Episode206
瀬良が旅館へ戻ると、館内はすっかり静まり返っていた。時間も遅くなり、宿泊客たちはそれぞれ部屋でくつろいでいるのだろう。廊下を歩きながら、彼はスマホをポケットにしまい、軽く息を吐いた。
(……さて、どうするか)
さっきの田鶴屋の電話も気になるが、まずは美菜と話をしなければならない。美菜が伊月をどう思っているか、それを知ることが先決だ。
フロントに寄り、ロビーに美菜を呼び出すと、彼女は少し驚いたような顔をしてやってきた。
「瀬良くん……」
美菜の表情はどこか疲れたようで、少し影が差していた。
「……大丈夫か?」
「うん。でも……ちょっと驚いたというか、疲れたかも」
瀬良は彼女の隣に腰を下ろし、そっと視線を向ける。
「何があった?」
美菜は一瞬ためらうように目を伏せたが、やがて小さく息を整え、ぽつりぽつりと語り出した。
「伊月さん……たまたまここに泊まる事になったみたいで、丁度鉢合わせちゃって……そこの喫茶店で話す事になったんだけどね、なんだか前みたいに……なんて言うか、怖い感じになっちゃて……。そこを田鶴屋さんに助けてもらったの。」
「……伊月、ここまで来てんのかよ」
「……うん」
「というか、前みたいに?」
「そう……優しくて、でもどこか怖い感じ。今の伊月さんは変わってくれたはずなのに、違和感があるっていうか……」
美菜の声には微かな震えが混じっていた。
瀬良は美菜がまだどこか伊月に肩入れしているのを感じながら考える。
(伊月が変わってくれたってまだ美菜は思ってるのか……)
「それで……何を言われた?」
「……お友達になれるって言ったのは私なのに、って話とかかな?……ごめん、たくさん言われたんだけど、なんか疲れちゃってあんまり思い出せないや」
瀬良は静かに眉を寄せる。
伊月はまだ美菜に好意を抱いていて、かなり狂気的に根強く執着している。
伊月が美菜の行動を把握していたことは間違いない。
そして、その情報をどこから得たのかを考えると、瀬良の疑念はますます確信に近づいていく。
詩音、星乃——伊月に近い存在たち。
彼女たちがどこまで関与しているのか、まだはっきりとは分からないが……
「……はぁ」
瀬良は大きくため息をついた。
「瀬良くん……?」
美菜が不安そうに顔を覗き込んでくる。その表情を見た瞬間、瀬良は思い直した。
今ここで、詩音や星乃のことまで話したらどうなる?
美菜はさらに動揺し、旅館での時間を心から楽しめなくなるかもしれない。
(……余計な心配を増やしてどうする)
瀬良は頭の中で結論を出し、いつものように淡々と口を開く。
「……気にすんな」
「え?」
「伊月が何を考えていようと、今の美菜には関係ねぇよ」
「でも……」
「大丈夫だ。美菜が心配するような事にはならないよ」
言葉を選びながら、できるだけ安心させる方向へと持っていく。
「……うん」
美菜はまだ完全に納得したわけではなさそうだったが、少しだけ表情が和らいだ。
その時、ふと穏やかな声が二人にかけられた。
「お客様、お話中失礼致します。良かったら貸切風呂が今なら空いてはるんやけど、いかがですか?」
振り向くと、そこには旅館の女将が柔らかい笑顔で立っていた。
「……え?」
突然の申し出に、美菜は思わず戸惑う。
「いやね、こんな事言うのもあれやねんけど、今日うち暇なんよ」
女将はくすくすと笑いながら、続ける。
「二人、恋人同士やろ? せっかくうち泊まりに来たなら、温泉ゆっくり楽しむのもええんやないやろか思ってな。あ、サービスやから皆には内緒やけどな?」
美菜は一瞬驚いたように目を瞬かせた。
(……貸切の温泉)
思いがけない提案に、心が少しだけ軽くなるのを感じた。
さっきまで張り詰めていた気持ちが、女将の優しい言葉によってほぐれていく。
美菜の表情がわずかに明るくなったのを見て、瀬良が短く言った。
「……では、お言葉に甘えてお願いします」
「ほな、鶴の間っていうここの突き当たりの部屋やから、1時間程楽しんでください。鍵はフロントにおりますんで返しに来てな」
「ありがとうございます!」
美菜はぱっと顔を上げ、瀬良を見た。
「行こっか、瀬良くん」
「ああ」
鍵を受け取り、二人は貸切風呂へと向かう。
廊下を歩きながら、美菜はふと感じた。
——せっかくの旅行が壊れてしまうのではないか。
伊月の登場で、そんな不安が心の奥に巣食っていた。けれど、瀬良が余計なことを言わず、ただそばにいてくれることが安心に繋がっていた。
(今は……これでいいのかもしれない)
手の中の鍵を握りしめながら、美菜は少しだけ肩の力を抜いた。
***
旅館の廊下はしんと静まり返り、足音だけが響く。所々に置かれた間接照明が柔らかな灯りを落とし、温泉宿ならではの落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
美菜は手の中の鍵をぎゅっと握りしめながら、ちらりと隣を歩く瀬良を見る。彼は変わらず落ち着いた様子で、特に何かを考えているようには見えなかった。
(……なんか、瀬良くんの方が大人みたい)
さっきまでの不安を思い出しそうになったが、すぐに気を取り直した。今はせっかくの温泉。せめてこの時間くらいは、ゆっくり楽しみたい。
「……ここか」
瀬良が足を止め、扉の前で鍵をかざす。
“鶴の間”と書かれた木の札がかかった扉を開けると、ふわりと湯気の匂いが漂ってきた。
中に入ると、思った以上に広々とした空間が広がっていた。
脱衣所は清潔感があり、籠やタオルが綺麗に並べられている。奥の扉を開くと、そこには静かに湯気が立ち上る露天風呂があった。
「……すごい」
思わず美菜が感嘆の声を漏らす。
木々に囲まれた露天風呂は、まるで自然の中に溶け込んでいるようだった。湯の表面にはかすかに月の光が揺れ、辺りには虫の声が微かに響いている。
(なんか、すごく贅沢……)
こんなに素敵な温泉を貸切で使えるなんて、まるで夢みたいだった。
「……どうする?」
瀬良が問いかける。
「え?」
「入るんだろ?」
「あ、う、うん! じゃあ……先に入ってていいよ」
少し慌てながら美菜が答えると、瀬良は小さく頷いて、無駄な言葉を発することなく服を脱ぎ始めた。
瀬良は自分の浴衣の帯を解きながら、ちらりと美菜の姿を盗み見る。淡い色合いの浴衣に包まれた彼女の姿は、普段よりもどこか艶やかで、照明の柔らかい灯りが彼女の肌を優しく照らしていた。
「……そんなに見ないでよ」
美菜が頬を染めながら視線を逸らすが、瀬良は口元に僅かに笑みを浮かべたままだ。
「いや、だって……可愛いし」
「ほんと?」
「……ああ、浴衣姿も似合うけど、なんか……色っぽい」
率直な言葉に美菜は恥ずかしそうに浴衣の裾を握りしめる。瀬良はそんな彼女の反応を楽しむように、ゆっくりと近づいた。
「それに……」
彼の指が美菜の浴衣の帯に触れる。くるりと巻かれた帯をゆっくりと解いていくと、ふわりと生地が緩み、美菜の華奢な肩が僅かに露わになった。
「ちょ、瀬良くん……」
「何?」
瀬良は低く囁きながら、美菜の髪にそっと触れる。まだほのかに石鹸の香りが漂ってきて、その甘い香りに心を奪われそうになる。
「ん〜……もう、早く入ろっ!」
耐えきれなくなった美菜は顔を真っ赤にしてするりと瀬良から抜け出すとテキパキと浴衣を脱いでタオルを持って先に入っていく。
それを見て瀬良はくすりと笑うと自分も浴衣を脱いで露天風呂へと向かった。
***
湯気がふんわりと立ち上る湯船に足を浸けると、じんわりと温かさが全身に染み渡る。
「……ふぅ、気持ちいい」
美菜は肩までお湯に浸かり、ほっとしたように目を閉じた。瀬良も隣に腰を下ろし、美菜の横顔を静かに見つめる。頬がわずかに上気して、湯気の中でほんのりと紅を差した肌がやけに色っぽい。
「……なに?」
美菜が視線を感じて目を開けると、瀬良は薄く笑った。
「いや……お前、ほんと可愛いなって思って」
「……もうっ!また言ってる!!……そんなに言われたら、恥ずかしいよ」
美菜が頬を膨らませると、瀬良はその反応を楽しむように少し身を乗り出した。そして、不意に美菜の肩に手を伸ばし、そっと引き寄せる。
「……瀬良くん?」
「美菜さ、女子風呂での話、覚えてる?」
「えっ……?」
瀬良の声が、妙に低く、甘く響く。美菜は一瞬何のことかわからずに目を瞬かせたが、次の瞬間、夕方の出来事を思い出して顔を赤くした。
「ちょ、まさか……聞こえてたの?」
「うん、聞こえてた」
瀬良はくすっと笑いながら、美菜の肩から鎖骨へと視線を滑らせた。
「大きいとか、柔らかいとか……色々言われてたよな」
「~~っ!!」
美菜は思わずお湯に沈みそうになりながら、必死に視線を逸らそうとした。しかし、瀬良は逃がさず、そっと彼女の腕を取る。
「……で、実際どうなのか、確かめてみたいんだけど」
「ちょ、ちょっと瀬良くん!?」
驚く美菜を余所に、瀬良の指がそっと彼女の胸元に触れる。湯の中でふわりと揺れる感触に、瀬良は微かに目を細めた。
「……ん、やっぱり噂通りだな」
「~~っ!?」
美菜は顔を真っ赤にしながら、瀬良の肩を押そうとするが、湯の中では思うように力が入らない。
「瀬良くんのバカ……!」
「はは、ごめん。でも、こういうのって恋人だから許される特権じゃない?」
「も、もうっ……!」
「あー……やっぱり他の奴も聞いてたのが許せねぇ……」
「他の人も聞いてたの!?」
驚いて思わず大きな声が出てしまう。
とんでもない失態を美菜はしてしまったかもしれないと恥ずかしくなる。
「……手にフィットする感じがたまんないよな」
「ッ〜!!!もう!!新羅!!!」
瀬良の手を振り払おうとするが、彼は悪戯っぽく微笑みながら、美菜の額にそっと唇を寄せる。
「恥ずかしがる美菜も、可愛い」
「……っ!」
甘く囁かれ、美菜の心臓はドキドキと早鐘を打つ。瀬良の手はゆっくりと離れたが、触れられた感触はいつまでも彼女の中に残っていた。
「……意地悪」
「悪い。でも、こういうのも温泉の醍醐味だろ?」
瀬良は湯船にもたれながら、満足そうに微笑んだ。美菜はまだ頬を染めたまま、それでもどこか嬉しそうに彼の肩にそっと寄りかかる。
「……今日は特別だから、許してあげる」
「……ありがとう」
瀬良は静かに美菜の髪に触れ、その温もりを確かめるように撫でた。静かな温泉に響くのは、二人の心臓の鼓動と、穏やかな湯の音だけだった。




