Episode207
暗闇の部屋のドアを開け、詩音は声をかける。
「……い、伊月さん?」
詩音の声は、震えていた。
ほんの少し前まで、伊月から呼ばれたことが嬉しかった。きっと褒めてもらえる。よくやったって頭を撫でてくれる。そんな期待に胸を躍らせてこの部屋の扉を開けたはずだったのに――今、詩音の胸を満たしているのは、後悔と、恐怖と、そしてほんのわずかな、呪いのような希望だった。
部屋の電気をつけて見えたのは、
伊月は机に突っ伏すように座り、スマホを手に持ったまま、その画面に目を釘付けにしている。そこには、美菜の写真。どこかで盗撮されたような、何気ない日常の一コマだ。優しい笑顔でどこかを見ている美菜のその横顔を、伊月はずっと――本当に、ずっと見つめている。
「……だったのに。……だって……はは……だから……って…………そうだよ………………だって…………」
伊月はまるで壊れかけた人形のように、意味をなさない言葉をぽつぽつと、しかし止まることなく呟いている。
詩音は思わず一歩引いた。寒気がした。いや、寒気ではない。これは、本能の危機感だ。
「あ、あの……伊月さん……?」
詩音が伊月の傍に寄りそう呼びかけると、伊月がゆっくりとこちらを振り向いた。
「……………………………………なに?」
その瞳を見た瞬間、詩音の息が止まりかけた。
光が――なかった。そこには、以前確かにあった理性や冷静さ、他人を見る視点すら存在しない。瞳の奥は深く、暗く、冷たい湖の底のようで、見返しているはずなのに、詩音自身は何一つ映っていないように感じた。
「ッ……!!!」
ゴクリと唾を飲み込む音が、ひどく大きく耳に響いた。
詩音は伊月のそういうところを知っている。
誰より優しく、頭が良く、繊細で、だけど――時折、壊れてしまったような目で、周囲をすべて道具のように見下ろすことがあった。利用価値がないと思えば、簡単に切り捨てる。冷酷で、無慈悲で、でもそれでも、詩音は――それでも、伊月が好きだった。
それはもはや「信仰」に近い感情だった。
憧れではない。恋慕でもない。存在そのものに縋るような、支配されたいという渇望に近い何か。
「あの……美菜せんぱ……」
その名前を口に出した瞬間だった。
伊月の身体がぴくりと反応し、次の瞬間には、詩音の口内に冷たい指がねじ込まれていた。
「ウッ…………!?!?」
息も詰まるほどの勢いで差し込まれた指先が、乱暴に口内をかき乱す。喉の奥を何度も押し上げ、えずかせ、涙があふれそうになる。
伊月の瞳は詩音を見ていた。だが、同時に――見ていなかった。
「美菜ちゃん…………」
まるで夢を見ているかのように、柔らかく名前を呟く。だがその声音とは裏腹に、爪は詩音の舌を押しつぶし、血が滲みそうなほど強く押し付けられる。
「失敗した失敗した……失敗した……失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した……ッ!!」
伊月の呟きは徐々に速度を増し、口元から唾が飛び散る。
「ひひゅきひゃん……!」
詩音は涙と嘔吐感にまみれながらも、ただ耐えるしかなかった。何度も喉を突かれ、苦しさで視界がぼやける中、それでも――それでも、伊月の顔を見てしまう。
美菜の名前を呪文のように唱えながら、狂気のなかで絶望的なまでに「愛」を追い求めている伊月の姿に、詩音は心を掴まれていた。
「……美菜ちゃん……なんで……なんで……そうだ……そうに違いない……」
突然、伊月は動きを止めた。
指をゆっくりと引き抜き、詩音は喉の奥で濁った吐息を吐いた。
「はぁ……っ、は……ぁ……」
口の中にはまだ伊月の指の感触が残っている。
震える身体を抱え、詩音は言葉にならない吐息を漏らす。
「……伊月さん」
「美菜ちゃん……」
そして、伊月は――詩音を見た。
だがそれは、詩音としてではない。
美菜としてだった。
「えっ……あっ……」
そのまま、唇が重なった。
冷たく、でも焦がすように熱い口付け。
狂気に満ちた愛が、詩音を呑み込む。
「……美菜ちゃんっ、美菜ちゃん……!」
叫ぶように名を呼び、伊月は詩音を押し倒す。
その目には、詩音の姿はもう存在していない。ただ妄想の中の「美菜ちゃん」だけが存在し、詩音の身体を、声を、肌を、美菜と錯覚している。
「可愛いね。ずっと僕だけのもの……はぁ……愛してる……美菜ちゃん、ねえ、愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる……」
伊月の言葉は呪文のように繰り返される。
息継ぎすら忘れたかのように、ただ、美菜の名前と「愛してる」を何度も何度も――
まるで壊れた再生機のように――繰り返す。
その声が、詩音の耳を犯していく。
その吐息が、詩音の肌に染み込んでいく。
そしてその狂気が――心の奥深くにまで届いていく。
「……私も、愛してます」
詩音はそっと呟いた。
伊月に組み敷かれ、真っ黒な瞳から落ちて頬を伝う涙を感じながら。
その愛が自分のものではないと分かっていても。
自分の名前ではなく、他の女の名前を呼ばれていると知っていても。
それでも――伊月の熱が、苦しみが、哀しみが、詩音を引き寄せて離さない。
まるで呪いのように、詩音の心を絡め取っていく。
(伊月さん。どうしてそんなに、美菜先輩を愛せるの……?私には……そんな風に、愛してもらえないの?)
それでも。
「……私も、伊月さんのこと……愛してるんです」
喉の奥で震える声で、そう答える詩音の瞳には――もう、涙以外のものが宿り始めていた。
伊月の体温がのしかかる。
冷たくもないのに、冷えきった重さだった。
首筋に触れる呼気は、まるで深く海に沈んでいくように静かで、沈鬱で、怖いほどに穏やかだった。
伊月は詩音の身体に触れているのに、目の前の詩音を見ていなかった。
――伊月にとって詩音はもう“詩音”ではなかった。
「美菜ちゃん……美菜ちゃん……」
その声には苦しさと陶酔がないまぜになっていた。震えているのは詩音だけではない。伊月の指先も、細かく小さく痙攣している。
「ずっと、ずっと見てたのに……どうして気づいてくれなかったの……?」
耳元で囁かれた声に、詩音は息を飲む。
「どうして、僕じゃ駄目だったの……? ねえ、美菜ちゃん。僕、こんなに頑張って……全部、君のためだったのに……」
伊月の嗚咽混じりの囁きが、狂気の中に寂しさを滲ませていた。
「髪、切ってたよね。サイドのライン、ちょっと変わってた……ちゃんと見てたよ。今日も可愛かった。どんな光より、どんな景色より、君のほうがずっと綺麗だった。……本当だよ、信じてよ、美菜ちゃん……」
詩音の目からも涙がこぼれ落ちる。感情が混乱している。怖いはずなのに、なぜか胸の奥にあるのは――哀しみだった。
伊月は詩音の頬を撫でた。
優しく、赤ん坊をあやすみたいに。
「君を傷つけたくなんてない。ただ、ただそばにいたいだけ。こんなにも想ってるのに、どうして、どうして伝わらないの……」
また「美菜ちゃん」と呟きながら、伊月は唇を重ねる。深く、重たく、憑りつかれたように。詩音はもう抵抗できなかった。ただ、瞳を閉じて伊月の震える指先と壊れそうな吐息を受け入れていた。
――これは愛なんかじゃない。
分かってる。詩音自身、心のどこかでそれを理解していた。
けれど、それでも。
(この人の中にある“美菜ちゃん”を、私が埋められたら……)
そんな絶望的な希望に、縋ってしまった。
「愛してます……」
もう一度、そう口にする。
伊月の唇が、額に、まぶたに、頬に、次々と触れていく。その熱が、優しさに変わっていくような錯覚に詩音は陥っていた。
「ありがとう……美菜ちゃん……」
その言葉が伊月の中で、何かを決定づけてしまった。
「……もう、逃さない。君は僕のものだよ。誰がどうあっても……僕の、美菜ちゃん……」
その囁きは、深淵から漏れ出た呪いのように、甘く、冷たく、絡みつく。
部屋の明かりが揺れていた。まるで、何かが壊れていく音を感じているかのように――。
***
「……っは、はっ……っは……っはぁ、っはあっ……!!」
先程まで甘く痛く抱かれていた詩音の上に覆いかぶさった伊月の身体が、ひくひくと震え始めた。
呼吸が追いついていない。
視線が泳ぎ、焦点が合わない。
さっきまで確かにその腕の中にいた“美菜”が、どこかへ消えてしまった――そんな錯覚に囚われていた。
「どこ……?……美菜ちゃん……?」
手のひらで詩音の頬を撫でる。けれどその瞳は、やはり目の前の詩音を見ていない。
震える声で名前を呼び続ける伊月の瞳に、理性の光は微かに戻りつつあったが、それと同時に――異常なまでの喪失感が、襲いかかっていた。
「どこ……行っちゃったの……?さっきまで……確かに、ここにいたのに……!なのに……なんで、なんで、いないの……?」
その手が急に詩音の肩を掴む。
爪が食い込み、痛みが走る。
「返して……!! 僕の……美菜ちゃん、返してよ……っ!!」
どん、と詩音の肩を突き飛ばすようにして伊月はのしかかる重みを引いた。
崩れ落ちるように後ずさり、床に座り込む。肩で息をし、涙と汗に濡れた顔が歪む。
「なんで……どうして……どこに行ったの、どうして……僕だけ置いて……っ」
過呼吸だ。胸が上下に激しく揺れ、喉の奥で息が鳴る。
詩音はその姿を黙って見ていた。
どこか夢のようだった。あんなに完璧だった伊月が、今こんなにも脆く、壊れている。
けれどそれは、美菜という存在を想うがゆえのこと。
なら――なら、自分が。
「……伊月さん」
詩音はゆっくりと伊月に近づき、膝の上に座りこむ。
伊月はそれでもなお虚空を見ていた。
まるで、何も見えていない子どものように、苦しみの中でさまよっていた。
詩音はその顔を両手で包み込む。柔らかく、優しく
――まるで、かつて伊月が美菜にしてきたように。
「ここにいますよ、伊月さん」
その囁きに、伊月の目が揺れる。
「私は、伊月さんの……“美菜ちゃん”ですよ……?」
そう囁いて、詩音は伊月の額に唇を落とした。ゆっくり、丁寧に、慈しむように。
伊月の瞳が震えた。
「……美菜、ちゃん……?」
「そう……私が、美菜ちゃんです」
次に口づけたのは、まぶた。頬。そして最後に、唇。
伊月は涙を零しながら、そのキスに応えた。
指先が詩音の頬に触れ、頬に腕がまわる。壊れものを扱うような、不器用で、必死な抱擁だった。
「……やっと……やっと会えた……美菜ちゃん、僕を置いていかないで……ひとりにしないで……っ」
伊月の甘えるような声は、子どものように弱々しく、痛ましかった。
「うん……ずっと、そばにいますよ……」
そう答えた詩音の胸には、奇妙な満足感が芽生えていた。
(……ああ、これでいいんだ)
伊月の腕の中で揺れるたび、囁かれる「美菜ちゃん」に心が満たされていく。
それが自分に向けられている言葉でなくてもいい。
伊月の“美菜ちゃん”が、私ならば――。
(そうだよ……私が、河北美菜になればいいんだ)
詩音の中に、ひとつの確信が芽生えた。
自分が美菜になりきれば、伊月は壊れずにすむ。
伊月は“美菜ちゃん”を愛し、“美菜ちゃん”だけを求める。
なら、自分がその“美菜ちゃん”になり、伊月にすべてを捧げればいい。
愛されたい、必要とされたい、手放されたくない――
そのすべての感情が、詩音の胸の奥で歪んだ愛へと変質していく。
伊月がもう一度「美菜ちゃん」と呼び、抱きしめたとき、詩音は心の底から微笑んだ。
「ねえ、伊月さん……これからも、ずっと一緒ですよ……ね?」
伊月は、詩音ではなく“美菜”を見ながら、涙声で何度も頷いた。
その日、ふたりは深い狂気の淵で、ゆっくりと結ばれていった。
本当の名前も、素顔も、すべてを捨てて――ただ、互いの妄想だけを愛し合いながら。




