Episode217
朝の空気には、ほんのりとした冷たさが混じりはじめていた。いつもの道を並んで歩く美菜と瀬良の吐く息が、白く空に溶けていく。
「寒くなってきたね……」
「……ああ。そろそろ冬用のコート出した方がいいかもな」
瀬良の言葉に、美菜は「そうだねー」と頷きつつ、コートのポケットに手を突っ込む。手袋をするにはまだ早い気もするけど、それでも朝の空気は指先を確実に冷やしてきていた。
「今日、朝練やめてよかったかも。ちょっとのんびり行こっか」
「……いいよ。コンビニ寄ってコーヒーでも買っていこう」
信号待ちの間に、二人は近くのコンビニに立ち寄り、それぞれホットコーヒーを片手に歩き始める。コーヒーの湯気が立ちのぼるたび、鼻に届く香ばしい香りに癒されながら、ゆっくりと職場へと向かっていた。
「昨日、めちゃくちゃ笑ったなぁ……」
「……まだ言ってる」
「まだ思い出し笑いしてるもん。瀬良くんの……エビフライ」
「オットセイ」
「ふふふっ……」
そんな会話をしながら、ふたりはいつもの美容室に到着する。朝の光が差し込むガラスの扉をくぐると、すでに店内は準備が始まっていた。
カウンター前では、田鶴屋が真剣な顔でパソコンの画面を操作している。その隣では、ほうきを持った木嶋が笑いながら、何やら楽しそうに話しかけていた。
「おはようございまーす」
「おっ、噂をすればだな。おはよ〜」
美菜の明るい声に、田鶴屋がパソコン作業を止めてちらりと顔を上げ小さく会釈し、木嶋は元気よく手を振って応える。
「美菜ちゃん、瀬良きゅん、おっはよーございまーす!」
「珍しくゆっくりだな。朝練サボりか〜?」
「んー、今日は休養日ってことにしたんです」
「まあそういう日も必要だよねぇ。二人とも真面目だし、根詰めてまた体調崩さないようにね」
「……はい」
と、軽く挨拶を交わしたあと、ふと先程まで二人が盛り上がっていた話題が気になって、美菜が首を傾げる。
「ねぇねぇ、何の話してたの?」
「ああ、昨日のみなみちゃんの配信の話だよ」
田鶴屋がそう答えると、木嶋が勢いよく頷いて続ける。
「いや〜〜、めちゃくちゃ笑ったなあ!お絵描きしりとり!3番の絵、ヤバすぎでしょ!」
「え、二人とも私の配信見てたの!?」
「もちろんっ!だって通知きたし!」
「俺も見てた。ていうか、録画配信でもう一回見た」
「そんなに!?」
「あれは何回見ても笑えるわ。昨日の3番のやつ、なにあれ。アザラシ……じゃないんでしょ?」
「いや、オットセイじゃなかった?」
「え、いやエビフライだって!」
「エビフライはひどくない!?」
「あれ、ヒレみたいのついてたじゃん?でも衣もついてたんだよね。パン粉的な」
「目ついてたし、なんか謎の物体の顔が“どや!”ってしてたし……意味わからんセンスしてたよね」
「あはははっ」
美菜は苦笑しつつも、横目で瀬良の反応を盗み見る。瀬良は、ほんのわずかに目を伏せて、コーヒーをひとくち。明らかにテンションが低い。
(あ〜……やっぱり気にしてる)
「……あれ、誰が描いたのか超気になるよね〜。ほんと才能だと思う。笑いの方向で」
「俺、あの人のセンス好きかも。逆に芸術ってこういうことじゃない?」
「もはやアート」
と、好き放題に語り始める二人。瀬良は隣で無言を貫きながら、少しずつ目線をずらし、気配を消すようにしていた。
それでも空気を察してか、美菜はこらえきれずに頬をぷくっと膨らませ、口元を押さえる。笑ってはいけない。でももう無理。
と、その時。
「……3番の絵は、良かったですよ」
不意に瀬良が、低く真面目なトーンで呟いた。
一瞬の沈黙。
「え?」
「……ヒレの構造、ちゃんと考えられてたし。目の配置も良かった。あれはオットセイです」
「う、うん……なるほど……?」
美菜の肩がぷるぷると震えた。
「ぷっ……ふふっ……ふふふふふっ……!」
ついにこらえきれず、美菜は爆笑しながら「もう無理!」と小声で叫び、バックルームへ駆け込んだ。ロッカールームのドアが閉まるその瞬間まで、「あっはははは!」という笑い声が響いていた。
店内に残された三人。
「……なんか、今日の河北さん、まだ“みなみちゃん”抜けてなくて珍しいな」
「というか……リアルみなみちゃんで可愛いですね……」
「……俺の美菜だけどな……」
小さくぼそりと呟く瀬良に、田鶴屋がくすりと笑って言った。
「まぁ、誰も盗りゃしないさ。安心しなよ」
「そうそう!俺も美菜ちゃんの事狙ったりしないし安心して!」
木嶋と田鶴屋のその言葉に、瀬良は少し胸を撫で下ろす。
笑いとコーヒーの匂いがまだ残る朝。
冬の気配と共に始まったこの日も、何だかんだで、いつも通り賑やかに始まっていた。
***
バックルームの扉を開けると、そこにはちょうどロッカー棚の前で背伸びをしている千花の姿があった。
彼女は華奢な体をいっぱいに伸ばして、棚の上段に置かれたダンボール箱に手を伸ばしている。中にはサロンで使う練習用のウィッグがぎっしりと詰まっているらしく、どう見ても危ういバランスで置かれていた。
「千花ちゃん、おはよ……何してるの?」
「わっ、美菜先輩っ!おはようございますっ! えへへ、ちょっと……ウィッグ取りたくて……」
「取るっていうか、落ちそうじゃない?」
「あと、ちょっとだけ……!」
その言葉の直後だった。
美菜がロッカーに荷物をしまって「手伝おうか?」と振り返ろうとしたその瞬間。
上から、ゴゴッという不穏な音がして――。
「危ないっ!」
直感的に美菜は駆け寄り、両腕で千花を抱き寄せるようにかばった。間一髪、箱が千花の頭の上に落ちる直前、身体を入れて庇ったのだ。
ドサッ、ガサガサッ、バサッ――!
中身のウィッグが勢いよくぶちまけられ、美菜の頭と肩を容赦なく覆う。ソフトな毛の束とはいえ、重量のある箱と大量のウィッグはそれなりの衝撃だ。
千花は一瞬、何が起こったのか分からず固まっていたが、美菜の体温と重みに気づいて、はっと顔を上げた。
「せ、先輩っ!?美菜先輩!!」
「ふぅ……間に合った、かな……」
「だ、だめです……!美菜先輩が……!ウィッグまみれになって……!」
必死で美菜の腕から抜け出した千花が、慌てて美菜の顔を覗き込む。最初は「ありがとう」と言いかけたその目が、次の瞬間、真っ青になる。
「っ……!血……!血出てますっ!!」
「え?」
美菜が手でこめかみ辺りを触ると、指先にうっすら赤いものがついた。どうやら、箱の角が当たったときに少し切れてしまったらしい。
「わっ、ほんとだ……でも痛くは……」
「だ、だめっ……!美菜先輩が……!わ、わたしのせいで……」
千花の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。必死に「すみませんっ!」「本当にすみませんっ!」と繰り返しながら、自分のロッカーから絆創膏を取り出し、震える指で美菜のこめかみに貼った。
「ちょ、千花ちゃん……泣かなくていいって、これはほんとちょっとだから」
「ぜんっぜんっちょっとじゃないですぅぅ……!うう……」
そのとき、ガラッとバックルームの扉が開いた。
「今なんかすごい音したけど大丈夫!?」
「美菜ちゃん、千花ちゃん!大丈夫!?」
「……何があった?」
瀬良、田鶴屋、木嶋の三人が一斉に駆け込んできた。散乱するウィッグと、箱の残骸と、そしてこめかみに絆創膏を貼られた美菜を見て、一瞬で状況を察する。
瀬良が真っ先に美菜のもとへ駆け寄り、低く小さな声で言う。
「……痛い?」
「いや、全然。ほんと、ちょっとだけ当たっただけだから……」
瀬良はその言葉を無視して、絆創膏の端をそっと指で押さえ、傷の様子を確認しようとする。その真剣な目がなんとも言えず優しい。
「……血、止まってるな。でも、浅いからって油断すんなよ。頭強く打ったとかない?ほか痛いところは?」
「だから大丈夫だってば〜」
「ほんとに?」
「うん。ちょっとかすったくらい……」
その横で、木嶋が腕を組んで言った。
「でも、頭打ってるってことはさ。脳に異常が出る可能性ゼロじゃなくないっすか?」
「打ってないってば」
「前に手切って『平気です〜』って営業して、結局縫ったの誰だったっけ?」
田鶴屋の冷静なツッコミに、美菜が苦笑いを浮かべた。
「……え、それは……ちょっと……まぁ……」
「“まぁ”じゃない。今回も様子見るってことで、病院行こう」
「過保護すぎ!」
「前科があるんでね」
瀬良も静かに頷いていた。美菜の「行きませんってば〜!」という抵抗の声は、三人の強固な“過保護シールド”の前にはほとんど意味をなさない。
そのやり取りを聞いていた千花は、またもや目を潤ませて小さく呟いた。
「頭!?脳が揺れてるかも…!?美菜先輩、まさか……死んじゃう……?」
「え!? 待って!? そこまで飛躍しないで!?」
「し、死んじゃったらどうしよう……わたしのせいで、ううぅ……っ!」
ばたばたと泣きながら再び美菜に抱きつく千花。そこにタイミング悪く…いや、“良く”やってきたのが、出勤してきた皐月と百合子だった。
「おはようござ……って、なんですか?この地獄絵図」
「え?えっ?美菜先輩!?なに!?どういうこと!?」
「あ、おはよう、二人とも……」
「美菜先輩、頭にウィッグたちが落ちちゃって、怪我して頭打って脳が揺れて大変な事になっちゃったぁあ〜!」
もう千花の中ではそこまで話が進んでいるのか、事実無根な事を皐月と百合子に説明する。
「ええ!?……脳が揺れてるってことは脳神経外科ですかね!?てか救急車!救急車は呼びましたか!?」
「あ〜!もう!!呼ばない!!行かない!わたし元気です!」
「うそだっ……うそついて強がってるだけだ……っ!」
千花の絶叫と、騒がしい先輩たちの過保護審議に、百合子は飲み込まれて一緒に心配して慌てふためく。皐月はバックルームのドア前で遠い目をした。
(……この人たち、朝からいったい何をやっているのだろう)
結局、騒ぎが収まったのは、営業時間ギリギリになってからだった。
美菜は「全然平気だから!」を繰り返しつつ、朝からのドタバタに心底疲れ果てていたが――
それでも、どこか胸の奥では、心配してくれるみんなの存在がちょっとだけ、くすぐったくて、嬉しくもあった。




