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Episode205



――時は少し遡る。


瀬良は旅館の廊下を歩いていた。詩音から「皐月を部屋に運んで欲しい」と頼まれ、向かっていたところだった。


だがその途中、背後からふわりとした温もりが密着する。


「……っ?」


肩口に柔らかいものが押し当てられ、背中に細い腕が絡みついた。


「瀬良先輩……」


甘ったるい声が耳元をくすぐる。


「……お前、何が目的なの?」


瀬良はわずかに眉をひそめ、ため息をつきながら足を止めた。


背中にしがみついている相手は、詩音。


「ねえ、少しだけ、このままでいさせてくれませんか?」


「いや、無理」


瀬良は淡々とした口調で答えると、詩音の腕をあっさりとほどいた。


「えー……冷たいなあ」


「東谷、ここじゃ誰かに聞かれるのも面倒だから、外出るか」


「え?」


「お前が何を考えてるのか、ちょうどいい機会だ。はっきり聞かせてもらう」


そう言うと、瀬良は詩音の手を掴み、そのまま旅館の外へと足を進めた。



***



外は冷たい夜風が吹き抜けていた。旅館の灯りがぼんやりと庭を照らし、池の水面に月が揺れる。


瀬良は詩音の手を離し、腕を組んで彼女を見下ろした。


「さて、ここなら邪魔も入らない。話してもらおうか」


「……何のことです?」


詩音はとぼけたように微笑む。


「お前さ、俺に気があるふりしてるけど、本当は違うよな?」


「……!」


詩音の表情が一瞬だけ強張る。


「……何を言ってるんですか? 私は本当に瀬良先輩のこと……」


「そのわりには、お前の目は全然俺を見てない」


瀬良の言葉に、詩音は息をのんだ。


「お前が俺を諦めきれないって言うなら、それなりの覚悟と感情の強さがあるはず。でも、お前はそれを見せるどころか、何かを確かめるような目をしてる」


「……」


「お前のそれは“探り”だろ?」


詩音は一瞬だけ言葉を失った。


「俺に色仕掛けすればなんとかなると思ってるかもしれないが、悪いな、そういうのは通用しない」


「……ふうん」


詩音は小さく息を吐き、ふっと微笑んだ。


「じゃあ、試してもいいですか?」


「試す?」


「そう……私が本気かどうか」


詩音はゆっくりと瀬良の胸元に手を伸ばし、指先で浴衣の襟元をつまむ。


「ねえ、瀬良先輩。私のこと、ちょっとでも女として意識したこと、ないんですか?」


「ないな」


瀬良は即答した。


「嘘ばっかり」


詩音はくすっと笑い、さらに体を寄せる。


「ねえ、瀬良先輩って、美菜先輩と付き合ってるんですよね」


「そうだが?」


「でも、男の人って、やっぱり刺激がほしくなる時もありますよね?」


詩音の指先が瀬良の腕をなぞる。彼女は一歩近づき、顔を上げた。


「ねえ、私なら、もっと楽しいこと……してあげられますよ?」


瀬良は無言で詩音を見下ろした。


「美菜先輩は、きっとこういうの得意じゃないでしょ?」


囁くような声。詩音の唇が、ほんの少し近づいてくる。


だが――


「……そろそろやめとけよ」


瀬良は冷静に詩音の肩を掴み、軽く押し戻した。


「っ……」


「お前、本気で俺を落とす気があるなら、もう少し真剣な目をするはずだ」


詩音の表情がわずかに揺れる。


「お前の目は……まるで誰かに命令されて動いてるみたいだな」


「……」


詩音は息をのんだ。


「俺を落とすことで、何を得るつもりだ?」


「……そんなの、瀬良先輩が考えることじゃないですよ」


「答えになってないな」


瀬良の目が鋭く細められる。


「お前が俺にこんな事してくる理由、それが“お前自身の意思”じゃないことくらい、俺にもわかる」


詩音はしばらく沈黙した後、ふっと笑った。


「……本当に鋭いですよね」


その声は、先ほどまでの甘えたものとは違い、どこか冷めた響きを帯びていた。


「まあ、どうせ色仕掛けは無理だろうなって思ってましたし」


「なら、なんでやった?」


「確認ですよ。……私の仕事の一環みたいなものです」


詩音は意味深に微笑む。


「仕事?」


「さあ、何のことでしょうね?」


詩音は目を細めて瀬良を見上げる。


「でも、瀬良先輩も大変ですね。美菜先輩のことで、これからもっと色々とあるかもしれませんよ?」


「……脅しか?」


「いえいえ、ただの忠告です」


詩音はにこっと微笑んだ。


「さて、私も戻りますね。瀬良先輩も、あんまり深く考えないほうがいいですよ」


その言葉を最後に、詩音は旅館の中へと戻っていった。


瀬良はしばらくその背中を見送る。


「……伊月、か」


詩音が絶対に名前を出さなかった相手。それが誰なのか、瀬良はすでに察していた。



***



瀬良はスマホの画面を見つめながら、思考を巡らせていた。


(……もし詩音が伊月と繋がっていたとしたら?)


それは単なる憶測かもしれない。だが、ここ最近の詩音の行動を振り返ると、違和感が次々と浮かび上がる。


詩音はなぜここまで自分に執着するのか。

単なる好奇心や個人的な興味の範疇を超えている。まるで最初から自分に近づくことが目的だったかのような――そんな不自然さがある。


そして、もし本当に詩音が伊月と繋がっているなら、いつからなのか。

詩音が入社したのは、瀬良と伊月が決定的に揉めた少し後のことだ。偶然のようにも見えるが、果たして本当にそうだろうか。


(……そもそも、詩音の途中入社すら伊月の指示だったとしたら?)


考えれば考えるほど、点と点が繋がり始める。


伊月は、こちらの行動をまるで把握しているかのようなタイミングで現れる。

美菜が困っているとき、大会のとき、そして今日の京都――どれも偶然にしては出来すぎている。


もしも、伊月が詩音をサロンに送り込んでいたとしたら?

それなら、詩音の不自然なまでの接触や、瀬良へのアプローチの理由が説明できる。

最初からターゲットとして狙っていたからこそ、ああも躊躇なく踏み込んでくるのではないか?


瀬良は眉間に皺を寄せ、スマホを握りしめる。


(もっと前……詩音が入社する前からだとすると……)


伊月と揉めた後、詩音が入社する前。

この期間に伊月と関わりを持っていた誰かがいるとすれば?


その人物すら、伊月の計画に関与している可能性が高い。

美菜に執着する伊月が、一人でここまでの動きを取るとは考えにくい。

誰か協力者がいて、情報を流していたと考える方が筋が通る。


――そして、その協力者の顔が、瀬良の脳裏に浮かんだ。


「……どんだけ伊月は美菜に執着してんだよ」


瀬良は深いため息をつき、スマホの連絡帳をスクロールする。


指が止まったのは、“伊月海星”の名前ではなく——


“星乃朱里”


少し迷ったが、結局覚悟を決めて発信ボタンを押した。


コール音が数回響いた後、少し気怠げな声が応じる。


『あら、久しぶり』


「……お疲れ様です。お久しぶりです、星乃さん。今、大丈夫ですか?」


『ええ、大丈夫よ……珍しいわね』


「ちょっと気になることがあったので」


『へぇ、そう。何かしら?』


瀬良は余計な前置きを省き、単刀直入に聞いた。


「星乃さんって、伊月と関係ありますか?」


『…………今更何かと思えば、そんなこと?』


どこか小馬鹿にしたような口調に、瀬良は内心苛立つが、ここで感情的になるのは得策ではない。


「星乃さんたちが、伊月海星から何か指示を受けて動いたこと、ありますよね?」


『さあ? どうだったかしら?』


「……伊月との関係は、否定しないんですね」


星乃ははっきり「関係ない」とは言わなかった。


(やっぱりな……)


瀬良が確信を持ちかけたその時、星乃の声が僅かに低くなった。


『……どーでもいいのよ。もうあなたたちのことも、伊月さんのことも。私は私なりの生活があるから、もう関わらないでちょうだい』


「いや、俺らも関わりたくて関わってるわけじゃないんで」


『……瀬良くんって、短気ね』


互いに嫌味を言い合いそうになったところで、星乃が話を戻す。


『まあ、あなたが考えて私に連絡したこと、あながち間違いじゃないんじゃない?』


「証拠が欲しいです。詳しく話してください」


『ふふふっ、嫌よ。自分でどうにかしたら?』


「……津田さんに言ってもいいんですか?」


その瞬間、電話の向こうの空気が変わった。


『……私を脅すの?』


わずかに怒気を含んだ声。


瀬良はあくまで当てずっぽうで津田の名前を出したが、どうやら正解だったらしい。むしろ、予想以上に手応えがあった。


『……明後日の仕事終わりなら話してもいいわよ』


「ありがとうございます。じゃあ、駅前のカフェに来てください」


『分かったわ』


どこか不満げな声を残して、星乃は電話を切った。


瀬良はため息をつきながら頭を抱える。


(……あんまりごちゃごちゃした話にならなきゃいいけど……)


自分の疑念が確信に変わりつつある。

もしこの仮説が正しければ、美菜を巡るこの状況は想像以上に根深いものになっている。


そんなことを考えていると、突然スマホが震えた。


画面を見ると、「田鶴屋店長」の名前が表示されている。


「……ん?」


嫌な予感がした。


通話ボタンを押すと、明るい声が響く。


『もしもーし、ちょっとさ、今どこ?』


「……あー、今外のコンビニ辺りにいますね」


『ん? 部屋じゃないの?』


「そうです。あと少ししたら帰ります」


『うん、了解。気をつけてねー』


あっさりとしたやり取りだったが、田鶴屋がわざわざ連絡してくるということは、何かあったのかもしれない。

それが美菜絡みでなければいいが——


瀬良はそんな不安を抱えながら今日何度目か分からないため息をつき、旅館へと足を向けた。


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