Episode19
昼下がりのサロンは、いつもより落ち着いていた。
忙しい時間帯を過ぎ、スタッフたちはそれぞれの仕事をこなしながら、合間に談笑する余裕さえあった。
美菜はそんな中、スパ講習に向けて練習をしたかったのだが、肝心のモデルになってくれるアシスタントが見当たらない。
シャンプー台の周りをうろうろしながら、「誰か手伝ってくれないかな……」と密かに探していると、不意に声をかけられた。
「……何してんの?」
振り向くと、瀬良が腕を組んでこちらを見下ろしていた。
「瀬良くん!」
美菜はぱっと顔を上げ、まるで助け舟を見つけたかのように駆け寄る。
「スパの練習したくて、誰かモデルになってくれないかなって思ってたんだけど……誰も手が空いてなくて」
「あー……なるほどな」
瀬良は軽く顎に手を添え、ちらりとサロン内を見渡した。
確かに、他のアシスタントたちはそれぞれ別の仕事をしていて、簡単に抜けられそうな人はいない。
「瀬良くん、休憩中?」
「ああ」
「じゃあ、モデルやってくれない?」
瀬良は一瞬、考えるように目を細めたが、すぐにため息混じりに肩をすくめた。
「……仕方ねぇな。ちゃんと上手くやれよ」
「ありがとう!」
美菜は嬉しそうにシャンプー台へと瀬良を誘導し、早速準備に取り掛かった。
***
瀬良がシャンプー台に横になり、美菜が温かいお湯を流し始める。
「……気持ちいい?」
「まあな」
静かに流れる水の音と、頭皮をほぐす美菜の指先の動きに、瀬良はふっと息を抜く。
「力加減、大丈夫?」
「ああ……河北さん、結構うまいんだな」
「ふふ、でしょ? スパの技術は自信あるの」
美菜は誇らしげに微笑む。
瀬良は目を閉じながら、美菜の手の動きを感じていた。
絶妙な力加減で指が滑るたびに、心地よさに身体が緩んでいく。
「店長に習ったのか?」
「え?」
「スパ、田鶴屋さんに教えてもらった?」
「えっと……違うよ。最初は先輩たちに教えてもらったけど、自分でも勉強して、色んな技術を試してきたんだ」
「……そっか」
瀬良は少し黙った。
(……なんで俺、店長のこと気にしてんだろ)
美菜がスパを得意なのは知っていたし、店長に直接教わったわけではないのなら、何も気にすることはない。
なのに、何かが引っかかる。
(……やっぱり付き合ってんのか?)
自分で「知られたくないことがあるなら話さなくていい」と言ったばかりなのに。
どうしても聞きたくなる。
――美菜と、田鶴屋の関係を。
「瀬良くん?」
「……」
黙り込む瀬良を見て、美菜は首を傾げる。
「なんか考え事してない?」
「……別に」
「また? 最近ずっと難しい顔してるよ?」
「……そっちこそ、俺に隠してることあるくせに」
「えっ?」
美菜が戸惑ったその瞬間、瀬良はシャンプー台から起き上がり、ぽつりとつぶやいた。
「……あんまり店長と仲良くすんなよ」
「え?」
美菜は目を丸くした。
(店長と仲良く……?)
何を言われたのかわからずにいると、不意に弾むような声が後ろから飛んできた。
「えー、先輩、嫉妬ですか?」
「!?」
驚いて振り向くと、そこにはアシスタントの伊賀上千花が立っていた。
「ち、千花ちゃん!?」
「だって、瀬良先輩、今『店長と仲良くすんな』って言いましたよね?」
「……っ」
瀬良がわずかに顔をしかめる。
千花はそんな様子を見て、にやっと笑った。
「美菜先輩のこと、気になっちゃってるんじゃないですか?」
「は?」
瀬良の表情が、一瞬固まる。
「ち、違っ……!! 瀬良くんがやきもちなんて、おかしいでしょ!? それに、やきもち焼く意味がわからないし!」
美菜は顔を真っ赤にしながら、慌てて千花を止めようとする。
だが、千花は腕を組みながら、どこか満足げに頷いた。
「ふーん。でも、瀬良先輩って、あんまりそういうの気にしなさそうなのに……美菜先輩のことは特別なんですね」
「だから、違うっての」
瀬良が少しムスッとしながら立ち上がる。
美菜は焦って首を振るが、千花はクスクスと笑いながら「私は応援してますね」と言い、軽やかにその場を去っていった。
(……え、えええ!?)
美菜は真っ赤になった顔を手で覆いながら、千花の言葉を思い出していた。
「瀬良くんがやきもちなんて、おかしいでしょ!」
そう言ったけれど……
(……本当に、そうなの?)
ちらりと瀬良を見ると、瀬良は気まずそうに視線を逸らしていた。
「……なんか、ごめん」
「え?」
「変なこと言った」
「……ううん」
言いながらも、美菜は自分の胸がどこかざわつくのを感じていた。
それが何の感情なのか、まだはっきりとはわからなかったけれど。




