Episode211
「ただいまー」
玄関のドアが開く音に反応して、美菜はパタパタとスリッパの音を鳴らしながら小走りで向かう。ちょっと緊張しながら、でも楽しそうに笑みを浮かべて声を上げた。
「おかえりっ!お風呂にする?ごはんにする?それとも……わ・た・し?」
「……………………はぁぁぁ…………くそかわいいな……………………じゃぁ美菜一択」
それは、一度でいいから言ってみたかった台詞だった。きっと誰もが憧れる“同棲あるある”のやりとり。
瀬良はというと、手に提げていたプリンの袋を思わず落としそうになって、驚いた顔で美菜を見ていた。
信じられないくらい大きなため息をついたと思うと、急に目が本気モードになってしまったのを美菜は察した。
「えっ……あっ!ちょ、ちょっと待って!ごめんごめん!今の冗談だから!本当にごめん、ちょっと待ってね!!」
みるみる自分が思ったより恥ずかしい事をしてしまったと自覚し、真っ赤になっていく美菜。
瀬良はニッと悪戯っぽく笑って、袋を床に置くと、黙って美菜の手を取る。
「え、瀬良くん?」
「美菜が先に言ったんだよな?」
「いや、だからそれは冗談でっ……て、えっ!?ちょっと待ってってば!」
そのまま強引に寝室へと連れて行かれ、美菜は軽く抵抗するものの、瀬良の腕のぬくもりにどこか嬉しそうでもある。肩越しにちらりと見えた瀬良の横顔が真剣すぎて、ドキッとする。
「わ、わかった!……ちょっと、ほんとに冗談だから……!って、こらっ!あっ、やめ、やめて、くすぐったいってば!」
瀬良が美菜の鎖骨あたりにいたずらっぽく舌を這わせると、美菜はきゅっと体を跳ねさせて、ぱしんと瀬良の頭を叩いた。
「……先にごはんっ!ね?お腹空いてるでしょ!?」
「……あー、美菜のごはんの誘惑には勝てないな」
瀬良は小さくため息をつきながらも、ベッドから起き上がり、名残惜しそうにキスをひとつだけ落とすと、美菜の手を取って起こす。
「今日は酢豚だよ」
「美菜の酢豚、丁度食べたいと思ってた」
「え〜、今の流れで絶対頭酢豚じゃなかったでしょ」
「いや、今は完全に酢豚」
くすくすと笑い合いながら、二人はリビングに戻っていく。テーブルの上には美菜が用意していた夕食が並び、あたたかな湯気とともに、今日という一日がふたりを優しく包み込む。
テレビの音も、カトラリーが当たる小さな音も、ふたりにとっては特別で、大切な「日常」だった。
好きな人と、同じ空間で、同じ時間を過ごせる奇跡。
当たり前のようで、実はとても特別なその瞬間を、美菜はふと噛みしめるように見つめた。
瀬良がふとこちらを見て、優しく笑う。
「……なに?」
「いや、なんか……今日も幸せそうだなって思って」
「ふふっ。そうだね。今日も、幸せだよ」
言葉にするのが照れくさいくらい、幸せだった。
そして明日も、こんなふうに「おかえり」と言える日が続けばいいと、心から願う夜だった。
***
夕食を終えたふたりは、食器を片付けながらもどこかゆったりとした空気に包まれていた。
キッチンから漂う酢豚の香りもまだ微かに残る中、瀬良が冷蔵庫を開けて声をかける。
「はい、お待ちかね」
手にしていたのは、紙袋に入ったプリン。
とろりとしたカラメルが魅力的に揺れるスイーツを、瀬良が丁寧にふたつ並べてテーブルに置く。
「わー、ちゃんと買ってきてくれたんだね。ありがと、瀬良くん!」
嬉しそうにスプーンを手に取った美菜は、プリンの表面をそっとすくって口に運ぶ。
一口食べて、ふわっと頬が緩んだ。
「おいし……このとろとろ感、最高すぎない?」
「疲れてそうだったから、ちょっと奮発した」
「ふふっ、さすが瀬良くん」
そんなやり取りをしながら、美菜はふと思い出したように笑い出す。
「そうだ、今日ね、木嶋さんと本屋さん寄ったの。お互いにおすすめの漫画とか小説とか紹介し合ってさ、楽しかったよ」
「本屋?」
「うん。なんか“これ読んで泣いたんだよね~”ってちょっとオーバーに言うから、つい手に取っちゃった。瀬良くんにも今度貸すね」
話しながらプリンをまた一口。甘さが口に広がって、自然と笑顔が溢れる。
「木嶋さん、優しいよね。ちゃんと家まで送ってくれたの。『夜道は危ないから』って」
「……あー、それでか」
「ん?」
「さっき、あいつから連絡きてた。“ナイトのご褒美お待ちしております”だとよ」
「えっ、ははっ!たしかに“なんか要求しなきゃ~”って言ってたや!」
美菜は肩を揺らして笑い、瀬良は小さくため息をついたように、でも口元は緩んでいた。
「あ、そういえばね。本屋で見つけたからって、木嶋さんが新居祝いにこれくれたの」
そう言って、美菜はソファのクッションの隙間から文庫本を取り出す。
表紙には、ちょっと大げさなフォントでこう書かれていた。
『10分で分かる心理』
「……内容、関係ないじゃん」
瀬良が呆れたように言うと、美菜はにっと笑って本を掲げる。
「“同棲って心理戦だから”って言ってたよ?」
「いや、あいつ同棲したことあんのかよ」
「…………あっ、たしかに!」
ふたり同時に吹き出した。
気配りが上手で、場を明るくするのも得意な木嶋。でも、不思議なことに彼女がいる様子は一度も見たことがない。
「なんでだろうね、あんなに優しくて面白くて、話もうまいのに」
「まあ……自分からそういうの作らないんだろ、きっと」
「でも“彼女欲しい”って言ってたよ?」
「……そっか。あいつ、ネット彼女に未だに怯えてるからな」
「ネット彼女?」
「うん。昔、ゲームで仲良くなった子と付き合ってたらしいんだけど……めちゃくちゃ嫉妬深い子だったんだよね」
「ど、どれくらい?」
「俺とゲームの通話してたら、その子が突然鯖に乗り込んできて“今誰と話してるの!?”って。他のメンバーとかにも被害出てたらしくて、あいつ、めっちゃ謝って回ってた」
「……それは、怖いね」
美菜はスプーンを口元で止めたまま、思わず表情を曇らせる。
脳裏に浮かぶのは、自分の配信に来るリスナーたちの顔。
日々応援してくれる人もいれば、好意が行き過ぎてしまった人もいる。伊月のように。
ネットの世界は便利で楽しくて、でも一歩間違えればすぐに踏み外す。
その言葉ひとつで、人を傷つけてしまうこともある。
炎上なんて、紙一重だ。
だからこそ、美菜は思う。
――この幸せを守るために、自分はもっと慎重でいなきゃいけない。
瀬良の隣で、こっそりと深く息を吐いた。
「……瀬良くんには、迷惑かけたくないな」
小さくこぼしたその言葉に、瀬良が少しだけ視線を向ける。
優しい目だった。
「大丈夫。俺がちゃんと守るから」
「……うん、ありがとう。でも私もそうならならないように気をつけるね」
ふたりは並んでソファに座ったまま、またひと口ずつプリンを口に運んだ。
外は少しずつ夜の深みを増していく。
けれどこの部屋の中には、安心とぬくもりがあった。
誰にも邪魔されない、ふたりだけの甘く穏やかな時間が流れていた。




