Episode215
体調が万全になった翌朝のサロンには、久しぶりに瀬良の姿が戻ってきていた。
朝礼前、バックルームで準備をしていると、スタッフの視線が自然と瀬良へと向かう。数日ぶりの出勤だというのに、その姿はどこか凛としていて、体調が悪かったとは思えないほどだった。
「……ご迷惑お掛けしました。皆さんありがとうございました」
朝礼の冒頭、瀬良が小さく頭を下げる。短く簡潔な言葉だったけど、その一言にちゃんと気持ちがこもっていることは、誰の目にも伝わっていた。
「いやまあ体調悪い時は無理すんなよ瀬良くん。ぶっ倒れて河北さんに看病されてるって聞いた時は、正直ちょっと羨ましかったけどな~」
田鶴屋の軽口に、場の空気が和らぐ。美菜は瀬良の隣で、反射的に小さく肩をすくめた。
「……倒れるのは計画に入ってなかった」
瀬良がそう呟くと、数人がクスッと笑った。その静かな一言にさえ、みんな少しホッとしていたのかもしれない。
けれどその直後、田鶴屋がわざとらしく咳払いをする。
少しだけ表情を引き締めて、視線を全体に向け直す。
「……ん、じゃぁちょっと真面目な話するね。えーっと、東谷さんの件なんだけど……急ではあるけど、今日付けで退職扱いになりました」
「……えっ」
「…………は?」
ざわめく声が、フロア全体に広がる。
「え?なんで東谷ちゃん、退職なんですか……?」
木嶋が、信じられないといった様子でぽつりと漏らす。
詩音は前の職場からの知り合いだったので、詩音のことを陰ながら気にかけていたのを美菜も見て知っていた。
「んー、三日前の朝、俺に電話かかってきててさ。『退職します』って、それだけ言って謝ってきたんだよねぇ……」
田鶴屋の言葉は淡々としていたけど、その奥にあるやるせなさははっきりと滲んでいた。
「そんな突然……」
千花もショックを受けたように呟く。
つい最近、京都旅行で一緒に過ごしたばかりだった。あの時間を経て、少しだけチームとしての距離も縮まったような気がしていた。だからこそ、何の前触れもなくいなくなったことが、より一層、胸をざわつかせた。
「まあ、気づいてた人もいると思うけど、東谷さんはその電話の日から三日間、無断欠勤が続いてて。退職の意思も俺が電話で直接聞いたから……今回は、督励で退職扱いにしました」
その時の田鶴屋の表情は、いつになく険しかった。
店長として、簡単には割り切れない想いがあるのだろう。
突き放したいわけじゃない。でも、職場を預かる責任もある。
(……田鶴屋さん、大丈夫かな)
美菜は、詩音のことよりも今はむしろ、田鶴屋の気持ちの方が気がかりだった。
詩音には詩音の事情があったのかもしれない。でも、何も言わずにいなくなるなんて、少し寂しい。
誰もが言葉を失う中、ただ一人、瀬良だけは静かに周囲を見渡していた。
「………………チッ」
その舌打ちは誰にも聞こえないほど小さなものだった。
けれど、瀬良の中では確信に近い不安が膨らんでいた。
(このタイミングで詩音がいなくなるのは……伊月の指示か?)
それはあまりにも不自然だった。
あれだけ「美菜に近づきたい」と言っていた詩音が、急に何も言わずに姿を消すなど、常識的に考えておかしい。
(……もしかしたら、何かを知らされたのか。それとも、別の役割が与えられたのか)
そう考えると、今はまだ軽率に動くべきではないと思えた。
美菜に伊月との接触を避けさせる必要がある。でも、彼女にこの状況を詳しく話せば、余計な不安や恐怖を与えてしまうかもしれない。
(……やっぱり、俺が動くしかない)
拳が自然と強く握られる。
その様子に気づいた者は誰もいなかった。
瀬良はあくまで静かに、淡々とその場に立っていた。
けれどその背後には、はっきりとした決意があった。
美菜を守るためなら、何でもする。何にだってなれる。
――詩音の退職は、ただの偶然じゃない。
そう確信した瀬良の中で、何かが静かに、でも確実に動き出していた。
その日からサロンは、少しだけ空気が変わった。
抜けたスタッフの穴を埋めるように、みんなが自然と動き、忙しい日々がまた始まる。
でも、美菜はどこか、詩音の残した影を感じながら過ごしていた。
理由も知らず、引き止める言葉も交わせずにいなくなった彼女のことを――。
そして、何も言わずに背負おうとしている瀬良の静かな変化にも、どこかで気づき始めていた。
***
営業が始まっても、美菜の心はどこか落ち着かなかった。
詩音の退職は衝撃だった。あまりにも突然で、しかも何の相談もなく辞めていったことに、まだ整理がついていない自分がいた。でも、それ以上に――気になって仕方がないことが、もうひとつあった。
(……瀬良くん、やっぱり今日はちょっと変だよね)
カット中ふと視線を上げると、向かいのセット面に立つ瀬良の姿が見えた。
いつものように淡々と仕事をこなしてはいる。でも、その表情はどこか曇っていて、いつものような集中力や落ち着いた空気が、ほんの少しだけ乱れて見えた。
(……詩音ちゃんが辞めたこと、気にしてるのかな)
そう思いかけたが、すぐに違和感が浮かんだ。
瀬良と詩音が、特別仲が良かったという印象はなかった。むしろ、必要最低限の会話しかしていないようにも見えていたし、美菜自身、詩音との関係がぎこちなくなっていたのは自覚している。
(……そもそも、私の身バレの原因になったの、詩音ちゃんだし)
瀬良がそれを知っていたなら、むしろ辞めてホッとするくらいなのではないかとも思ってしまう。でも――今の瀬良の雰囲気は、そんな単純な感情ではなさそうだった。
(……何か、別のことで悩んでる……?)
もしくは、まだ本調子じゃないのかもしれない。
数日寝込んだばかりだし、出勤してすぐに無理してるんじゃないか、とも思った。けれど瀬良は自分から「体調が悪い」とは決して言わないタイプだ。たとえ体がきつくても、顔に出さず黙ってやり通す――そんな人だ。
(……聞きたい。でも……)
今は目の前のお客様に集中しなければならない。
カットが続き、パーマが重なり、カラーの塗布にアシスタントの指示――
一日を通して、美菜の手はずっと動きっぱなしだった。
忙しい日常の中で、瀬良に声をかけるタイミングは、思っていた以上に見つからなかった。
近くにいるのに、話しかけられない。その距離がもどかしくて、いつの間にか、また心だけがそっと擦れていくのを感じた。
***
「美菜、帰ろ?」
営業も終礼も終わり、スタッフルームのドアを静かに閉めながら、瀬良が柔らかく声をかける。その一言が、美菜の胸にじんわり染み込んだ。
「……うん、帰ろっか」
同棲を始めてから、この言葉の重みが変わった。
“帰ろう”の一言に、今日抱えていた不安も、言葉にできなかった心配事も、ふっと溶けていく。
瀬良が一緒にいる。それだけで、すべてが安心に変わる。
「瀬良くん、体調……ほんとに大丈夫?」
「悪くないよ。なんで?」
美菜の心配そうな表情に、瀬良は少しだけ眉を下げた。
まだ気にしてるのか、と優しい苦笑を浮かべながら、そっと美菜の頭に手を伸ばす。
「……もう、撫でないでってば……ここ、職場……」
「スタッフルームくらい、いいだろ」
くしゃ、と前髪を崩され、美菜はぷくっと頬を膨らませた。
だけど、それでも頭を撫でられる感覚は、くすぐったくて、安心する。
「美菜、心配することなんてもうないよ。……俺、元気だから」
その言葉に、ふいに涙が滲みそうになる。
優しい声。温かい手。
……全部、好きだ。
「…………もうっ」
照れ隠しのように小さくつぶやいて、美菜は俯いた。
「……美菜って、ほんと撫でられると真っ赤になるよな」
「そ、それは……瀬良くんに撫でられるとドキドキするから……」
「ふーん……でもさ」
瀬良がわざと低く、耳元に近づいて囁いた。
「普段もっとエロいことしてるのに?」
「なっ……!ちょ!ここ職場だから!!」
反射的に声を上げた美菜を、瀬良がニヤリと見つめる。
その言葉の破壊力に、美菜の心臓が跳ねる。
「誰かに聞かれてたら恥ずかしいじゃん……」
「え?美菜がこうされると弱いとか?」
耳元でふっと息を吹きかけられて、美菜の体がびくんと跳ねた。
「ひゃっ……!」
その瞬間、全身にゾワゾワと快感が走る。背中がぞくりとして、足に力が入らなくなり、膝から崩れ落ちた。
「……美菜、弱すぎ」
崩れ落ちそうになった体を、瀬良がそっと支えるように抱きしめる。
美菜は必死に顔を隠しながら、耳元でささやかれる言葉に身をよじった。
「あっ……耳元で喋らないでっ……!」
「……動かすなよ、腰」
「動かしてないっ……!」
否定しながらも、自分の体が無意識に瀬良に近づいていくのがわかる。
恥ずかしくて、情けなくて、それでも嬉しくて――心と体の温度が同時に上がっていく。
「……可愛い……」
耳元から首筋へと、わざとらしく音を立ててキスを落とされる。
その音に合わせて、美菜の口から甘い吐息が漏れる。
「あっ……ん、ぁ……」
くちづけと一緒に、甘い音を立てられて、美菜の体はびくんと跳ねた。
どこか溺れてしまいそうな感覚。
だけど、逃げたくない。……もっと触れてほしい。
「……わざと煽ってる?」
「そんなわけ……ないっ……」
「でも、めっちゃ可愛くて、興奮してんだけど」
「し、してない……誰か来たらどうするの……」
言葉では拒否してるのに、体は熱を帯びてて、息も浅くなってている。耐えるように下唇を軽く噛み締め、震えていた。
それに気づいた瀬良は、美菜の唇をなぞるようにキスを落とす。
何度も、何度も。
舌を使わない、優しく甘いキスをする。
「……美菜、そろそろ帰んないと……やばい」
「…………う、ん……」
返事をする美菜は甘く痺れた顔のまま、美菜はトロンとした瞳で瀬良を見つめる。
その表情を見て、瀬良は少しだけやりすぎたかもと反省する。
「美菜、ちゃんと立てる?」
「…………ばかっ」
ふらふらと一人で立ち上がった美菜が、涙目で睨む。
「やりすぎだよっ!ここお店!誰かに見られたらどうするの!」
「……すみませんでした」
しれっと頭を下げる瀬良に、美菜はふくれながらも荷物を持ち、瀬良の手をきゅっと握る。
「………………家帰ったら、責任とってよね」
そう言って、ぺろっと舌を出して笑う美菜。
その小悪魔のような仕草に、瀬良は思わず息をのむ。
「……お望みのままに」
瀬良も手を握り返し、ガラス扉へと向かう。
内側の鍵をカチャリと開ける音が響いたとき、美菜はふと気づいた。
「ん?……内鍵閉めてたって事は……もう誰もいないって分かっててしてたの……!?」
「当たり前じゃん。俺以外に見られてたまるかよ」
さらりと答える瀬良に、美菜はしばらく無言になり
――そして、呆れたように息を吐いた。
「………………」
そのくせ、瀬良は何食わぬ顔で「早く出よ?」と言わんばかりの視線を送ってくる。
(……ずるいなぁ、ほんと)
そう思いながらも、美菜もやっぱり少し興奮していたのは事実で――
そのことは胸の奥にそっとしまい込みながら、二人は手をつないでサロンを後にした。




