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Episode208



「じゃあ、おやすみ」


「……おやすみ、美菜」


夜の帳が下り、ほんのり湯気を纏うような余韻を身体に残して、美菜と伊月は貸切風呂の前で短く別れの言葉を交わした。


鍵をフロントに返し、少し並んで歩いた後、それぞれの部屋に向かう。


静かな廊下には、遠く虫の声がかすかに混じる。


美菜は、自分たちの部屋の前に立ち止まり、そっと襖に手をかけた。

千花たちはもう寝ているだろう――と、静かに開けたその瞬間だった。


「美菜先輩いぃぃい!!どこ行ってたんですかああああ!!」


ごそっと何かが襲いかかるように飛び出してきて、美菜の身体に抱きついてきた。

柔らかい重みと共に鼻を突くのは、ほんのりとしたアルコールの匂い。

それは間違いなく、やさぐれた千花だった。


「ちょ、千花ちゃん……!?」


「詩音ちゃんも帰ってこないし!美菜先輩までいないし!千花たち、寂しかったんですからねぇえええ!!」


美菜にしがみつきながら、千花は顔をぐしゃぐしゃにして訴える。

顔が赤いのは怒っているからだけじゃなく、酔っているからに違いない。

その背後では、布団に座ったままのおっとりした百合子が、苦笑いを浮かべていた。


「おかえりなさい、美菜先輩。ごめんなさい、千花ちゃん、やけ酒しちゃって……」


「百合子ちゃん……起きてたの?」


「うん、寝かけたんだけど、千花ちゃんが急に今日買ったお土産の日本酒開けて……二人のこと、気になってたみたいで」


美菜はようやく状況を把握した。どうやら詩音が美菜と一緒のタイミングで姿を消してから、千花はどこか不安になってしまったらしい。

そしてなにより美菜がいなくなったものだから、寂しさが爆発したのだ。


「詩音ちゃん、どこ行っちゃったんだろ?」


「知りませんっ!千花に内緒でみんなしてどっか行っちゃうんだからっ!」


まるで子どものようにぷりぷりと怒っている千花が、美菜の胸元をぽかぽか叩いてくる。

小さな拳がふわふわと当たるたび、美菜は困ったような、でもどこか愛おしさを含んだ笑みを浮かべた。


「美菜先輩っ!美菜先輩が飲んでくれないと、千花、許しませんっ!」


「はいはい、わかったわかった。一緒に飲もうねぇ……」


苦笑しながらも、美菜は千花の肩を軽く抱いてあやすように撫でる。

すると千花はますます不満げに、泣きそうな顔で声を上げた。


「千花を放ったらかしにする美菜先輩なんて……嫌いですっ!!」


「……え? 嫌いなの?」


美菜がわざと真剣な声でそう聞き返すと、千花は一瞬目を見開いたあと、うわぁぁん!と大きな声を上げて泣き始めた。


「嘘ですぅぅう!嫌いなんかじゃないですぅぅう!どんな美菜先輩も、千花はだいすきですぅうう!!」


「ふふっ、そっかそっか。よーしよし」


美菜は優しく、千花の頭を撫でてやった。

千花は嬉しそうに、でもまだ涙を滲ませたまま、くしゅんと鼻を鳴らしながら美菜の胸に顔をうずめる。

その様子に、百合子もくすくすと笑っていた。


「千花ちゃん、甘えん坊モード入っちゃってるね」


「……そういうとこ、ちょっと可愛いのがズルいのよね」


穏やかで、ちょっとにぎやかな空気。

いつものようで、でもほんの少し、どこか温度が高い。


美菜は、千花を膝の上に乗せたまま、ふわりと微笑む。

少し疲れていたけれど、その重みとぬくもりが、心をふわっと緩めてくれる気がした。


こうして――美菜の京都一日目は、ほんの少し感情が揺れる夜風のように、静かに終わっていった。



***



旅館の朝は静かで、どこか非日常の香りがした。

鳥のさえずりが遠くに聞こえ、まだ眠っている世界を優しく揺さぶっているようだった。


美菜はその音に耳を傾けながら、静かに浴衣の帯を締め直し、誰もいないであろう朝の温泉を目指して、そっと部屋を出た。

肌寒い廊下を歩きながら、昨夜の出来事が頭に浮かぶ。


(……詩音ちゃん、朝まで帰ってこなかったなぁ)


心配になってメッセージを送ってみたものの、「大丈夫です」とだけ返ってきて、それ以上のことは何も分からなかった。

瀬良に訊いてみても、どこか歯切れの悪い返事で、美菜の不安は残ったままだ。


そんな曖昧な気持ちを引きずったまま、湯気の向こうに続く脱衣所で衣服を脱ぎ、そっと湯船へと足を浸す。

温かいお湯が肌を包み込むように広がり、ふぅ、と自然とため息が漏れた。


「……ま、朝から温泉も入れたし、いっかぁ……」


首まで湯に沈みながら、伸びをする。

白く立ち上る湯気の中、朝の空気が頬に触れるたびに、心が少しずつほぐれていくのが分かった。

日常の喧騒や、心のざわつきすら溶かしてくれるような、そんな静けさがそこにはあった。


「……あ、美菜先輩」


ふいにかけられた声に、美菜は小さく振り返った。


「……詩音ちゃん……」


湯けむりの中から現れた詩音の姿は、どこか疲弊しているように見えた。

笑顔も少しだけ引きつっていて、目の下にはわずかに影がある。


「……おはようございます……」


「お、おはよう……」


ぎこちない空気が流れる。

詩音は湯船にゆっくりと身を沈めながら、ちらりと美菜の方を見たが、すぐに視線を逸らした。

その仕草もどこか居心地の悪さを感じさせた。


美菜もまた、無言のまま詩音を見て、息を飲んだ。

湯に濡れた肩や二の腕、鎖骨の辺りに、赤く色づいた跡がいくつも残されていた。

……それはまるで、噛まれたかのような歯型だった。


一瞬、言葉を失いかけたが、すぐに美菜は自分を律した。

詩音が何をしてきたか、誰と過ごしていたか。

それを詮索するのは今じゃない。

少なくとも、本人が何も言わないのなら、触れるべきではない。


「……美菜先輩、少しだけ質問いいですか?」


「……はい、どうぞ」


思わず敬語になってしまい、詩音の目を見れずに頬をかく美菜。

詩音は小さく笑ってから、真剣な声で続けた。


「あの、美菜先輩って……瀬良先輩のどこが好きなんですか?」


「……え?」


美菜は虚を突かれたように目を見開いた。

詩音の声音には、冗談やからかいのような軽さはなかった。

むしろ何かを試すような、確かめるような……そんな重みを感じた。


「そうだなぁ……」


美菜は静かに息を吸い、言葉を選びながら話し始める。


「どこ、っていうより……一緒にいると、幸せって思えるの。もっと一緒にいたいなぁとか、美味しい物見つけたら、真っ先に見せたいなぁとか……綺麗な景色を見たら、隣にいてほしいなぁとか。そういう感情が自然と湧いてくるのが、瀬良くんなんだと思う」


詩音は静かに聞いていたが、瞳の奥に微かに滲む感情を、美菜は見逃さなかった。


「もちろん、困ってたり、辛そうだったら支えてあげたいし……一番近くにいたい。そう思える人なんだよね」


照れ臭そうに笑いながらそう言う美菜に、詩音は小さく頷いた。


「きっとそんなふうに言ってくれる美菜先輩に、瀬良先輩は救われてるんでしょうね」


「……そう、かな」


一瞬だけ、誇らしげに笑う美菜の顔が、水面に映る。


「もしもの話ですけど……」


ふいに詩音が口調を変えた。


「もし、目の前で好きな人が苦しんで、泣いて叫んで……自分しか救えないって感じたら、なんて声をかけますか?」


その目は真っ直ぐで、まるで答えを強要するような強さすら感じた。


「……え……?」


「“大丈夫”なんて言葉じゃ届かなくて、“私がいるよ”って言っても救えない……そんな相手に、美菜先輩ならどうしますか?」


――誰のことを言っているんだろう。


そんな疑問が浮かんだが、それよりもその必死な問いかけに、美菜は心を揺さぶられた。


「…………私なら、声をかけれないかも」


「………………は?」


「うん……だって、その人が抱えてるものが、私には分からないくらい大きなものなら……言葉って、軽くなっちゃう気がする。分かるよ、なんて言えない。だから――黙って、そばにいるかな。話してくれるまで、ただ待つ。手を握って、抱きしめて……それくらいしか、できないよ」


瀬良ならきっとそうしてくれる。美菜の話を聞いて、そっと寄り添ってくれる人だ。

田鶴屋や千花なら手を握ってくれたり抱きしめてくれたりするだろう。

何も言わずに寄り添う優しさも大事だと美菜は思う。


そう言って、美菜は詩音に微笑みかけた。

柔らかく、けれどどこまでも真っ直ぐで、包み込むような笑みだった。


詩音はその笑みに、言葉を失ったようだった。

目を伏せたまま、震える唇を何度も噛みしめていた。


「……そういう所が……好きなんでしょうね」


静かに、ぽつりと零す。


「詩音ちゃんは…瀬良くんのこと……好きなの?」


恐る恐る問う美菜に、詩音はゆっくり首を振った。


「好き……ですけど、美菜先輩の“好き”とは違います。私には、私の好きな人がいるので」


その表情は、何かを決意したような、静かな覚悟に満ちていた。


美菜はその顔を見つめながら、ふと昨夜の出来事を思い出した。

キスマークのような痕、噛まれた跡。

その意味を、思考が自然と辿ってしまう。


(……いやいやいや、触れない、触れちゃだめ……)


自然と田鶴屋の顔、木嶋の顔が浮かんでくる。

皐月は百合子と付き合っているのでその可能性はないだろう。


(……どうか二人が変な事してませんように)


美菜は必死にその妄想を振り払うように、首をブンブンと振った。


そんな彼女に、詩音はぽつりと告げる。


「美菜先輩……私、美菜先輩になりたかったんです」


「わ、私になっても得しないよ!?」


「えー、胸も大きいじゃないですかー?」


「もぉーー!!まだ言ってる!!」


水をパシャッと軽くかけながら、美菜は頬を膨らませて笑った。

その瞬間、ようやく二人の間に流れていた緊張が、湯けむりに溶けるように消えていった。


温泉の湯は変わらず心地よく、穏やかな朝がようやくそこに訪れたようだった。


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