Episode216
晩御飯もお風呂もひとしきり終え、寝るまでの時間をゆっくり過ごしているが、美菜には頭の隅にずっと忙しくてできていなかったみなみちゃんとしての活動をそろそろしたいという欲にソワソワしていた。
「ねえ、瀬良くん。今日はこのあとちょっとだけ、配信しようと思ってるんだけど……」
美菜は彼の背中に向かって声をかけた。冷蔵庫から水のペットボトルを取り出した瀬良が、そのまま振り返る。
「ん? いいじゃん、久々でしょ。バレないようにだけ、気をつけとけよ」
その返しに、思わず苦笑が漏れた。
「うん、だから……お願い、私の部屋には入ってこないでね」
いつもと同じように軽く言ったつもりだったけど、その声の裏には少しだけ緊張が混じっていた。彼氏と同棲していることなんて、リスナーたちに知られたら、絶対にただでは済まない。特に、みなみちゃんのリスナー層は夢を求めている。自分が誰かの“彼女”であるなんて、ほんの少しでも匂わせただけで、きっと火種になる。
「了解。じゃあ俺は部屋でゲームしてるから」
瀬良は、まるでそれが当然かのように淡々と答える。スマホ片手に、自分の部屋へと向かうその後ろ姿に、少しだけ安堵する。
「おっけー、ありがと」
リビングに一人残された美菜は、ゆっくりと冷蔵庫から紅茶のペットボトルを取り出し、グラスに注ぐ。氷がカランと音を立てて溶け始めた頃、彼女は飲み物を片手に自室へと向かった。
ドアを閉める瞬間、小さく深呼吸をひとつ。気持ちを切り替えるスイッチだ。鏡の前に立ち、軽く髪を整えながら表情をチェックする。現実の「河北美菜」ではなく、これからは“みなみちゃん”として生きる時間。
机の上の配信機材が整然と並ぶ。マイク、照明、二台のモニター。どこかの誰かがこの姿を見たら、きっと驚くだろう。美容師の顔の裏に、こんな夜の顔があるなんて。
パソコンの電源を入れて、配信ソフトを立ち上げる。アイコンが明るく光ったその瞬間、胸の奥に小さく灯る緊張と高揚。みなみちゃんとしての世界が、そこに広がっていく。
「さて……久しぶりの、みなみちゃんだね」
自分にだけ聞こえるような小さな声でつぶやき、グラスに口をつける。その瞳は、すでに画面の向こうの誰かを見つめていた。
***
SNSでは日々、写真やちょっとした日常のことを更新していたけれど——配信そのものとなると、本当に久しぶりな気がした。気づけばもう何週間も、自分の声をマイクを通してリスナーに届けていなかった。
パソコンの前に座り、セッティングが済んだモニターを見つめる。配信ソフトの「配信開始」ボタンにカーソルを合わせる指先が、ほんの少しだけ震えているのを感じた。心の奥で小さく脈打つ緊張と期待。それでも、胸を張るように深呼吸をひとつして——
「よし……」
マウスをクリックした。
「よいしょ……あー、あー、聞こえてるかな?」
ヘッドホン越しに流れる、いつもの軽快なBGM。画面に映るのは、にこやかに手を振るみなみちゃんのアバター。マイクのチェックをするための定番の挨拶が終わると、画面の右側が一気にざわめき始めた。
【みなみちゃん!!!】
【みなみちゃーーーん!!!】
【こん!!みなみちゃん久しぶり!】
【みなみちゃんおかえりー!!!(。・Д・。)ノ】
【久々すぎる】
【マイクおk】
【みなみちゃんの配信待ってたよ】
【みなみちゃん元気だった?】
【生きてたのか】
【こんばんはー】
「すごい……!みんな来てくれてありがとう!」
思わず、声が明るくなる。画面越しのリスナーたちが、まるで本当に目の前にいるみたいに、温かい言葉を次々と投げかけてくる。その勢いは全く止まる気配がなく、コメント欄はあっという間に賑やかな祭りのような雰囲気になった。
「今日はね、久々の配信だから、みんなのコメントいっぱい読みたいなって思ってるよ〜。まったりおしゃべり枠です!」
そう言った瞬間、コメント欄がまたひときわ大きく波立った。話題は次々と飛び交いながらも、やがて「恋バナ」に集中していく。
【恋愛相談してもいい?】
【実は職場の先輩が好きで……】
【彼女できないんだけどどうしたらいい?】
【片想いっていつまで続けるべき?】
「うわ〜、恋愛相談きたきた!いいよ、今日は恋バナの日ってことで〜!どんどん聞かせて!」
マイク越しにワクワクした声を響かせながら、モニターに視線を注ぐ。みなみちゃんのアバターも小さくぴょこんと跳ねる。
「まずは……えっと、【職場の先輩が好き】ってコメントね!」
【そう、でもその人めちゃくちゃ仕事できて、全然近づけないんです】
【飲み会とかではちょっと喋るけど、それ以上は距離があって……】
「なるほどな〜〜!仕事できる先輩ってだけでハードル上がるよね〜、わかる!でも逆に言えば、そういう人って、ふとした気遣いとかすごく印象に残るかも!たとえば、疲れてるときにそっとお茶入れてあげるとか、『最近忙しそうですね』って一言添えるだけで、“気にしてくれてるんだ”って思ってもらえるかもよ〜!」
【あ、それならできそうかも】
【みなみちゃん、姉御みたいで頼りになる】
「えへへ、実はね〜、そういう友だちの恋バナに乗るのめっちゃ得意なの!」
【じゃあ次!年下の子に告白されて悩んでます】
【歳の差って気にしますか?】
「おお〜〜それはまた別ベクトルの悩み!年下ってちょっとドキドキするよねぇ……!でも、相手がちゃんと自分のこと見てくれてて、リスペクトしてくれる人なら、年齢ってそんなに壁にならないんじゃないかなって思うよ。大事なのは“信頼できるかどうか”だと思うな〜」
【あぁ〜それで迷ってた】
【なんか背中押された気がする】
「よしよし、恋はタイミングと直感も大事だよ〜。あと、自分の気持ちに正直でいること!」
次々に寄せられる恋愛相談に、みなみちゃんは表情豊かに、そしてときに真剣な声色で答えていく。恋人へのプレゼント、告白のタイミング、長続きする秘訣、復縁するべきかどうか——画面越しの“好き”に関する悩みが、夜の静かな時間にふわふわと舞い込んでくる。
【告白して振られたけど、まだ好きなんです】
「うん、それはすごく切ないね……でも、好きな気持ちって、無理にやめるもんじゃないと思うの振られたことより、ちゃんと自分の気持ち伝えたことのほうがずっと大切。恋愛って、成就しなきゃ意味ないわけじゃないし、想い続ける時間もちゃんとその人の一部になるから……ね」
【(´;ω;`)】
【優しすぎるよみなみちゃん】
【今の言葉録音したい】
「やだ〜、みんな感情移入しすぎだよ〜!」
笑い合いながらも、心の奥では確かにリスナーたちとの距離が近づいていく感覚があった。誰かの声を聞いて、誰かの気持ちに寄り添って、ただ一緒に過ごす夜。そんな時間が何よりも大事だと、みなみちゃんは知っている。
「……こうしてみんなの話聞いてると、なんかこっちまで幸せな気持ちになってくるね」
【みなみちゃんってほんとに恋バナ得意】
【こういう配信もっとしてほしい】
【ガチで恋愛ラジオやって】
【みなみの恋愛110番】
「それいいね〜!いつかほんとにやってみよっかな、恋愛相談限定配信とか!」
コメント欄が再びわっと湧き上がる。笑い声とともに、夜はまだまだ更けていく。
背中には、壁一枚隔てた向こうの部屋でゲームに没頭している瀬良の気配が微かに感じられた。でも、それは今の彼女にとって、あくまで穏やかな“日常”の一部。ここでは“みなみちゃん”として、リスナーたちの物語にそっと耳を傾けていた。
「じゃあ、次の恋バナいってみよっか〜!」
画面の中も外も、少しずつ温かく色づいていく、そんな夜だった。
***
配信開始から1時間が経過した頃。トークで盛り上がったみなみちゃんは、ふとモニターの横に置いていたペンタブを手に取って言った。
「せっかくだし、ちょっとゲームしよっか〜!みんなでお絵描きしりとり〜!」
【きたあああああ】
【お絵描きコーナー大好き】
【みなみちゃん画伯降臨】
【参加したい!】
コメント欄が一気に沸き上がる。手際よく参加者の順番を決めて、描画ツールを画面に映し出しながら、しりとりがスタートした。
「じゃあ、最初は“マスカット”からだね!はい、次の人よろしく〜!」
最初のお題だけ見え、参加者はそれぞれ前の人の絵を見て繋げて描いていく。
1番、2番が描き進め、3番手のリスナーが描いたイラストに、しばし配信は静まり返った。画面には、丸っこい何かの生き物らしきもの。短い手のようなものと、ちょっとした尻尾、つぶらな瞳……。
「え、なにこれ……え〜〜〜っと……」
みなみちゃんは首を傾げて、画面を見つめる。
「アザラシ……?いや、でもアザラシにしては、なんか……え?エビフライ……?いや目あるし……でも、この衣の感じ、パン粉じゃない?!」
【画伯現る】
【アザラシ?】
【それかツチノコ?】
【もはやホラー】
【3番誰だよwww】
【天才かもしれん】
「えー、わかんない〜〜〜!待って、真剣に考えてるからちょっと静かにして?」
目を細めてマジマジと画面を見つめながら、美菜……いや、みなみちゃんは真剣に考えた。
「……たぶん、アザラシ。うん、これ、アザラシだって信じる……!」
そう言って、4番手として画面にささっと“し”から始まる絵を描き始めた。ぴょこんと跳ねるような動きのアバターが、まるで本人の困惑をそのまま反映しているかのように、ゆらゆら揺れる。
「はいっ、私は“しろくま”!これで正解だったら神連携ってことで!」
【ナイス判断力】
【エビフライじゃなかったのか……】
【アザラシ信じたみなみちゃんすこ】
【しろくま可愛い〜〜〜】
【え、今の画伯のせいで腹筋痛い】
「いやほんと、3番の画力……すごい……!ある意味才能だよね? 画伯っていうより、革命家かも」
【芸術は爆発】
【アザラシとは……】
【伝説の回になりそう】
コメントは止まる気配がない。しりとりの正解なんてどうでもよくなるほど、画面の向こうとこっちで笑いが連鎖していく。
「もう……お腹痛いってば……次の人、変な方向に引っ張らないでよね!?」
声を上げて笑うみなみちゃんの姿に、コメント欄はさらに熱を帯びていく。深夜の静けさの中、どこか遠くの誰かと絵でつながっている、そんな小さな奇跡が、この配信には詰まっていた。
***
結局、お絵描きしりとりは「アザラシ(仮)」からの“し”が「しろくま」につながったことでゲームは進んだものの、最後の最後で本当の答えが「オットセイ」だったことが判明し、しりとりとしては成立せずにゲームは終了した。
【オットセイだったんかーい!】
【無理あるって!】
【いや画伯すぎたってマジで】
【3番の人責任とってください】
【笑いすぎて涙出た】
「も〜〜〜!ほんとに面白すぎ〜!あれ、オットセイって分からないよ〜〜!」
みなみちゃんは画面越しのコメントを見ながら、笑いすぎて涙ぐんだ目元を指で拭っていた。ほっぺたが軽く痛い。笑い続けて顔が凝ってる。
「いやでもほんと、今日めちゃくちゃ楽しかったねぇ……!」
画面の右側に流れ続けるコメントも、段々と「楽しかった」「またやって」「そろそろ寝る〜」と、落ち着いた空気に変わってきた。
【最高だった】
【みなみちゃんおつかれ〜!】
【また次も楽しみにしてる!】
【今日はよく眠れそう】
【ありがとね!】
「うん、またみんなとこうやってゲームしたいなっ。またよろしくね〜!」
ふわりと手を振るアバターと一緒に、みなみちゃんも画面に向かってぺこりと頭を下げた。そして静かに配信を終了する。
一気に静寂が戻る部屋の中。BGMも止まり、部屋に響くのは美菜の深いため息ひとつだけ。
「ふぅ……」
顔の前で両手をぱちんと合わせて、無事に終わった配信を労う。久しぶりの配信だったけれど、やっぱり楽しい時間だった。けれど、笑いすぎて喉がカラカラだ。
「飲み物……取ってこよ」
椅子から立ち上がった瞬間、ちょうどドアが開いた。
「え?」
入ってきたのは、部屋着の瀬良だった。片手にはホットの紅茶が二つ。湯気がゆらゆらと立ち上っている。でも、それよりも気になるのは、瀬良の――妙に不満そうな顔だった。
「……ど、どうしたの?」
なぜそんな顔をしているのか分からなくて、美菜は思わず固まった。
「……お……だろ」
低くてちょっと拗ねたような声。
「え?」
「……オットセイだっただろ」
「……え?」
目をぱちぱちと瞬かせたあと、美菜はようやく察した。
「……もしかして、瀬良くんが3番だったの!?」
「うん。我ながら可愛く描けたと思ったら、めちゃくちゃディスられててびっくりなんだけど」
紅茶を差し出しながら、どこか納得のいかない表情をしている瀬良。それを見た瞬間、美菜は吹き出した。
「あはは!!あれ瀬良くんが描いたの!?」
こらえきれず、笑いながら紅茶を受け取る。さっきまで画面越しに笑っていたのが、今は目の前の彼のせいで笑っている。
「だって……目が可愛いのはわかったけど、衣っぽかったもん!なんか、パン粉!エビフライかと思ったもん!」
「いやいや、しっぽのところ見てよ。あれがポイントだったんだけどな」
「も〜〜無理……お腹痛い……!」
ソファの背にもたれかかって、笑いながら紅茶をすする美菜。瀬良は隣に座って、真剣な顔で「いや、どう見てもオットセイだろ」と再び力説してくる。
「……ヒレの感じとか、ちゃんと再現したんだけどなぁ……」
「そんなディテールまで考えてたの!? いや、でも伝わらなかったよ、残念ながら……!」
笑って聞いてる美菜を見て、瀬良も少しだけ肩をすくめて、ふっと笑った。
「画力って難しいな」
「瀬良くんは普段完璧だからこそ、ああいうのがほんとツボるんだってば……」
あたたかい紅茶と、楽しい余韻。ほんのり顔をほころばせる美菜と、微妙に納得いかない様子の瀬良。そんなふたりの部屋には、静かな夜がゆっくりと流れていた。




