Episode213
プリンを食べ終えたあとの夜は、ゆるやかに溶けるような時間が流れていた。
お風呂で温まった身体は火照ったまま、外気と寝室の空気の温度差が心地よい。あとはもう、眠るだけ。
けれどその静かな時間を、美菜はどこか特別に感じていた。今日の瀬良は、少しだけ、いや――かなり珍しく甘えてくる。
「……ん、美菜、座って」
何気ないように言われてベッドの中央に腰を下ろすと、瀬良はそのまま、美菜の太ももに頭を預けてきた。
ふわりとした髪が触れて、くすぐったいけど、優しい重みが美菜の心をじんわり温めていく。
「どうしたの?今日はなんだか甘えたさん」
美菜が笑いながら問いかけると、瀬良は閉じたままの目をほんの少し開けて、美菜の顔を見上げた。
その視線が、妙に甘くて、蕩けるようで、いつもの彼とはまるで違って見えた。
「甘えてるんじゃなくて、……美菜が、甘えさせたくなるくらい、可愛いだけ」
そんなことを、平然と、照れもせずに言ってのける。
その言葉に美菜の胸が跳ねた。顔が熱くなるのがわかって、思わず両手で覆ってしまう。
そんな反応を見て、瀬良は満足げにくすっと笑った。
「……ね、撫でて」
小さな声で、けれど確かな願いが込められている。
美菜は優しく彼の髪に手を添え、指先で静かに撫でていく。まるでお気に入りの猫を甘やかすように。
瀬良は目を閉じ、静かに吐息を漏らした。
「……気持ちいい」
「ふふ、子どもみたい」
「子どもじゃないよ、俺は……ただ、好きな人にこうされたいだけ」
その呟きに、愛しさが増して、美菜の手の動きが少しだけゆっくりになる。
けれど次の瞬間、瀬良の指先がするりと美菜の腰に触れた。
「ひゃ……瀬良くんっ……」
驚きの声を上げると、彼はいたずらっぽく微笑みながら、くびれのあたりをゆっくり撫でた。
「ここ、弱いよね。……前にも言ってた」
「……覚えてたの……?」
「美菜のこと、全部覚えてるよ」
その言葉に心がざわめく。嬉しくて、くすぐったくて、でもなんだか、少し怖いくらいに心が掴まれていく。
瀬良の指がくびれをなぞるたび、美菜の体はぴくっと反応してしまう。
「や、だ……瀬良くん、そこ、ほんとに……」
「ん、やだって言うけど、声は……気持ちよさそう」
瀬良は体を起こして美菜を組み敷く。
そう囁きながら、今度は首筋に唇を這わせた。
ちゅっ、と小さな音がして、美菜の喉が震える。
そしてそのまま耳元へと舌が移動した。
「ふ……ぁ……だめ……っ、耳、は……っ」
「ここ、ほんとに好き。……美菜の声、きれいだよ」
耳の縁を舌先がなぞるたびに、美菜の身体は熱を帯びていく。
じわじわと、何度も、優しく弄ぶように唇が触れて、息がかかって、甘い感触だけが繰り返される。
ついには涙が滲むほどに耳を犯され、美菜は瀬良の首に抱きついていた手が緩む。
「……も、無理……」
「うん、ごめん。……でも可愛かった」
そう囁いて、美菜を強く抱きしめる。
まるで壊れ物のように大切そうに、でも逃がさないようにしっかりと。
「……美菜、俺の事好き?」
「……うん、大好きだよ」
「良かった……美菜、愛してる」
瀬良の声があまりにも甘くて、やさしくて、まっすぐすぎて、美菜は胸が締めつけられたように苦しくなる。
なのに、それでも――瀬良が欲しくて、たまらなかった。
「……瀬良くん、……もう……欲しい、よ……」
恥ずかしさを振り切って、小さくそう呟いたのに。
瀬良は意地悪そうに微笑んだだけだった。
「んー、聞こえなかった。なんて?」
「……もう、いじわる……っ」
顔を真っ赤にして目をそらそうとする美菜の頬を指でそっと撫でて、顎を上げさせる。
そのまま、まっすぐに視線を絡めて、逃げられないように。
「ちゃんと、言って。……俺の名前、呼んで」
「……」
喉が震えて、声が出ない。だけど、瀬良が待っていることはわかっていた。
顔を伏せたまま、震える唇で、そっと言う。
「……新羅が……欲しい、の……」
その瞬間、瀬良の目元がふわりと緩む。
満足げな笑みを浮かべて、美菜の唇に優しくキスを落とす。
「よく言えた。……すごく可愛いよ、美菜」
そして、そのまま唇が何度も重なり、美菜の世界は甘さに満ちてとろけていった。
***
やわらかなシーツの上で、瀬良の腕の中に包まれるようにして、美菜は静かに目を閉じていた。
部屋の中は、暖かな静けさに満ちていて、耳を澄ませばかすかに聞こえるのは、瀬良の安定した呼吸と、自分の心臓の音だけ。
ずっと欲しかった、安心できる腕の中。
今は、ただ心が満たされていた。
瀬良の手が、美菜の髪を優しく撫でている。
その指先は、宝物を扱うみたいに丁寧で、触れられるたびに体の奥が温かくなっていく。
「……眠い?」
囁くような声が、頭のすぐ上から降ってきた。
美菜は小さく首を振ると、彼の胸にぴたりと頬を寄せた。
「眠くない。……もっと、こうしてたい」
「……そっか」
それだけ言うと、瀬良はもう一度、美菜の髪にキスを落とす。
その仕草があまりに優しくて、美菜の胸にふわりとあたたかい何かが広がった。
「なんか……お姫様みたいにされてる」
美菜が照れくさそうに笑うと、瀬良はちょっとだけ真顔になって、彼女を見つめ返した。
「だって美菜は俺にとって、ずっとそうだから。……誰よりも可愛くて、大事な、俺だけのお姫様」
冗談っぽさの欠片もないその声に、胸がきゅっと痛くなるくらい締めつけられる。
そうやってまっすぐ言葉をくれることが、こんなにも嬉しいなんて。
「……もっと早く、出会いたかったな」
ぽつりとこぼしたその一言は、気づけば美菜の本音だった。
瀬良は一瞬だけ黙って、優しく美菜の頬を撫でた。
そのまま、彼女の額に静かに唇を落とす。
「今、出会えてよかったよ。……遅くても、間に合ってよかった」
言葉のひとつひとつが、まるで愛の証みたいに優しく降ってくる。
決して瀬良でないと得られなかった、ぬくもり。
親からの傷をえぐることしかなかった愛じゃなくて、
抱きしめることで癒えていく、本物の愛。
「私ね……誰かに愛されることに、臆病になってた気がする。ずっと」
「うん。わかるよ。俺も似たようなもんだった」
ゆっくりと指先が美菜の手を包む。
その手は、強すぎず、でも逃がさないように、やさしくてあたたかい。
「でも、今は怖くないよ」
「うん」
「瀬良くんの隣にいると、すごく安心するの。……自分のこと、大事にしていいんだって思える」
その言葉に、瀬良の瞳が柔らかく揺れて、微笑んだ。
「美菜はもっと、わがまま言っていいんだよ」
「わがまま?」
「うん。俺に甘えて、頼って、困らせて。……全部受け止めるから」
まるで誓いのように紡がれるその声に、美菜は思わず目を潤ませた。
誰かにここまで言ってもらえることが、どれだけ自分を救ってくれるかを、今、美菜は全身で知った。
「……じゃあ、今だけ、甘えていい?」
「ずっと甘えてていい。……お姫様だから」
「ふふっ、瀬良くんの口からお姫様って言葉が出るの…やっぱりおもしろいや」
「はいはい」
そう言って瀬良は、美菜を腕の中に抱き寄せた。
美菜はその胸の音を聞きながら、瞳をそっと閉じる。
今はただ、ぬくもりと優しさと愛だけが、全身を包んでいた。
***
朝、目を覚ました瀬良が最初に発した言葉は、予想以上に弱々しいもので、まるで昨日の甘えた瀬良とは別人のようだった。
「…………あつい……」
その声を聞いた美菜はすぐに顔を上げ、瀬良の顔色を見て驚いた。頬が少し赤いだけでなく、額にも明らかに熱がこもっているのがわかった。
(昨日の朝、そーいえば咳してたっけ……)
美菜はすぐに思い出す。あの時、体調を気遣う言葉をかけるべきだったと、今さらながら胸が痛んだ。
「待っててね、体温計持ってくるから!」
急いで部屋を出て体温計を持ってきた美菜は、瀬良の横に座り、優しくその脇に体温計を入れてあげる。
瀬良はふとため息をつきながら、力なく目を閉じていた。
「……えーっと、熱は……38.8℃!?」
その数字に、美菜は驚愕の表情を浮かべる。こんなに高い熱を出しているなんて思いもしなかった。
「……この頃、地味にハードスケジュールだったしな……」
瀬良は少し苦笑いを浮かべる。引越しや旅行、予約で詰まった仕事の日々。それに加えて、美菜との楽しい時間が重なり、どうやら無理をしてしまったらしい。
「……とりあえず今日はゆっくりしなきゃだね。田鶴屋さんに連絡できる?」
美菜は心配そうに尋ねると、瀬良は少しもぞもぞとスマホを取り出し、無理してでも対応しようとしている。
「……子どもじゃないから、それくらいできる」
その言葉には少しだけふてくされている様子も見えるが、美菜はそれを見て笑ってしまう。
「あはは!昨日の甘えたさんはどこにいったのかなぁ」
瀬良は顔を赤らめ、少し不機嫌そうに顔をそむけながら、スマホを操作する。
その姿に美菜は、ああ、やっぱり昨日の甘えていた瀬良もきっと熱のせいだったんだなと思い、少し申し訳なくなる。
瀬良は美菜に甘えていた昨日と、まったく違うわけじゃないが、やはり昨日の瀬良はレアだったのだと分かる。
でも結局、彼なりの照れ隠しなのだと感じ取れた。
「田鶴屋さんに電話する」
「うん、わかった」
その間に美菜は、冷静に氷枕とタオルを準備しにキッチンへ向かった。
「朝練、早起きしてよかった……」
美菜はちょっと安心したように呟きながら、急いで朝ごはんのお粥を作り、さらに昼食用のおにぎりと卵焼きを作る。
ラップをかけて、冷蔵庫にしまった。
部屋に戻ると、瀬良がだるそうに目を閉じて横になっていた。美菜はその横にそっと座り、氷枕を持って瀬良の頭の下に優しく敷く。
「田鶴屋さんに連絡できた?」
氷枕のひんやりとした感触に、瀬良は目を開け、少し驚いたように見上げた。
「……できた。今日と明日の予約は切っておくから、気にするなって」
その言葉に、美菜はほっと息をつく。
「今日の瀬良くんの予約、私が電話でお断りするから、安心して休んでて。もしどうしても今日がいい場合は、私とか木嶋さんが担当してもいいよね?」
「……ああ、ごめん……お願い」
瀬良は顔をしかめるように目を閉じた。熱がひどくて、かなりしんどいのが伝わってくる。その表情に、美菜は心からの優しさで包みたくなる。
「病院……一人で行ける?一緒に行こうか?」
美菜が心配そうに問いかけると、瀬良は少しだけ頭を横に振った。
「…………子どもじゃないから、大丈夫」
それでも美菜の手を握る。その手は、やはり熱を帯びている。
「無理しないでね。どうしてもダメならすぐ連絡して?」
「……ありがとう」
咳が出るたびに口を抑えている瀬良を見て、少し笑みがこぼれる。
(……昨日、キスいっぱいしたから、もう遅いんだろうけどな……)
美菜はそのことに思わず笑ってしまい、ちょっと照れくさくなる。
「じゃぁ、私、支度して行くね。お昼ご飯は冷蔵庫に入れておくから、食べれそうなら食べてね」
瀬良が無理をして頑張っている姿を見て、少し胸が痛むが、彼のためにも今日の仕事をしっかりとこなさないといけない。
「もし、無理なら遠慮なく連絡してね。帰ったら、またお世話するから」
「……うん、ありがとう」
美菜は最後にもう一度、瀬良の頭を優しく撫でると、仕事へ向かう準備を整えて部屋を出た。
しかし、やはり瀬良のことが気になって仕方がなかった。
美菜は小さなため息をつきながら、外の寒さを感じながら、準備を終えた。




