Episode204
千花が買ってきたコーヒー牛乳を飲み干したことで、ぐったりしていた男性陣もようやく息を吹き返した。温泉でのぼせ、さらには余計なものまで聞いてしまったせいで、しばらく魂の抜けたような状態だったが、甘くて冷たいコーヒー牛乳が彼らの意識を現実に引き戻した。
「ふぅ〜っ、生き返ったぁ……」
田鶴屋が伸びをしながらぼそりと呟く。
皐月は無言でタオルを首にかけ直し、百合子の空になった瓶を受け取りゴミ箱に入れた。
瀬良もようやく落ち着きを取り戻し、美菜の仰いでくれていたタオルを受け取りながら、ふっと息をついた。
そして、全員が完全復活すると、自然と向かう先は旅館の食堂だった。
***
広間に足を踏み入れると、そこには旅館ならではの豪華な和食膳が並べられていた。整然と並べられたお膳の上には、色とりどりの小鉢や大皿、そして中央には大きな釜が置かれている。
「おお〜!」
まず反応したのは木嶋と千花だった。二人は目を輝かせながら、すでに食事の席に向かってソワソワしている。
「釜!!炊き込みご飯かな!?」
木嶋が指をさしながら期待に満ちた声を上げると、千花も同じく身を乗り出すようにして覗き込む。
「絶対美味しいやつですよね、これ!」
テンションが上がる二人の横で、他のメンバーも自然と笑みを浮かべながら席についた。
ちょうどそのタイミングで女将がやってきて、料理の説明を始める。
「本日のお夕食は、季節の炊き込みご飯を中心に、お造り、煮物、焼き魚などをご用意しております。お酒も各種取り揃えておりますので、お好きなものをどうぞ」
女将の説明が終わると同時に、全員がそれぞれ箸を手に取り、食事を楽しみ始めた。
***
食堂には、料理を味わう音と、賑やかな会話が混ざり合っていた。
「あー……酒うめぇ……」
田鶴屋が湯のみを片手に、しみじみとした声を漏らす。彼の前には、すでにお猪口と徳利が置かれており、盃を傾けるその姿は、どこか風格すら漂わせていた。
「ふふっ、おじさんっぽいですよ」
隣に座る詩音がくすくすと笑いながら、田鶴屋の盃にそっとお酒を注ぐ。
「ほらほら、まだ飲めるでしょ?」
「……まぁ、うまいからな」
田鶴屋は苦笑しながらも、再びお猪口を口元に運ぶ。詩音はそんな彼の様子を楽しそうに見守っていた。
一方、向かいの席では、百合子と皐月が食事のやり取りをしていた。
「皐月くん、しいたけも食べないとっ!」
百合子がにこにこと笑顔で皐月の皿にしいたけを追加する。
「…………要らない……」
皐月は顔をしかめ、露骨に箸を止める。
「えぇ〜、美味しいのに。ほら、食べなきゃ」
「……後で……」
そう言いつつも、皐月はしいたけを端に寄せてそっと視界から消そうとしていた。百合子は苦笑しながら、そんな皐月の様子を微笑ましく見つめる。
一方、瀬良と美菜はゆったりとした時間を過ごしていた。
「美菜、グラス」
瀬良が無言で手に取ったビールの瓶を傾けると、美菜は驚いたようにグラスを差し出す。
「ん? ありがとう」
瀬良が注ぎ終わると、美菜もまた瀬良のグラスにお酒を注ぐ。二人は視線を交わしながら、静かにグラスを傾けた。
美菜はふっと微笑み、瀬良もまた、小さく微笑み返す。
温泉旅館の夜は、こうして穏やかに、そして楽しく更けていった。
***
食事も終盤に差し掛かり、各々がゆったりと酒を楽しんでいた。
釜で炊かれた炊き込みご飯も綺麗になくなり、皿の上には食べ終えた料理の名残がちらほらと残っている。
酒の瓶は何本かが空になり、杯を重ねる音が心地よく響く中で、宴もそろそろお開きの雰囲気を醸し出していた。
しかし、その中でひとり、異変を起こし始めた人物がいた。
「……ん」
ふらり、と立ち上がる影。
「……皐月くん?」
百合子が眉をひそめ、心配そうに声をかける。
そこにいたのは、頬を赤らめ、ぼんやりと微笑む皐月だった。
「ん……ふふ……」
どこか夢見心地なその表情に、全員の背筋が嫌な予感とともにゾクッとした。
「ちょっ……おい皐月、お前……まさか……!!」
田鶴屋がハッと気づき、慌てたように立ち上がる。
「誰だ!? 皐月に酒飲ませたやつは!!?」
田鶴屋の叫びが響くが、もう手遅れだった。
皐月のターゲットになったのは——田鶴屋自身。
「……ん、田鶴屋さん……」
酔った皐月は田鶴屋の袖をつかみ、じりじりと距離を詰める。
「お、おい、待て、話せば分かる!! お前、落ち着けって!!……てか、お前力強いな!!?」
「ふふ……田鶴屋さぁん……」
そのまま、皐月は田鶴屋の顔をぐっと引き寄せ——
「んっ……」
唇を重ねた。
「……っっっっっ!!!!!!」
田鶴屋が硬直し、全身が震える。
「あーー……田鶴屋さん、ご愁傷さまです……」
木嶋はそっと田鶴屋に手を合わせ尊い犠牲を惜しむ。
「田鶴屋さん、大丈夫ですか!? しっかりしてください!!」
千花が田鶴屋の肩を揺さぶるが、彼は虚ろな目をしたまま動かない。
「……お、おやすみなさ……い……」
皐月がゆらりと体を揺らしながら、その場にバタリと倒れ込む。
ふらふらと立ち上がった田鶴屋は、空いた徳利を手にしながら、遠い目で呟いた。
「……風呂、もう一回入ってくる……じゃないと浄化されねぇ……」
「おつかれさまでした……」
美菜がそっと頭を下げ、田鶴屋はそのまま食堂をあとにした。
***
宴が終わり、各自が部屋へと戻る中、美菜もそろそろ部屋に帰ろうと立ち上がった。
(ふぅ……なんか色々あったなぁ)
少し疲れたように呟きながら襖を開けようとしたそのとき——
「美菜」
低く落ち着いた声が背後から響く。
「……瀬良くん?」
振り返ると、瀬良がすぐ後ろに立っていた。片手をポケットに突っ込み、もう片方の手で空いたグラスを持っている。
「ちょっと付き合え」
そう言うと、何も聞かずに美菜の手を軽く引いた。
「え、どこ行くの?」
「散歩。……酔い、冷ましたいだろ」
瀬良の手はいつもよりほんの少し熱を持っていて、彼自身も酔いが残っているのだろうと思わせる。それでも、その手を振り払う理由はなかった。
「……うん」
美菜は小さく頷き、瀬良のあとについて廊下を進んだ。
***
中庭に出ると、夜の空気がひんやりと肌を撫でた。星の光が優しく降り注ぎ、静かな旅館の庭に柔らかな灯りがともる。池には月が映り込み、水面がわずかに揺れている。
「……気持ちいいね」
美菜は大きく息を吸い込みながら、ゆっくりと歩き出す。瀬良も隣を並んで歩き、ふと空を見上げた。
「風呂でのぼせたし、ちょうどいい」
「確かに。お酒も入ってたしね」
二人の足音が石畳に静かに響く。ふと、瀬良が足を止め、美菜を振り返る。
「明日、自由行動だろ」
「うん。何かしたいことある?」
「……美菜は?」
問い返され、美菜は少し考え込む。旅行の計画はある程度立てていたが、明日の自由時間については特に決めていなかった。
「んー……ゆっくりしたいかな。でも、せっかくだから観光もいいなって思うし」
「……なら」
瀬良はポケットからスマホを取り出し、何かを検索しながら言う。
「ここ、どうだ」
画面を覗き込むと、そこには風情のある古い街並みの写真が映っていた。石畳の小道に、昔ながらの茶屋や雑貨屋が並んでいる。
「素敵だね」
「近くに甘味処があるらしい。……お前、好きだろ」
「うん……好き」
美菜は思わず微笑んだ。瀬良がこうして自分の好みを考えてくれるのが、嬉しかった。
「じゃあ、明日はそこに行こうか」
「決まりだな」
瀬良は静かに微笑むと、スマホをしまい、美菜をそっと引き寄せた。
「……っ」
突然の距離の近さに、美菜の心臓が跳ねる。瀬良の手がそっと腰に添えられ、美菜はその熱を感じた。
「今、ちょっと酔ってるから……」
「ん?」
「……お前が可愛く見える」
低く囁かれた言葉に、心臓がさらに速くなる。
「な……何それ……酔ってなくても可愛く見えてるでしょ?」
美菜が少し意地悪そうに言うと、瀬良は目を細めてふっと笑った。
「……まぁな」
そのまま、美菜の頬にそっと唇を寄せる。
「っ……!」
不意打ちのキスに、美菜の頬が一気に熱を帯びる。瀬良はゆっくりと顔を上げ、美菜の瞳を覗き込んだ。
「……もう少し、ここにいるか」
「……うん」
二人は月夜の下、しばらく静かに寄り添いながら、ゆっくりと夜風を感じていた。
***
「あ、ここにいた!瀬良先輩!」
軽やかな声が背後から響く。振り返ると、詩音が両手を軽く広げながら近づいてきた。
「瀬良先輩も酔った皐月くん、部屋に運ぶの手伝ってあげてくださいー!」
その言葉に、美菜の隣にいた瀬良が一瞬だけ小さくため息をつく。美菜の方をちらりと見て、少し未練がましそうに口角を上げた。
「……わかった」
「ありがとうございます、瀬良先輩!」
詩音に肩をぽんと押されながら、瀬良は静かにその場を後にする。
「……あ、私ちょっと飲み物買ってから上がるね」
「はーい!」
美菜はそう言い残し、ロビーへと足を運んだ。自販機の明かりを目指しながら受付前を通ると、そこで信じられない人影を目にする。
「……い、伊月さん……?」
その人物は、ラフなシャツにスラックス姿、メガネをかけた格好でソファに腰掛けていた。場違いとも思える無防備なその姿は、誰よりも印象的だった。
「……美菜ちゃん!?」
驚いたように目を丸くする伊月。しかし次の瞬間、彼はふっと表情を緩め、微笑んだ。
「こんな偶然、あるんだね。まさか君にまた会えるなんて」
その笑顔が、どこか不気味だった。
「なんで伊月さんがここに……?」
「うん、聞いてよ。元々スタッフがホテル用意してくれてたんだけど、主演の子のファンが押しかけちゃってさ、もう現場がパニック。だから演者はみんなバラバラに旅館とかホテルに分散して泊まることになったんだ。で、僕はここに連れて来られたってわけ」
「……なるほど」
「本当は焦ってたんだけど、今はちょっとラッキーって思っちゃってる。君に会えたからね」
美菜は笑顔の奥に潜む異質な“何か”に、胸の奥を締めつけられるような違和感を覚えていた。
(……偶然……なんだよね?)
都内には数多くの旅館やホテルがある。それなのに、よりによってこのタイミングで、この場所で再会するだろうか。冷静に考えるほど、偶然としてはあまりに出来すぎている。
「部屋、まだ準備中なんだ。よかったら、少しだけお茶でもどう?」
「えっ……あ、ちょ……」
言い終わる前に手首を掴まれ、力強く引かれる。そのまま旅館内の喫茶スペースへと連れて行かれる美菜。拒む余地などなく、流されるように席に着かされてしまった。
伊月は店員にコーヒーを二つ注文し、にこにこと穏やかな笑みを浮かべていた。
「浴衣姿の美菜ちゃん、すごく似合ってるね。可愛いよ」
「……いえ……」
素直にありがとうと返すこともできず、美菜は視線を落とした。伊月のことが怖いわけではない。ただ、今この瞬間、瀬良の顔が何度も頭に浮かんでしまい、居心地の悪さが胸を塞ぐ。
(……ちゃんと、言わないと)
覚悟を決め、美菜は口を開いた。
「あの……伊月さん……」
「ん?」
「こんな言い方で申し訳ないんですけど……私、瀬良くんとお付き合いしてるので……こうやって二人きりで会うのは、なるべく控えたいなって……。瀬良くんに、心配かけたくないので……」
言い終わった瞬間、空気が凍った。美菜の言葉を受けた伊月は、まるで時間が止まったかのように瞬きもせず、美菜を見つめたままだった。
「……瀬良くん、ね」
低く、押し殺した声が返ってくる。
「……へえ……そうなんだ。君は瀬良くんと付き合っているんだもんね。ふぅん……」
伊月の目が見開かれたまま、細かく震えている。その笑顔は引き攣っていて、どこか狂気を孕んだ光を帯びていた。
「別に僕が美菜ちゃんを取って食ったりはしないさ。そんなふうに警戒される筋合いないと思うんだけどな」
伊月は、ふっと笑いながらも目だけが笑っていなかった。美菜はじわりと背筋に冷たいものを感じる。
「君への気持ちは……もうないって、自分でも思ってる。だけどさ、美菜ちゃん。“友達にならなれる”って言ったの、美菜ちゃんだよね?」
そう言って、テーブルの上に置かれた美菜の手のすぐそばに、自分の指先をそっと近づけてくる。
「それって、嘘だったのかな?」
「……いえ、嘘じゃ……」
「だよね。嘘なんて、言わないよね?美菜ちゃんは優しい子だもん。そういうの、信じてたんだけどな」
伊月の言葉は、まるで優しさを装った鎖のように、美菜の逃げ道をひとつずつ奪っていく。否定しても肯定しても、どちらにも罠が張り巡らされているようだった。
「僕ね、さっきロビーで偶然美菜ちゃんを見つけたとき、すごく嬉しかったんだ。“ああ、運命ってあるんだな”って、そう思った。だってさ、こんな偶然、普通じゃないよね?」
(運命……?)
美菜は息を呑んだ。伊月の視線が鋭くなるのを感じる。まるで心の奥まで覗き込まれているようだった。
「でも、その美菜ちゃんが、瀬良くんが心配するからって、僕を避けようとするんだね」
声はあくまで柔らかいのに、言葉は静かに美菜を締めつけていく。
「ねぇ……それ、本当に美菜ちゃんの気持ち?」
「……えっ?」
「僕にはそうは思えないんだ。だって、美菜ちゃんはそういう人を突き放すようなこと、する子じゃないでしょ?違う?昔だって、僕がどれだけ不安定でも、美菜ちゃんは見捨てなかったじゃない」
「それは……でも……」
「それがさ、急にもう二人では会えないって言うんだ。瀬良くんが心配するから?そんなの、美菜ちゃん自身の言葉じゃないよ。瀬良くんがそう言えって言ったの?違うよね?」
伊月の瞳が美菜の目を深く射抜く。優しさの仮面の下に、狂気めいた執着が滲んでいた。
「僕ね、美菜ちゃんが誠実でいたいって言うの、すごく素敵だと思う。でもそれって、誰に対してもじゃなかった?瀬良くんにだけ誠実で、僕には不誠実でいいってこと?」
「そ、そんなつもりじゃ……!」
「じゃあなんで?なんで僕とはこうやって二人で話すことすらダメだって言うの?僕、傷つくよ?美菜ちゃん、僕を君が言いだした友達にすらなってくれないの?……そんなに、僕のこと嫌いになった?」
「……違うっ……そうじゃ、なくて……!」
「じゃあ、どうして……?」
どこまでも優しい声で、伊月は問い詰めてくる。その言葉の一つ一つが、美菜の罪悪感を掻き立て、胸を締めつける。
(……私、なにか間違ってるのかな……?)
そんな思いが、ほんの一瞬よぎるほど、美菜は伊月のペースに呑まれかけていた。
「美菜ちゃん……僕、君に友達でいいって言われた時、本当に救われたんだよ。それなのに、そんな君に……拒絶されるなんて、考えもしなかった。……もう、僕、何を信じていいのか、分かんないや」
そう言って伊月は笑った。その笑顔は壊れかけたガラスのように危うく、美菜は本能的に恐怖を感じた。
(なんで……違う…こんな話になるなんて……。誰か……瀬良くん!助けて……!)
胸の奥でそう叫びかけたその瞬間、美菜の後ろから声がした。
「……伊月さーん、その言い方だと河北さん泣いちゃうよぉ?」
彼の声に反応して、伊月はぎこちなく振り返る。表情はすぐに穏やかな笑顔へと切り替わるが――その目だけは、まだ爛々と光を放っていた。
「………………こんばんは、田鶴屋さん」
伊月は舌打ちを飲み込み、すぐに笑顔を作る。しかしその笑顔は張り付いた仮面のようで、どこか引き攣って見えた。
「ねえ、伊月さん。河北さんが嫌がること、しないでくれる?」
「……なんのことですか?」
「ぜーんぶ聞いてたよ。その言い方、前と同じでさ、また河北さんを追い詰めようとしてたでしょ?」
田鶴屋は店員から届いた新しいコーヒーを一口飲み、美菜の隣に座る。そのまま机の下で震える美菜の手をそっと握った。
「……すみません、少し疲れていて……言い方が悪かったかもしれません。美菜ちゃん、ごめんね?」
「……いえ……」
伊月の声は穏やかだが、その裏に見え隠れする不穏さを、美菜も田鶴屋も感じ取っていた。
「ていうかさ、本当に河北さんのこと諦めたの?未練たっぷりに聞こえたけどなー?」
「……異性としては見てません。ただ、ビジネスパートナーとしてなら……」
「ふーん」
田鶴屋は残りのコーヒーを一気に飲み干し、静かに立ち上がった。そして、美菜の手を引いて言い放つ。
「…… 言質、取ったからな」
その言葉は低く、重かった。いつもとは違う、どこか冷たく鋭い響きだった。
「……………………」
伊月は何かを言いたそうだったが、何も返せなかった。ただ黙って、美菜と田鶴屋を睨むように見つめていた。
「さ、そろそろ帰るよん。河北さん、千花ちゃんが心配してたからね〜」
「あっ、はい!」
美菜は田鶴屋に手を引かれながら、早足でその場を後にした。背後からの視線が痛いほど突き刺さる。
でも今は――田鶴屋の温かい手だけが、唯一の安心だった。
***
伊月の静かな狂気から救い出されたのは、まるで水面から顔を出したような感覚だった。
階段を上がる途中も、美菜はまだ胸の鼓動がうるさくて、口数ひとつ減らしたままだった。伊月の言葉が脳裏に残響のようにこびりついている。足取りはふらついていたけれど、田鶴屋が無言でぐいぐいと手を引っ張ってくれるその温かさに、心の奥でしがみつくような安心感を抱いた。
やがて二人は、二階のフロア奥にある休憩スペースへと辿り着いた。人気のないそこは、夜の静けさに包まれていて、空調の音と自販機のモーター音だけがかすかに聞こえていた。
「……ふぅ」
田鶴屋は美菜の手をようやく離し、頭をぐるりとまわして肩を軽くほぐした。
美菜も、その場にそっと腰を下ろすと、ほっとしたように息を吐いた。緊張の糸が切れた瞬間、全身がどっと重くなったように感じる。頬に手を当てれば、まだほんのりと火照っているのがわかる。
「やっぱ伊月さん、バケモンだな〜」
と、田鶴屋が軽く笑いながら言った。肩を揺らしてケラケラと明るく笑うその声が、まるで緊張で張りつめていた空気を払ってくれるようだった。
「……はは」
美菜も小さく笑った。力の抜けた、けれど本音が滲んだ笑いだった。
田鶴屋は、自販機に小銭を入れながら、軽く振り返った。
「オレンジジュースでいい?」
「……はい。ありがとうございます」
受け取った缶は、ほんのりと冷たくて心地よかった。美菜はそのまま缶を額に押し当て、深く息を吸った。早鐘のように打っていた心臓の音が、少しずつ、静かに落ち着いていくのを感じる。
「ほんと……助かりました」
「いーえいーえ。あのまま放っておいたら、瀬良くんに怒られちゃうからねえ」
田鶴屋は、隣にどさっと腰を下ろすと、ポケットからスマホを取り出して画面を確認した。
「……ちょっと電話するね」
軽い調子で瀬良の番号をタップし、通話が繋がるとそのまま耳に当てる。
「もしもーし、ちょっとさ、今どこ?……ん?部屋じゃないの?……え、外?あー、うん、了解。気をつけてねー」
通話を切った後、田鶴屋は首を傾げながら不思議そうに呟いた。
「……なんか瀬良くん、今旅館の近くのコンビニにいるらしい」
「え……?買い出しですかね?」
「んー、かもね。でも声、なんか疲れてたなー。まだ飲む気なのかなあ……あんまり飲んでないといいけど」
そう言いながら、スマホをポケットに戻す。
「でも、瀬良くんがいなかった分、田鶴屋さんがいてくれてよかったです」
美菜が、ぽつりと口にした言葉には、ささやかな安心と、素直な感謝がにじんでいた。
「んー?まあねぇ」
田鶴屋は照れたように頬をかきながら続ける。
「てか、俺さ、風呂出てからお土産コーナーでも見ようかなーってロビー歩いてたら、伊月さんと河北さんがすっごい微妙な空気で向き合っててさ。最初マジで尋問でもされてんのかと思ったわ」
「……そう見えますよね」
美菜はぎこちなく笑いながら、指先で缶をくるくると回した。
「そりゃ止めるよ。あんな空気……もしタイミング悪かったら、マジで何言われてたか分かんないでしょ?」
田鶴屋の表情が、少し真面目なものに変わる。
「……あんま心配かけんなよ」
そう言って、美菜の頭にポンっと優しく手を置いた。
驚いたように目を見開く美菜の顔に、田鶴屋はふわっとした柔らかな笑みを向けた。
「お前が倒れでもしたら、瀬良くんが暴れるからさ。俺の店、壊されたら困るし?」
「ふふっ……はい」
ようやく、美菜の顔に穏やかな笑みが戻る。目の奥にまだ少し残る疲労は拭えないけれど、その笑顔は田鶴屋の心を少しだけ和ませた。
「部屋まで送るよ」
すっと立ち上がった田鶴屋が鼻歌まじりに歩き出す。美菜も立ち上がり、その背中に続く。
もう、美菜の手は震えていなかった。
旅館の廊下に満ちる微かな湯けむりの匂いと、田鶴屋の軽やかな足取り。そのすべてが、現実に戻ってきたという実感を、美菜に与えてくれていた。
(……瀬良くん、どこまで行っちゃってるんだろ)
ふと気になりながらも、美菜は小さく息を吐き、今夜こそしっかり眠れますようにと、心の中で静かに願った。




