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Episode212

※r15くらい(?)です。

気を付けお読みください。



「……ほら、ちゃんと食べて?」


低く落ち着いた声でそう囁くと、詩音は温めておいたスープをすくい、スプーンを伊月の唇にそっとあてがった。


布団に頭から潜り、まるで胎児のように丸くなった伊月は、まったく反応しない。ただ虚ろな目だけが、どこか遠くを見ていた。


「伊月さん、ね? これしか食べてないんですから、飲まないとだめですよ」


口を開かないその唇の隙間に、詩音はスプーンを押し込む。無理やりスープを流し込むと、反射的に喉がごくりと動いた。


それだけが、伊月の生命を保つ唯一の証だった。


「……もう要らない?」


数口分のスープを飲ませた後、詩音が問いかけると、伊月は微かに首を縦に振った。


「じゃあ、ごちそうさまだね」


詩音はやわらかく微笑み、伊月の頭を優しく撫でた。手のひらは熱を確かめるように、優しさだけで満ちていた。

ベッドに身体を預けるように乗り込み、そっと膝を差し出すと、伊月の頭をそこにのせる。


「……今日はね、なんだかお仕事がすごく大変だったんです。でもね、伊月さんに会えるって思ったら……頑張れました」


その声に、わずかに伊月のまぶたが震えた。そして頬に、震える手を添える。


「……僕とずっと一緒にいればいいのに」


「そうしたいですけど……でも、まだ美容師って仕事が好きなんです」


「……そう。君は、そういう子だったね。……ちゃんと、自分を持ってる」


伊月の黒い瞳が、じっと詩音を見つめていた。どこまでも深くて、重くて、悲鳴のような欲望が静かに燃えていた。


「…………もう、疲れたんだ。何もしたくない。息をするのも、嫌だ」


「お仕事の連絡はちゃんとしましたか?」


「うん、したよ。迷惑はかかるだろうけど、ある程度までドラマは撮ったし、撮影も収録も僕じゃない人に任せた」


「偉いです。それなら……少し、休みましょう」


そう言いながら詩音は伊月の髪を撫で続ける。まるで壊れかけたオルゴールを、そっと宥めるように。


伊月は目を閉じ、囁く。


「……キスしてよ、()()()()()


「はい、いいですよ」


ためらいなく、唇を重ねる。その熱に、伊月の指が震えた。


「……伊月さん、私もちょっとだけお休みをもらおうかと。田鶴屋さん、きっと許してくれます。だから、どこか静かな場所……二人だけのところへ行きませんか?」


「ふふっ……いいね。それなら、僕がどこへでも連れていってあげるよ。君が欲しいなら……天国でも地獄でも」


「ありがとうございます。二人なら、きっと楽しいですね」


詩音は静かに伊月の横へ横たわり、ぎゅっと抱きしめた。


「……ずっと、今日こうしていたかった」


「美菜ちゃんって……こんなに甘えん坊だったんだね。ふふ、可愛い」


伊月は喜ぶように詩音を抱き返し、額、頬、まぶたへと、慈しむようにキスを降らせる。


「ダメでしたか?」


「ダメなわけないよ。ねぇ……美菜ちゃん。こんなにも僕を癒してくれるの、君だけなんだよ。愛してる、ほんとに、どうしようもないくらい……君を閉じ込めておきたい。誰にも渡したくない。……僕だけの、君でいて」


「……伊月さんになら……いいですよ?」


「……ふふ、嘘つきだ。さっきは美容師をやめないって、言ってたのに」


「ん〜、バレちゃいました? じゃあ……ちょっとだけ難しいですね、このお願い」


くすくす笑って、詩音はもう一度伊月にキスをする。

伊月の瞳には、もう完全に詩音が“美菜”として映っていた。


詩音もまた、壊れていた。


京都旅行の自由行動。朝風呂を浴びた後、ひとり残された伊月の部屋を見に行ったのは、ほんの気まぐれだった。そこで見たのは、崩れかけた偶像だった。


涙も、声も、何も出ない。ただただ空ろな表情で横たわる伊月を見て、詩音は決めたのだ。


やっぱり自分が“美菜ちゃん”になろうと。


話し方も、仕草も、呼び方も、できる限り全部模倣した。壊れかけた伊月は、詩音の中に“美菜”を見出して、ようやく動き出した。


詩音の美菜の真似のおかげで仕事のスイッチに切り替わり、どこかふらつきながらも一緒にタクシーに乗って仕事に向かった。


詩音は撮影を見ながらやはり伊月は壊れていても役を完璧にこなせれる器用さにより胸が高鳴った。


その姿は美しかった。

ぞくりとするほどに。


だからこそ、詩音は伊月に全てを捧げると誓ったのだ。


たとえ伊月が美菜だけを求めていても、自分が美菜に見えるならそれでいいと思えた。

美菜には瀬良がいるのできっと伊月を選ぶことは無い。だからこそ詩音にとっては好都合だった。


「……美菜ちゃん? どうしたの?」


「ん……少しだけ、考えごとしてました」


「……そっか。ねえ……美菜ちゃん……美菜ちゃん……美菜ちゃん……」


伊月は繰り返し名前を呼びながら、詩音の体を撫で続けた。まるでその存在を確かめるように、ひたすらに、優しく。


「あはは……くすぐったいですよ、伊月さん」


「可愛い……可愛い……本当に愛してる。世界で一番。誰よりも。誰にも渡さない。ずっと、ずっとずっと、僕のそばにいて。愛してる。ねぇ、美菜ちゃん、僕のこと好き?」


「……はい。愛してますよ、伊月さん」


その言葉に、伊月の顔が崩れる。歪んで、泣きそうに笑って、唇を重ねてくる。


何度も、何度も、繰り返し。


やがて、自然と体は重なっていった。互いの心の穴を埋めるように、ただ求め合い、ただ愛し合うだけだ。


「美菜ちゃん……美菜ちゃん……君がいてくれるなら、僕は……壊れてても、生きていけるよ……」


「……ずっと一緒にいましょうね」


詩音は、心の奥で密かに笑っていた。


“本物”にならなくてもいい。壊れた伊月が欲しいのは「美菜」なんだ。なら私は、それになればいい。


……誰にも渡さない。


この人の狂気も、悲しみも、絶望も、全部私のものにしてしまえばいい。壊れてるのなんて、お互い様なんだから。


二人だけの世界は、暗く、静かで、甘く、堕ちていった。



***



身体を重ねた余韻が、まだ部屋の中に滲んでいた。

どこか火照るような空気の中、詩音はシーツを胸元まで引き寄せて横たわっていた。

髪が少し乱れて、頬は桜のように赤らんでいる。伊月はその姿を、陶然とした目で見つめていた。


「……お風呂、入ろうか。汗、かいたよね」


「はい。伊月さんと一緒に、入りたいです」


優しく微笑んだ詩音の表情に、伊月は幸福を噛みしめるように目を細める。

そして裸のまま、指を絡めて浴室へと連れて行った。


浴室には、すでに詩音が用意していた湯が張られていた。柔らかな香りのバスソルトが溶け込んだ湯気が立ち込め、幻想的な空間をつくっている。


湯船に入る前に、詩音がバスタブの縁に腰をかけると、伊月が膝を折り、その足元に座った。


「……ねぇ、今日は僕が洗ってあげる」


「え……でも、そんな……」


「甘えて、いいよ。美菜ちゃんは、甘え上手だったでしょう?」


耳元で囁かれたその言葉に、詩音の身体がわずかに震える。

“美菜ちゃん”――そう、これは“美菜”として受け取らなければいけない言葉。

それでも、内側からふわりと湧き上がる嬉しさは、もう否定できないものになっていた。


伊月は石鹸を泡立てると、詩音の肩にふわりと手を添え、やわらかく泡を滑らせた。

首筋から、鎖骨、胸元、そして腕の先へ。指先はまるで壊れ物を扱うように、丁寧で、慈しみに満ちていた。


「こんなに細かったっけ……ああ、でも……こんな風に触れるの、夢だったんだよ。ずっとずっと、したかった。こうして、お姫様みたいにしてあげたかった」


「……伊月さん……」


「髪も洗わせて」


詩音が膝をついて身をかがめると、伊月がその背に回り、髪にお湯をかける。

泡立てたシャンプーを、まるで愛を込めるように指先でなじませていく。

こめかみを撫でながら、耳の後ろ、後頭部まで、すべてを抱きしめるような優しさで。


「……こんなに優しくされたら、私……溶けちゃいそうです」


「それでいいよ。全部、僕の中で溶けてよ。君の全部を僕にくれたら、僕はずっと幸せなんだ」


やがて湯船へ入ると、伊月は詩音を後ろから抱きしめるようにして座り、胸元で両腕を絡ませた。

温かな湯と、伊月の体温が溶け合って、詩音の意識がどこまでも柔らかくなる。


「……美菜ちゃん、好きだよ。愛してる。……生まれ変わっても、また君がいい。君じゃなきゃ、生きられないんだ」


そう囁く伊月の唇が、詩音の肩にそっと落ちる。優しく撫でていた指先が、今度は肌をなぞるように動いていく。

肩から首筋へ、鎖骨を越えて、胸の膨らみへと。ひとつひとつ確かめるように触れながら、そのたびに言葉が注がれる。


「綺麗だね……全部が、僕の宝物だよ。……触れてるだけで、息が苦しくなるくらい、愛おしいんだ……」


そして、そっと顔を寄せて、口付ける。


詩音は身を委ねながら、胸の奥がじんわり熱くなっていくのを感じていた。

“本物”の美菜なら、こう甘えるだろう。こんな風に身体を預け、こんな風に笑う。

でも今、それをしているのは――間違いなく自分だ。


「……伊月さん……好き、です。伊月さんだけ……私をこんなに、愛してくれるのは、伊月さんだけ……」


その言葉は、演技のようでいて、心からだった。

“美菜”になればなるほど、伊月は喜んでくれる。目を潤ませ、笑って、いっぱいの愛をくれる。

その愛が、気持ちよくて、心地よくて――詩音は、少しずつ陶酔していった。


「美菜ちゃん……もう一度、キスして」


「はい」


唇が重なる。お湯の中で、伊月の手が詩音の身体を撫で続ける。どこまでも優しく、どこまでも深く。

呼吸が止まりそうになるほどの熱に包まれながら、繰り返し、繰り返し、愛が注がれる。


「君は……本当に、最高だ。もう、二度と手放さない。閉じ込めて、何もかも与えて、君が壊れるまで愛してあげる……それでもいいよね?」


「……うん。全部、ください。壊れてもいいです、伊月さんのためなら」


詩音の答えに、伊月は満足そうに微笑み、再び深くキスをした。

身体が溶けてしまいそうなほど、長く、熱く、執着と狂気を含んだ愛情が、唇を通して注がれていく。


湯気の中、愛し合うふたりの影は、どこまでも甘く、どこまでも狂っていた。

現実も、過去も、名前さえも関係ない。

今ここにあるのは、「伊月が美菜を愛している」という絶対的な幻想。


それを叶えるために、詩音は“美菜”になった。

そして、伊月の壊れた愛に包まれるたびに、その幻想に自らも飲まれていく。


“もう、戻れなくてもいい”


そう思ったときには、詩音の中の「詩音」は、すでに小さくなり始めていた――。



***



湯上がりの熱がまだ頬に残るまま、詩音は伊月の腕の中にいた。

バスローブ越しに触れる体温、乾かしきれていない髪から滴る水滴すらも、今は愛おしい装飾だった。

リビングのソファに深く身を預けながら、詩音は伊月の胸元に頬を寄せている。

その柔らかな髪を、伊月はゆっくりと指ですくい、撫で、また撫でる。


「……美菜ちゃん、湯加減、ちょうどよかった?」


「はい、伊月さんと一緒だったから……すごく気持ちよかったです」


「……よかった。美菜ちゃんが気持ちいいって言ってくれると、僕も嬉しいな」


囁きながら、伊月の唇が額に落ちる。愛情という名の呪縛のようなキスだった。

触れているだけで息が詰まりそうなほど、甘い。

詩音の耳元に何度も、何度も、愛の言葉が落とされていく。


「……美菜ちゃんの全部が、僕の幸せなんだよ」


「君が笑えば、僕の世界は明るくなる」


「だから……どうか、どこにも行かないでね。僕だけの、愛しいお姫様……」


そんな果てしない愛の囁きに、詩音は何も言えず、ただ頷いた。

この時間が、永遠に続けばいいと願ってしまう。


けれどその時、ふと胸に浮かんだものが口をついて出る。


「あ、そういえば……プリン、買ってきたんです!」


伊月の手が止まる。その言葉に、目が細められた。


「……プリン?」


「はいっ。あの、伊月さん甘いものあんまり食べないかもですけど……なんとなく、買いたくなっちゃって」


「……君が買ってくれたプリンなら、食べてみたいな」


その一言に、詩音の胸がキュウと締めつけられる。

“君”という呼びかけに込められた愛情が、まるで本当に“美菜”に向けられているように感じたから。

違うのに。私は“美菜”じゃないのに――でも、そう思われることが、こんなにも嬉しい。


「じゃあ、お茶も淹れるね。……美菜ちゃんの好きな、アールグレイ」


そう言って、伊月はキッチンへ立つ。

真剣な顔つきで茶葉を量り、お湯の温度を丁寧に調整するその横顔に、詩音は目を奪われる。


(……紅茶、ね……)


それは、以前――美菜が撮影の打ち合わせに伊月の家を訪ねたときのこと。

伊月がアールグレイを出してくれて、美菜は「この香り、好きです」と笑った。

その日、伊月は瀬良の分まで用意した茶葉を渡していた。

だけど今、まるでその記憶が存在しないかのように、伊月は初めて淹れる紅茶のような手つきでカップに注いでいる。


「ふふ、美菜ちゃんこの紅茶好きだと思うんだ」


「ありがとうございます、伊月さん」


差し出されたカップを両手で包みながら、詩音は静かに香りを吸い込んだ。

ベルガモットのすっきりした香りが、ほんの少しだけ現実を遠ざけてくれる。

ふたりきりの、穏やかな時間。

本物の“美菜”と伊月が、きっと叶えるはずだった未来の欠片に、いま詩音が触れている。


「伊月さん、プリンも、どうぞっ。はい、あーん」


「……ふふ、あーんって。可愛いね」


少し照れながらも、伊月はスプーンにすくわれたプリンを口に運ばれる。

口の中に広がる甘さと、詩音の笑顔――その二つが合わさって、胸の奥がじんわりと温かくなる。


「……美味しい」


「よかった……」


詩音は本当に安心した顔をした。

伊月がこうして笑って、甘いものを食べてくれる。優しく撫でてくれて、紅茶を淹れてくれる。

それは“美菜”として在るからこそ、受け取れる優しさ。


このふたりの時間を壊したくない。

この日常を守りたい。

だから――詩音は“美菜”で居続ける。


「……こうやって一緒にお茶を飲めるだけで、私、すごく幸せなんです」


「……僕も。ずっとこんな時間が続けばいい。美菜ちゃんと、毎日一緒に朝ごはん食べて、お昼に手を繋いで外に出て、夜はこうしてお茶を飲んで……それが、僕の夢なんだ」


夢を見るように話す伊月に、詩音は微笑みながら頷いた。

それが幻想だと分かっていても、それでも、夢の中でなら一緒にいられる。


「……夢、叶えましょうね」


「うん。……愛してるよ、美菜ちゃん」


愛しいという言葉とともに、伊月の手が再び頬に添えられた。

甘く撫でられながら、詩音は静かに目を閉じる。

本物の“美菜”になれたような錯覚の中で、満たされる温もりに包まれていた。


この静かな狂気の中でだけ、二人は“幸せ”を手に入れられる。

それが嘘でも、偽物でも、構わない。


――それが、伊月の愛ならば。



***



紅茶の余韻がまだ喉に残るまま、伊月は詩音の手を引いた。

まるで抱き上げるようにその身体をベッドへ導く。

シーツの感触に包まれて、柔らかに沈みこむ詩音の背中。

その上に、ゆっくりと伊月が覆い被さる。


「……今日は、ちゃんと君を甘やかすって決めてたんだ」


その声が優しくて、でもどこか底が見えない。

静かな水面のように穏やかで、だからこそ深くて怖い。

けれど、詩音はただ目を細めて微笑む。

“美菜”として、その愛をすべて受け止めたいと願う。


伊月の手がそっと肩へ触れ、なぞるように滑っていく。

指先がくすぐるように首筋を通り、鎖骨のあたりを円を描くように撫でる。

それだけで、詩音の身体がほんのりと熱を帯びた。


「……美菜ちゃん、今日もたくさん頑張ったんでしょ?えらいね」


「……ん、伊月さんがいてくれたから」


「ふふっ、そう……じゃあ、ご褒美あげないとね」


唇が額へ、瞼へ、鼻筋へと順番に降りてくる。

一つ一つが、まるで宝物を確かめるみたいに丁寧で、そこには本物の“美菜”への想いが滲んでいた。

詩音の胸がまた締めつけられる。

だけど同時に、その愛を受けられることが、どうしようもなく嬉しい。


「……どこが疲れてる?……ん、ここかな」


伊月の指が肩へ回り、そっと押し込まれる。

力は強すぎず、でも芯まで届くように巧みに緩められていく。

そして胸元をなぞり詩音の弱い部分を何度も弄ぶ。

透き通る程色白く細い指は、愛撫とマッサージを曖昧に織り交ぜながら、詩音の身体をゆるゆると溶かしていった。


「……はぁ……あ……そこ……っ」


「ここ、気持ちいい?」


「……うん……伊月さんの、手……すごく……」


「ふふ、美菜ちゃん、すぐ素直になっちゃうね。可愛いな」


優しい手のひらが、今度は背中から腰を撫でるように動き、時折、意地悪くわざと指先を滑らせる。

そのたびに詩音の身体がビクンと跳ねると、伊月は楽しそうに微笑んだ。


「……やっぱり、ここ、弱いんだね。それにすごい敏感になってる」


「や……ちが……んっ」


「ねえ、美菜ちゃん、教えてよ。どこが一番感じるの?どこを触られたら、嬉しくなっちゃう?」


甘い声で囁かれながら、指先が太ももの内側をゆっくり撫で上げる。

くすぐったくて、熱くて、息がうまくできない。

自分の身体が、“美菜”として扱われていることに、詩音の奥深くが疼いていく。


「……ずっと、こうして触れたかったんだ。美菜ちゃんの身体、全部、僕だけのものだよ。誰にも触らせない。……もう、ぜんぶ、僕が知ってるからね」


その言葉とともに、伊月は唇を肌へ押し当てた。

やさしく吸い上げたかと思えば、次の瞬間には痛いほどに噛みつく。

赤く浮かび上がる痕は、伊月にとってはただの証だった。


「んぁっ……!」


「ああ……ここ、いい声出すんだね。もっと鳴かせたいな」


噛みついた場所を舌で舐めながら、伊月はうっとりと目を細める。

興奮に染まるその瞳は、どこまでも美しく、どこまでも狂っていた。

美菜を愛し、美菜を壊すほどに欲しがる男の目。

その視線が自分を見つめていることに、詩音は底知れぬ快感と幸福を感じていた。


(……もっと、河北美菜になりたい……もっと伊月さんに愛されたい……)


“伊月に美菜として愛される”ことに、詩音自身の欲望が重なっていく。

混ざり合う興奮と陶酔。

どこまでも続いてほしいこの夜に、詩音は身を任せていた。


伊月の指が、唇が、髪が、声が――

そのすべてが、詩音を“美菜”として溺愛する。

だから詩音は、自分のすべてで応えるように甘え、震え、泣き声をあげる。


この夜が、壊れてしまうまで。

あるいは壊れてもなお、繰り返されるとしても。


“美菜ちゃん”として愛されるなら――それで、いい。



***



「……ねえ、美菜ちゃん。寒くない?」


「うん……大丈夫です」


伊月の腕の中、詩音はシーツに包まれて静かに頷いた。

背中を撫でる指先は、さっきまでとは違って穏やかで、まるで宝物を扱うような丁寧さがあった。


「そっか……よかった。今日はもう、頑張らなくていいから。いっぱい甘えて、好きなだけ僕に触れてて?」


囁かれる声は耳元で震え、鼓膜にそのまま優しさが染み込んでくるようだった。

詩音は伊月の胸に顔を埋め、小さく頷く。


「……伊月さんの匂い、好き……」


「ふふ……美菜ちゃんも、いい匂い。ずっと嗅いでたいくらい……ほんと、全部好き」


優しく額にキス。

頬に、まつげに、耳たぶに。

そこに触れるたびに、伊月はうっとりとした表情を見せる。


「指先も、髪も、声も……くちびるも……」


ゆっくりと、伊月の唇が詩音の指先に触れる。まるで指輪のように口づけながら、片方の手で髪を優しく梳いていく。


「……全部、僕だけのもの。誰にも触らせない。誰にも見せない。僕だけが知ってる“美菜ちゃん”でいて」


「……うん。わたしは、伊月さんのだから……」


その言葉に、伊月の頬が幸福で緩む。

見惚れたように微笑みながら、詩音の体に両腕を回してきつく抱きしめた。


「……可愛い。ほんとに可愛い。ねえ、もう外になんか出なくていいよ。明日も、明後日も、ずっと俺のそばにいて」


「……うん、いるよ。ずっと」


「ほんとに……? じゃあ、ほら、約束のキスしなきゃ」


伊月の手が顎に添えられ、顔をあげさせられる。

唇が触れ合い、重なって、優しく、でも何度も何度も押し当てられる。


(伊月さん……苦しいくらい、嬉しそう……)


詩音は伊月の唇の圧に身を任せながら、胸がぎゅうっと締めつけられるのを感じていた。

息が続かなくなるほど口付けが深まり、舌と舌が絡み、唾液を分け合い、身体が痺れる。


その中にあるのは、紛れもなく伊月の“美菜”への執着で、

そしてそれを詩音は、自分のものとして受け止めていた。


「……はぁ……ねえ、美菜ちゃん。大丈夫? 眠くなってきた?」


「うん……ちょっと……でも、まだ……もうちょっとだけ……」


「ふふ……まだ欲しがるなんて、可愛いな。いっぱい甘やかしたくなっちゃうじゃん」


ベッドの上で重なったまま、伊月は詩音の背を撫でながら、うっとりと目を閉じた。

肌と肌がぴたりと重なり合い、静寂の中に心音だけが重なっていく。


伊月は何度も「美菜ちゃん」と名前を呼びながら、

その頬に、髪に、耳に、腕に、背に、全身にキスを降らせた。


まるで「大好き」を言葉では足りないと思うように、

まるで一秒でも離れれば壊れてしまうと怯えるように。


そして詩音もまた、伊月のすべてを受け止めながら、

その狂おしいまでの愛情に身を委ねていた。


(それでも伊月さんが、こんなに愛してくれるなら……)


心の奥で微かに疼く罪悪感と、

それを超えるほどの幸福と快楽と陶酔。


詩音の目尻に涙が滲む。

それに気づいた伊月が、やさしく拭いながら微笑む。


「泣かないで……ね? 僕がいるから、もう、何も怖くないよ」


その目は、愛しさに溶けてしまいそうなほどやさしくて――


同時にどこか、取り返しのつかない深さへ落ちていくような感覚があった。


夜は、ゆっくりと、しかし確実に狂気と幸福に染まっていく。

これは夢ではなく現実で、

“伊月の世界”で生きるために、詩音は美菜になりきって、微笑み続ける。


どれほど偽っても、

伊月の腕の中は、あたたかかった。


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