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Episode214



「……行ってきます」


小さく呟いて、美菜はそっとドアを閉めた。扉の向こうに残したのは、熱で顔を赤くした瀬良だった。寝室のカーテン越しに差し込む光が彼の額に淡く揺れていたのを、何度も何度も振り返りたくなる衝動をこらえて背を向けた。


(……なんで、気づいてあげられなかったんだろ)


昨日、あんなに甘えてきたのに。いつもよりずっと素直で、優しくて、柔らかくて、あんなにキスして、抱きしめてくれて――それがただの甘えじゃなくて、身体がしんどかったからだったのかもしれないと、美菜は何度も思い返しては唇を噛んだ。



***



サロンに着くと、すでにスタッフたちが開店準備をしていた。美菜がドアを開けた瞬間、木嶋が手を振ってくる。


「おはよー美菜ちゃん!あれ、なんかちょっと元気なさげじゃない?」


「おはよう、木嶋さん……ちょっとね、瀬良くん、熱出ちゃって。今朝38.8℃あって……」


「まじで!?瀬良きゅんが!?」


「だから木嶋さんにもちょっと予約枠空けて欲しくて…」


「おっけー!全然大丈夫!!どんどん瀬良きゅんの予約振っちゃってーーー!」


木嶋の声が少し大きくなって、奥にいた田鶴屋が気づいたように顔を上げた。


「河北さん、おはよう。瀬良くん、体調崩したって連絡もらったけど、そんなに高熱だったの?」


「はい……朝測ったら、結構高くて。たぶん旅行とか引っ越しとか、いろいろ重なって疲れが出ちゃったんだと思います」


「そうか……今日は忙しくなりそうだけど、みんなで分担するから無理しないでね。お客さんへの連絡、河北さんがしてくれるって瀬良くん言ってたけど任せて大丈夫?」


「はい、大丈夫です。私の方から、瀬良くんのお客さまには順次お電話して、必要な方は代わりに私や木嶋さんが担当できるようにします」


「助かるよ、河北さん」


優しい声に背中を押されて、美菜はようやく気持ちを切り替えることができた。


(……よし、気合い入れて今日は頑張ろう!!)



***



開店準備を終え、最初のお客様を迎え入れる。日差しが差し込むフロアにドライヤーの音が重なって、いつものサロンの空気が流れていく。でも、今日はどこか違った。瀬良がいないだけで、まるで音が半分消えたみたいに、空間が静かに感じる。


隣にいるはずのその背中が見えないだけで、こんなにも空気は変わるのかと感じる美菜。

少し笑ってしまうくらい、いつの間にか瀬良の存在は、美菜にとって当たり前になっていた。


「先輩……今日めっちゃ動きキレてますね」


後輩の皐月がふとそんなことを言ってきた。美菜はちょっと驚いてから、苦笑する。


「えっ、そう?どうなんだろ?」


「いや本当に。カット早いし、手数も少ないのにめっちゃ形キレイで勉強になります」


「……ふふ、ありがとね」


言われてみれば、今日の自分は少し違う。ハサミの感覚が手に馴染んでいて、髪の落ち方や流れが不思議と読める。ドライの段階でシルエットを作るのも、前はもっと時間がかかっていたのに、今では自然と次の手が動いている。


ふと、瀬良との“朝練”を思い出す。

まだ眠気の残る声で、「ほら、ここ。ちょっとだけ角度甘い」なんて低く囁くように教えてくれる。後ろからそっと手を添えられて、まるで踊るように一緒にシザーを動かす時間。気づけばその時間が、美菜の中に積み重なっていた。


(……ありがとね、瀬良くん)


その成長はきっと、美菜一人では辿り着けなかった。

真剣な目つきで向き合ってくれる彼がいたから、悔しくて、でも楽しくて、もっと上手くなりたいって思えた。


お客様の髪がふわりと揺れる。手を離すと同時に、鏡の中でぱっと明るくなるその顔を見るたびに、美菜は美容師でよかったと思う。そして、もっと思うようになったのは――


(瀬良くんと、並んで働ける自分でいたい)


その一心だった。


「今日のスタイル、めちゃくちゃ素敵。ほんとにありがとう」


そう笑ってくれるお客様に、心からの声で「ありがとうございます」と返す。そのたびに、瀬良が褒めてくれるような気がして、少し嬉しくなる。


『……今の、完璧だったよ』


そんな幻聴すら聞こえそうで、思わず小さく笑った。



***



昼休憩はほんの短い時間だったがとることができた。

バックルームでスマホを開くと、瀬良からの未読のメッセージが1件あった。


【薬飲んで寝る。お昼は食った。おにぎりうまかった】


美菜の作ったお昼をちゃんと食べてくれたことが嬉しくて、思わず顔がほころぶ。


【それならよかった。氷枕ちゃんと使ってる?寝汗かいたら取り替えてね】


そう返してから、ふと甘えたの瀬良くんは元気かなと思って、ついでにスタンプを一つだけ送っておいた。


戻ったフロアでは、午後の予約がすでに入ってきていた。普段なら瀬良が受け持っているようなメンズカットの指名が、美菜に回ってきていた。少しプレッシャーもある。けど、不思議と手が震えることはなかった。


髪質、骨格、クセ。すべてに目を配って、スタイルを組み立てていく。以前なら迷った部分も、今では自信を持ってハサミを入れられる。お客様が「またお願いしたい」と言ってくれるその一言が、美菜の背中を押してくれる。


(……あー、美容師って……楽しい!)


「おー、河北さん成長したねぇ」


美菜は心から仕事を楽しんでいた。

いつの間にか近くに立っていた田鶴屋に声をかけられハッと振り向く。


「ありがとうございます!」


「朝練いっつも頑張ってたし、良かったね」


田鶴屋もまた嬉しそうに仕事に戻る。

やはり美菜の模範としている先輩からの言葉は嬉しいものだ。

美菜はもう一度気合いを入れ直し、次のお客様の元へと向かった。



***



閉店時間が近づく頃には、さすがに足も腕もパンパンだった。


掃除を終えたあと、ふと鏡を見ると、そこには疲れてるけど満足そうな自分の顔が映っていた。

この顔を、瀬良に見せたいと思った。


(頑張ったんだよ、って。ちょっとでも伝わるといいな)


美菜はスマホの画面に目を落とす。

瀬良からの通知は増えていなかった。きっと、まだ眠ってるか、あるいは身体がしんどくて触れられないのかもしれない。


(ちゃんと休めてるといいけど)


エプロンを外して、ロッカーに荷物をしまい、スタッフたちに「お疲れさま」と声をかけて店を出る。夜の街はすっかり冷えていて、空には星がぽつりぽつりと浮かんでいた。


(お粥、全部食べれたかな……)


そんなことを考えながら帰路を歩く。二人の家までは、歩いて十五分。街灯の下、ちょっと速足でコツコツと靴音を鳴らして、玄関のドアの前に立った。


そっと鍵を開けると、静まり返った部屋が出迎えてくる。

電気は消えていたけれど、リビングの奥の方からほんのりとスタンドライトの灯りが漏れていた。


「ただいまー……?」


寝室の方に行き、声を落として呼びかけると、ふと布団の中でごそっと動く気配がした。


「……ん、おかえり」


低く掠れた声。それでも、ちゃんと瀬良が返してくれた。


美菜はそっと胸を撫で下ろし、中へ入る。


(あ……朝より少し顔色良くなってる)


荷物を置いてから布団のそばにしゃがんだ。

顔を覗き込むと、まだ熱の残る額に濡らしたタオルが乗せられていた。


「……ちゃんと寝てた?」


「んー、途中で起きた。美菜、帰ってくるかと思って待ってた」


「もう……具合悪いのに無理しないでってば」


そう言いながらも、美菜の声は優しくなる。瀬良の言葉一つ一つが嬉しくて、安心して、顔が綻ぶ。


「……お昼、食べた?」


「食べた。卵焼き、甘かった。……なんか、嬉しかった」


「ふふ、よかった」


「病院は?」


「オンライン処方で解決した」


おでこに触れると、まだ少し熱はあるものの、朝よりは下がっているようだった。ひんやりとした手のひらでそっと撫でると、瀬良は気持ちよさそうに目を閉じる。


「今日はね、すっごい頑張ったんだよ」


美菜はそう呟きながら、瀬良の髪を撫でる。


「瀬良くんの分まで動いて、いっぱいカットして、お客さんに褒められて、ちょっとだけ……自信、ついた気がする」


「……知ってた」


「え?」


「美菜なら、できるって。俺がいなくても、ちゃんとやるって。……でも、寂しいのは俺の方」


その言葉に、胸の奥がぎゅっとなる。


美菜は静かに、瀬良の隣に横になった。布団の中にそっと入ると、瀬良が弱った手で、でもしっかりと美菜の手を握ってくれた。


「……まだ熱あるのに、くっついて大丈夫?」


「もう手遅れ。昨日いっぱいキスしたし」


「ふっ……たしかに」


笑いながら、額をこつんと寄せ合う。

しんどいはずなのに、瀬良はどこか嬉しそうだった。美菜が帰ってきたことで、ちゃんと安心した顔をしている。


「俺さ……病気になると昔から一人だったから、なんか不思議。こうして美菜が隣にいてくれるの、夢みたい」


「夢じゃないよ。私、ここにいるもん」


「……そっか」


そのまま、静かに時が流れる。

お互いの呼吸を感じながら、ほんの少しだけ目を閉じた。美菜にとっても、こうして誰かと温もりを分け合えることは、どこか慣れていないけれど、でも今はただ、幸せだった。


「明日も仕事……迷惑かけるな」


「気にしないで。みんな大丈夫だから。早く終わったら、急いで帰ってくるね。何か食べたいものある?」


「……美菜」


「うん?」


「美菜がいれば、なんでもいい」


その一言で、今日の疲れは全部報われた。

どんなご褒美よりも、瀬良のその気持ちが、美菜の心に優しく染み込んでいく。


「……じゃあ、明日も頑張る。瀬良くんが元気になるように、もっともっと美味しいの作ってくる」


「ん。楽しみにしてる」


握った手のひらから、熱と想いがゆっくりと伝わってくる。


この時間が、いつまでも続けばいい。

美菜はそう思いながら、そっと目を閉じた。


――次の日、熱が下がった瀬良は、何食わぬ顔で「お粥おかわりある?」と聞いてきて、美菜は思わず笑ってしまった。


彼の笑顔が戻る日常は、何よりの幸せだった。


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