らかに美菜が話しかけてから緊張の度合いが増している。


ロットを全部外し終わると、美菜は手に持ったロットを整えながら、逃げるように立ち上がった。


「…………じゃ!私はこの辺で!」


足早に馬場の隣を離れ、そそくさと退散していく。

瀬良はその背中を見送ると、軽くクスッと笑った。


馬場をシャンプー台へ案内しながら、シャンプーキャップを外し、ぬるま湯で丁寧に薬剤を流していく。

しばらく静かな時間が続いたあと、不意に馬場がぽつりと呟いた。


「あの……俺、美容師目指してるけど……女の人と話すのが実は苦手なんです……」


瀬良は手を止めず、シャンプーノズルを動かしながら無表情で答える。


「……それはどうにかしないと美容師としては欠点になるのでは」


「ですよね……。それで、面接も2店舗落ちちゃって……俺、美容師向いてないのかなぁ……って、思い始めてて」


湯音が静かに響く中、馬場はフェイスガーゼ越しに拳をぎゅっと握り締め、唇を噛んでいた。

どこか自虐的で、それでも悔しさを滲ませる声。


瀬良は、そんな馬場をちらりと見つめる。

自分も似たような時期があった。――だが、安易に励ます言葉が浮かばない。


「……別に、それで美容師諦めなくていいと思うけど」


短く、だが静かにそう言った。


「そう……なんですかね……」


馬場の声は弱々しかった。

瀬良は自分の不器用さを噛みしめながら、ふと“みなみちゃん”だったらどう声をかけるだろうと考えた。


「……別に女性と全く接せない訳じゃないんだろ?きっと働いてたら慣れてはくると思うけど……どうしても無理ならメンズ専門のサロンだってある訳だし、そういう風に自分を活かして美容師したらいいんじゃね?」


「でも俺、変わりたいんです……!克服して、頑張りたいって思ってて……でも、やっぱり最初はメンズサロンからスタートした方がいいですよね……」


理想と現実の狭間で揺れるその心は、痛いほど伝わった。

瀬良は自分の入社当初を思い出す。

周囲から“天才”と呼ばれながらも、心の中は常に不安と孤独で満たされていた日々。


「自分のやりたい事、働きたい店、ちゃんと考えて後悔のないようにな。働く店や先輩や環境で、美容師なんて簡単に潰れるからな」


瀬良は静かにそう伝えた。

きっと馬場も、今がその分岐点なのだ。


「……本当にしたい事、諦めんなよ」


不器用だけど、それが今の瀬良の精一杯だった。

馬場は驚いたように目を見開き、そして小さく笑った。


「今の言葉、みなみちゃんに相談コメントした時に……みなみちゃんも言ってくれた言葉です……!」


瀬良はほんの少しだけ笑みを浮かべた。

きっと馬場は何度も、みなみちゃんの配信に救われてきたのだろう。


「みなみちゃんとIrisさんはなんか……コラボとか見てて、どことなく似てるなーって個人的に思ってます。きっとIrisさんも優しいんですね!」


「どうだろうな。優しいかは分からないけど、馬場くんみたいに素直な子は、応援したくなるかも」


自然に浮かぶ瀬良の微笑みに、馬場は目を輝かせた。


「噂通りのイケメン……!」


小さく呟くように感動している馬場。

瀬良はその素直さに苦笑しながら、髪を優しくタオルで拭き上げた。


「……良かったらサロン……」


瀬良は言いかけたが、その先の言葉が喉で止まった。

美菜のことが――脳裏をよぎる。


馬場がこの店に来たら、いずれ“みなみちゃん”だと気付くかもしれない。

伊月のように、またストーカーじみた事態が起きるかもしれない。

……何より、美菜を守れなくなるかもしれない。


「……?何かおっしゃいました?」


不思議そうに首を傾げる馬場。

瀬良は、曖昧な笑みで話を逸らした。


「あー……いや、いい就職先、決まるといいな」


「はい!ありがとうございます!!頑張ります!!」


その笑顔は、疑いも知らない無垢なものだった。

罪悪感を噛みしめながら、瀬良は最後にもう一度確認した。


「パーマ、どうですか?」


「うおっ……!めっちゃいい感じですね!!!すごいカッコいい!!俺じゃないみたいです!!!」


その満面の笑みに、瀬良はやはり胸がチクリと痛む。

こんな風に技術を喜んでくれる顧客は本当に嬉しい――だからこそ、馬場の夢を叶えてほしいと願う。


そんな時、ふいに背後から田鶴屋の声が響いた。


「君、美容学生なの?」


「……は、はい!就活中の2年生です!!」


「おー崖っぷちだねぇ。うちくるー?」


場の空気が凍りついた。

瀬良と馬場、二人同時に目を丸くする。


「この時期にまだ決まってないの辛くない?国試に追い討ちかける時期じゃない?さっさと就活終わらせちゃいなよ〜」


にこやかに勧誘する田鶴屋。

瀬良は無言で――しかし確実に、田鶴屋へ圧を送った。


(田鶴屋さん……この子、みなみちゃんのファンですよ……!)


その視線に気づいた田鶴屋は一瞬だけ考え、ふっと笑って頷く。


「まずは見学からだよな!ごめんごめん!!」


軽く馬場の肩を叩きながら笑う田鶴屋。

だが――完全に、何も伝わっていない。


「えっと……お、俺もここで美容師になれたら……めっちゃ嬉しいです!!瀬良さんと一緒に働いてみたいです!!!」


「おー、めっちゃ元気だねぇ。いいね、まずは見学して、良かったら就職しちゃいなよ」


「本当ですか!!!」


どんどん進んでいく話。

瀬良の努力は、あっけなく田鶴屋の一言で崩れ去った。


(……はぁ……)


呆れるしかない瀬良は、心の中で小さくため息をついた。

馬場の無垢な笑顔が、今日はやけに重たく感じた。


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