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Episode210



京都から帰ってきた翌日、サロンは朝から活気に満ちていた。


入り口のベルが鳴るたびに、スタッフたちの軽快な声とドライヤーの音が重なり合い、まるで忙しさが空気に色をつけているかのようだった。旅行明けのゆったりとした時間に慣れた体が、急に現実へと引き戻される。


「はぁ〜……今日も温泉入りたいですぅ〜」


千花の伸びやかな声が、タオル置き場にいた美菜の耳に届く。湯気の中で頬を赤く染めていた千花の姿が脳裏によぎって、思わず美菜は口元をほころばせた。


「たしかにね」


ふふっと笑いながら、美菜は手元のタオルを丁寧に畳んでいく。肌触りの良いタオルの感触が、なんとなくまだ旅の余韻を引き戻すようだった。


それにしても、今日はやけに忙しい。朝にしっかり準備しておいたはずのタオルが、既に心許ない数になっている。カウンターの方を見ると、田鶴屋がテンポ良く接客をこなし、瀬良が黙々とカットとセットに集中していた。二人とも疲れた様子を見せずに動いているが——


(瀬良くん、大丈夫かな……)


美菜の心に、ふとした不安がよぎる。朝、一緒に家を出たとき、瀬良が小さく咳をしていたのが気になっていた。すぐに平然とした顔に戻ったから、それ以上何も言えなかったけど、彼の無理する癖はよく知っている。


そのとき——


「というか、一緒に住んでみてどーなんですかー?」


背後から聞こえた千花の声に、思わず美菜は肩をびくりと震わせた。


「え!?あ、ふ、普通だよ!!」


動揺しながらも答える美菜に、千花はにっこりと笑いながら首をかしげた。


「普通って、それ本当に普通ですか〜?二人とも距離感おかしいくらい仲良いですもんね〜!もう付き合ってる通り越して、夫婦って感じですよ〜?」


「なっ……! 千花ちゃん!」


頬が一気に熱くなり、美菜はタオルを手にしたまま思わず顔を伏せた。ちらりと瀬良の方を見やると、ちょうどブローに集中しているふりをしながらも、耳が少し赤くなっているように見える。


「わぁ!照れてますね!美菜先輩かーわいいっ!」


「うっ、うるさいってば……もう!」


美菜は笑いながらも、タオル棚の前で千花と軽くじゃれ合う。日常のこの穏やかで温かい空気に、思わず胸の奥がじんわりと満たされる。


「これ終わったら千花ちゃん、瀬良くんのとこのお客様のシャンプーお願いね」


「はーい!かしこまりましたー!」


明るく元気な返事が返ってきて、思わず美菜の頬がまた緩む。千花の素直さと屈託のなさが、この忙しい空間に柔らかい余白を作ってくれているように思えた。


その視線の先、ふと詩音の姿が目に入る。ドライヤーを持つ手の動きは安定しているし、お客様とのやりとりにも問題はない。ただ——


(……詩音ちゃん、最近なんだか分からない)


京都旅行のことが、ふと胸をかすめた。


旅館の朝、風呂上がりの詩音の肌にうっすらと残っていた、あの歯型や、首元のキスマーク。


誰がつけたものなのか。どうしてそんな風になったのか。何かを言いかけて、やめた詩音の表情も、今思えば意味深だった。


でも、聞けなかった。詩音に対してどんな感情を抱いているのか、自分でも分からなくなっていたから。


(気にしても仕方ない……よね)


自分に言い聞かせるように心の中で呟き、美菜は再びタオルを手に取った。


けれど、あの朝見た痕が、頭の中から離れてくれない。


旅の余韻がまだ消えきらないまま、日常という現実が確実に戻ってきているのを感じながら、美菜は胸の奥にほんの少しのざらつきを残して、業務へと戻っていった。



***



営業後のサロンは、ようやく一日の喧騒が落ち着きを見せ始めていた。カラカラと掃除機の音が残る店内で、美菜は手際よく自分の荷物をまとめながら、瀬良の背中に視線を送った。


「瀬良くん、そろそろ帰ろっか」


声をかけると、鏡の前で使い終わった道具を片づけていた瀬良が、ふと振り向いた。その目元にはどこか申し訳なさそうな影が宿っていて——


「悪い、今日はちょっと寄りたいとこあるから、先帰ってて」


言葉を選ぶように静かに告げた瀬良の声に、美菜の胸がきゅっとなる。もちろん、同じ家に住んでいるのだから、一緒に帰らなかったとしても、どうせそのうち同じ場所に辿り着く。けれど——なぜ一緒に帰れないのか。その理由を知りたいと思ってしまった。


「なん……」


喉の奥で言葉が引っかかる。言いかけた問いを、美菜は飲み込んだ。


(なんで、って聞いてもきっと、言いたくないことなんだよね)


一瞬の沈黙のあと、美菜はふっと笑顔を作って、軽く肩をすくめた。


「じゃあ、なんか甘いおみやげでも買ってきてね」


あえて明るく冗談めかして言うと、瀬良の表情が少し柔らいだように見えた。うん、とだけ小さく返事をして、彼はまた道具の整理に戻っていった。


(……瀬良くんと一緒に住むって、こういうことだよね。プライベートの時間も減っちゃうし、お互いちゃんと配慮しないと)


納得したわけではなかったが、自分なりに折り合いをつけることで、心を軽くしようとした。それどころか、「ちょっと大人の対応できたかも」なんて内心で思って、少しだけ誇らしい気分にさえなっていた。


そんな時、外に出ようとしたところで、背後から明るい声が飛んできた。


「あっ! 美菜ちゃーん!これから帰り? 瀬良きゅんは?」


振り返ると、相変わらずテンション高めの木嶋が、スマホを指でくるくる回しながら近づいてくる。


「これから帰るとこだよ。瀬良くんは、ちょっと用事あるんだって」


「へぇ〜?まじか〜。じゃあさ、一緒に帰ろ! 今日のナイトはこの俺がつとめてやんよ!」


ふざけた調子で胸を張る木嶋の姿に、美菜は思わず吹き出してしまった。


「あはは!頼もしいなぁ」


気楽なテンポで言葉を返しながら、美菜は木嶋と並んで歩き出した。いつもなら誰かしらと一緒の帰り道——でも、木嶋と二人きりというのは初めてかもしれない。


「ねぇねぇ、一緒に本屋寄って帰んない?今日、新刊の発売日なんだよね」


「本屋かぁ……うん、いいよ。最近全然行ってなかったし、たまには寄ってみたいかも」


「よっしゃー!本屋に行くと財布が軽くなる呪いにかかってる男、木嶋です!」


わざとらしくおどけて、財布を抱えてガクガクと震える仕草を見せる木嶋に、美菜は肩を揺らして笑った。


夜風が少し冷たく感じる春の帰り道。街の明かりが足元を照らす中、木嶋のテンションは全く落ちる気配がなく、仕事終わりだというのにまるで朝のように元気だ。


「なんか、木嶋くんと二人でこうやって話すのって新鮮だね」


「たしかに〜。ネットではいつも喋ってんのにさ、リアルだとちょっと緊張するな、これ」


「同じ職場なのにね。帰り道って、いつも誰かしらいるし……瀬良くんとか、千花ちゃんとか」


「そうそう。あいつら強すぎて、俺の影うっすいもん。今日くらいは瀬良きゅんに特別ボーナスもらわないとなぁ。『木嶋さんのおかげで美菜さんが無事に帰宅しました』って」


とつぜん背筋を伸ばし、ボディーガードの真似をする木嶋。後ろをキョロキョロと見回して「不審者いません!」と叫ぶ姿に、美菜はこらえきれず笑ってしまった。


「もう、なにそれ……本当に面白いよ、木嶋くん」


「よし、笑った。今日の任務は成功だな」


少しだけ疲れていたはずの帰り道が、気づけば明るく、軽やかになっていた。隣でくだらないことを言って笑わせてくれる木嶋の存在に、美菜は心から感謝した。



***



喫茶店の静かな空間に、ほのかにコーヒーの香りが立ち込めていた。ガラス越しに見える夜の街はすでにネオンが灯りはじめ、店内の落ち着いた照明が、どこか仄暗い雰囲気を漂わせている。瀬良はそんな空気の中、先に席についていた星乃の姿を見つけ、静かに歩み寄った。


「……お疲れ様です、星乃さん」


そう言って声をかけたとき、彼の胸の中には確かな確信があった。一昨日の夜、美菜の話と星乃の一瞬の反応から、彼女も伊月海星と何かしらの関係があることが確定に変わった。だからこそ、今日ここに来たのは証拠を掴むためだった。


「お疲れ様。……コーヒーでいいの?」


星乃は変わらぬ落ち着いた調子で尋ね、すれ違った店員に手を上げて注文を伝える。


「はい、コーヒーで」


瀬良はそう返しながら、鞄から取り出した紙袋を差し出す。


「あ、これ……京都土産です。よかったらどうぞ」


「京都?……まあ、ありがとう」


星乃は少しだけ目を細めながら受け取ると、瀬良もようやく椅子に腰を下ろし、上着を脱いで一息ついた。目の前にあるコーヒーカップをひとくち啜りながら、瀬良は単刀直入に切り出す。


「……で、単刀直入に聞くんですけど。伊月との関係を、一からすべて話してもらっていいですか?」


その真っ直ぐな視線に、星乃はふっとため息をつくように微笑んだ。


「ちょっと……先にあなたの方こそ、伊月さんとどう関わってるのか話してくれない?」


「えー……まあ、いいですけど……」


めんどくさそうに返事をしながらも、瀬良は順を追って、これまでの出来事を話し出す。伊月が美菜のストーカーのようなことをしていたこと。それを本人が否定しなかったこと。大会での代理起用や、その後の接触。そして、京都旅行で偶然見かけたこと、さらには「東谷詩音」という名前についても触れた。


「てな感じですかね」


一通り話し終えると、星乃はコーヒーを飲みながら眉間にしわを寄せた。


「ふーん……東谷詩音、ねぇ……」


その反応に、瀬良は間をおかず問いかける。


「……で、話してもらえますか?」


「そうねぇ……じゃあ、結論から言うと……たしかに私も伊月さんに指示されて動いたことはあるわ」


「どこからですか?」


「……どこって……」


言い淀む星乃。その様子は、言葉を選んでいるというより、思い出すことすら恐れているようだった。やがて、その表情が徐々に青ざめていく。視線は定まらず、指先がわずかに震えているのがわかった。


「あ……っ」


「え、大丈夫ですか?」


「……ええ、大丈夫。気にしないで」


冷や汗を浮かべながらも、強がるように答える星乃。普段の彼女からは想像もできないその弱々しい姿に、瀬良もさすがに心配になった。店内の店員も彼女の異変に気づいたのか、ちらちらと様子を窺っている。


「……ちょっと、思い出しちゃって。ごめんなさい、取り乱したわ」


星乃は小さく息を吐き、水を飲んで自分を落ち着かせようとしていた。


「…………あの、無理にとは言いませんけど。話せる範囲で……大丈夫ですか?」


瀬良が慎重に言葉を選びながら問いかけると、星乃はゆっくり頷き、重い口を開いた。


「……話せることは……ごめんなさい。伊月さんとの契約上、あまり無いの」


「契約……?」


その言葉の重さに、思わず聞き返す瀬良。星乃と伊月の間には、何かしらの取り決め、あるいは圧力が存在しているらしい。普通の人間関係ではないと、直感でわかった。


(……これは、ただのビジネスじゃない。きっと星乃さんは何か弱みを握られてる。……脅されてるんだろうな)


瀬良は心の中で静かに推測し、質問の切り口を変えることにした。


「じゃあ、別のこと聞いていいですか。星乃さんって、東谷のことは知ってました?」


「……名前までは知らないわ。でも、伊月さんの“コレクション”の中の一人なのは分かる」


「コレクションって……」


「伊月さんにはね、自分の言うことを聞いて、思い通りに動いてくれる人たちがたくさんいるの。男でも女でも。その中には“信者”みたいな……依存的な人間も混ざってるわ」


「……はは、なんか宗教じみてますね」


「……あながち間違いじゃないかもね。あの人は“人の心”を操るのがとても上手なのよ。女には容姿や身体で、男には金や地位で。相手の一番欲しいものを見抜いて、それをぶら下げて支配するの。……怖いくらいにね」


その声音には、皮肉と嫌悪が滲んでいた。星乃は、伊月という人間の本質を誰よりも理解しているのだろう。そして今は、心の底から彼を嫌っている。


「……星乃さんも、伊月に惚れてたんですか?」


「……別に。好きだったかどうかなんて、もう分からないわ。ただ……あの人の心の中にいるのは、いつだって“ひとり”だけだった」


「美菜……ですか?」


「そーよ。河北美菜。あの時はわからなかった。でも、今ならはっきり言える。あの男、伊月海星は……どこか壊れてるのよ。執着って言葉じゃ足りないほど、彼女に縛られてる」


冷めたコーヒーを飲み干すと、星乃は千円札をテーブルに置いて、立ち上がった。


「……大会の時、木嶋を落としてってモデルに頼んだのは伊月さん。私は正直、木嶋くんが嫌いだったから話に乗ったの。モデルにわざとぶつかるよう指示した。それは認めるわ」


「……そうですか、ありがとうございます」


「じゃあね。気をつけて帰って」


それだけ言い残し、星乃は店を後にした。ドアベルの音が微かに鳴る。


瀬良は深く息をつきながら、ゆっくりと机に突っ伏す。


(……なんだよこれ。あいつラスボスみたいな位置にいんだな)


ゲームの中の物語ならまだ笑えたかもしれない。でも、これは現実だ。執着の対象は、自分の彼女だ。そして、これまでの出来事は、すべて彼女を中心に絡み合っていた。


ふと腕時計を見れば、いつの間にか時間は21時を過ぎている。美菜がきっと帰りを待っている。――同棲している家に、帰らなくては。


「……あー、伊月…めんどくせえ……」


独り言のように吐き出して、椅子を引いた。冷めたコーヒーを飲み干すと、瀬良は席を立ち、美菜が待つ家へと帰っていった。


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