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Episode196



斯波の来店から数日後、美菜のスマホに新着メールの通知が届いた。


小休憩の合間、ロッカールームで水を飲みながら何気なくスマホを手に取る。画面をスワイプすると、送信者の名前に「斯波」が表示されていた。


(あ、斯波さん……)


件名には「先日の写真をお送りします」とある。開いてみると、添付ファイルがいくつかあり、そこには撮影された写真がまとめられていた。


(なんかやっぱりプロに撮ってもらう写真って全然違うなぁ……)


美菜は思わず感心しながら、写真を指でスワイプしていく。映る自分の姿は、普段の自撮りや他人に撮ってもらうものとは明らかに違っていた。光の加減や角度、表情の引き出し方——どれを取ってもプロの技術が感じられる。


(うわぁ……こんな風に見えるんだ、私……)


照れくささと嬉しさが入り混じる中、次の写真に指を滑らせる。そこには伊月とのツーショットが映し出された。


美菜と伊月が並んで微笑んでいる。少し顔を寄せて、伊月が穏やかな表情で美菜の肩に手を添えているカットもある。撮影時はあまり意識していなかったが、こうして改めて見ると、どこか親密さを感じる構図だった。


(……んー、なんか…かなり仲良さげに見えちゃうかも)


そう思いながらさらにスワイプしていたその時——


「美菜先輩ニヤついてるー!何見てるんですかー?」


突然、背後から明るい声が響いた。


「えっ……?」


振り返ると、そこには詩音が立っていた。お昼休憩に入ったのだろう、手には自作のお弁当を持っている。


「詩音ちゃん……」


「…………あ」


詩音が美菜の手元の画面に視線を落とし、次の瞬間、ピタリと動きを止めた。


わずかに空気が張り詰める。


詩音の表情は、柔らかい笑顔のままだったが、美菜の肩にそっと置かれた手に、ほんの少し力がこもるのを感じた。


(……詩音ちゃんって、伊月さんのファンだったよね)


美菜の脳裏に、その事実がよぎる。


ファンの立場からすれば、応援している芸能人が一般人の自分と親しげな写真を撮っているのは、決して気分の良いものではないだろう。ましてや、美菜は何の関係もない一般の美容師だ。


「伊月さん……と、写真撮ったんですね!」


詩音はふわりと笑い、美菜の肩から手を離すと、お弁当を持ち直しながらレンジへと向かった。


「いいなぁ〜!羨ましいです!」


屈託のない声色だったが、美菜にはどこか引っかかるものがあった。


「この間のメイクの件の時にね……」


気を遣いながら美菜は言葉を選ぶ。


レンジのスイッチが押され、低い駆動音が響く。


美菜は詩音の背中を見つめたまま、その表情が見えないことに小さな不安を覚えた。


「……美菜先輩って、瀬良先輩と付き合ってるんですもんね?」


詩音の言葉に、美菜は一瞬肩をこわばらせる。


「あ……うん……そうだよ」


「……へぇ」


詩音は振り返り、にっこりと微笑んだ。


「なのに、他の男と仲良く写真撮ってるの許してるなんて、随分瀬良先輩は心が広いんですね!」


「詩音ちゃん……」


詩音の声は、どこか意地の悪い響きを持っていた。


「私なら、あんな写真……やだな」


「……」


「瀬良先輩、この写真知ってるんですか?」


「……いや、今届いたばっかりだから、まだ瀬良くんには見せてないというか……見せなくてもいいかなって思ってるけど……」


「へー、それって浮気みたいで後味悪くないですか?見せたら良いじゃないですか?」


「……っ」


美菜は言葉に詰まった。


詩音の言葉は、どこか鋭く、そして間違っているとも言い切れない。


実際、写真の何枚かはかなり距離が近い。改めて見れば、まるで恋人のような雰囲気すらある。


(……もし、これが逆の立場だったら?)


瀬良が、別の女性とこんな写真を撮っていたら——


美菜は、自分がその写真を見て平然としていられるかを想像した。


(……きっと、すごく嫌だ)


「……瀬良くんには、見せるよ」


そう言った瞬間、詩音の目が細くなった。


「へー、やっぱり見せれるんだ」


「……?」


「瀬良先輩、可哀想ですね」


詩音は楽しげに笑う。


「こんな写真見せられて、なんて言えばいいか分からないですよね。自分の彼女が、こんなにも笑顔で他の男とイチャついてる写真を見せられて……傷ついちゃいますよ」


美菜は何も言えなかった。


詩音がわざとらしくスマホを奪う。


「あっ……!」


「……わぁ、いい感じの写真ばっかりですね!まるで恋人の幸せそうな写真みたい!」


スワイプする詩音の指先が止まる。


その笑顔は、冷たい。


「……返して」


美菜が手を伸ばすと、詩音がひょいっとスマホを後ろに引いた。


「…………何やってんの?」


不意に、低い声が響いた。


「……瀬良くん……」


入口に立っていた瀬良が、静かに腕を組んで二人を見ていた。


どこから見ていたのか——それを考えると、美菜の胸が苦しくなった。


(瀬良くん……この写真見たら、傷つく……よね)


詩音が瀬良の前に駆け寄り、笑顔でスマホを差し出した。


「これ、美菜先輩の撮影の写真なんです!すっごく綺麗に撮れてるんですよ〜!」


「……へー」


瀬良が手を伸ばした瞬間——


「っ!!」


瀬良に写真を見せたくない——その気持ちが美菜の中で大きく膨らんでいた。


詩音が差し出すスマホを叩き落としてしまったのは、ほぼ反射的な行動だった。


「きゃっ!」


詩音の小さな悲鳴が響き、スマホが床に落ちてカツンと硬い音を立てた。


瀬良がわずかに目を細め、落ちたスマホに視線を落としている。


「……何やってんの、美菜」


低く、抑えた声だった。


美菜は反射的にスマホへと手を伸ばし、慌てて拾い上げる。


「大丈夫! 大丈夫だから! ちょっと手が当たっちゃっただけ!」


言い訳じみた言葉が咄嗟に口をつく。


瀬良が不審そうにこちらを見ているのが分かる。


「……そう」


それだけ呟くと、瀬良はそれ以上追及しなかった。


詩音は口元に手を当て、心底楽しそうに笑っている。


「びっくりしました〜! そんなにこの写真、大事だったんですね、美菜先輩?」


まるで美菜の焦りを面白がるような声音だった。


「……別に、そういうわけじゃ……」


美菜はスマホを握る手に力を込める。


何を言っても、詩音にはからかわれるだけだと分かっていた。


それに——


(私、やっぱり……やましい気持ちがあるのかな)


もし本当に何も気にしていなければ、こんなに焦ることもなかったはず。


「……まぁまぁ! こんなことで空気が悪くなるのもアレですし、私はお昼にしまーす!」


詩音が明るい声で話を変える。


「瀬良先輩も、良かったら一緒にどうですか? ちょうどご飯持ってきてるんです!」


「……いや、俺はいい」


瀬良は詩音の誘いをさらりとかわすと、美菜の方をちらりと見た。


「美菜、お前は?」


「……私、先にフロア戻るね」


俯いたまま、美菜はそそくさとその場を後にした。


後ろから詩音の笑い声が聞こえた気がした。


(……ごめんね、瀬良くん)


罪悪感が、美菜の胸の奥にじわりと広がっていった。



***



営業が再開されても、美菜は瀬良に話しかけることができなかった。


ちらりと彼の方を見るたびに、胸の奥が締めつけられるような感覚に襲われる。


(……どうしよう)


何か言わなきゃいけない気がする。


でも、何を言えばいいのか分からなかった。


瀬良は、特に気にしていないように見えた。


いつも通りクールに仕事をこなしていて、周囲に気を配りながら手際よく施術を進めている。


(瀬良くん、写真見たら嫌な思いするよね……)


美菜は仕事をしながらも、ずっとそんなことを考えてしまう。


さっきの詩音とのやり取りが頭から離れなかった。


『へー、なのに他の男と仲良く写真撮ってるの許してるなんて随分瀬良先輩は心が広いんですね!』


『瀬良先輩可哀想ですね。こんな写真見せられてなんて言えばいいか分からないですよね。』


『自分の彼女がこんなにも笑顔で他の男とイチャついてる写真見せられて、傷ついちゃいますよ』


詩音の言葉が何度も何度も蘇る。


(……今更後悔しても遅いよね)


撮影のときは、そこまで深く考えていなかった。


伊月も、前みたいに無理に距離を詰めてくるわけじゃなくなったし、ちゃんと仕事として接してくれていたから、油断していたのかもしれない。


(写真……調子に乗って撮るべきじゃなかったなぁ……)


ため息が漏れそうになり、美菜は慌ててこらえる。


こんな気持ちのままでは仕事に集中できない。


気持ちを切り替えて仕事をするべきだ。


美菜は深呼吸をして、次の入客へと向かう。


「お待たせしました。よろしくお願いします」


鏡越しに微笑み、いつもの接客を心掛ける。


お客様は美菜を信頼して指名してくれている。


どんなに気分が沈んでいても、それを見せるわけにはいかない。


(ちゃんと、やらなきゃ)


気を引き締め、美菜は目の前の仕事に集中することにした。



***



営業終了後の店内には、徐々に静けさが戻っていた。


スタッフたちは掃除を終え、それぞれ帰路につきはじめている。


いつものように、田鶴屋は受付のパソコンの前で業務をこなしていた。営業が終わってもすぐには帰らず、伝票整理やポップのデザインチェックなど、細かな作業を黙々と進めている。


その隣には瀬良が立ち、パソコンの画面を覗き込んでいた。


「このトリートメントのポップ、ここもう少し色変えた方がいいんじゃないですか?」


瀬良がディスプレイに目を向けながら指摘すると、田鶴屋も少し画面をスクロールさせて確認する。


「んー、確かに。目立たせたいならもうちょいコントラストつけた方がいいな」


「じゃあ、ここのフォントも変えてみますね」


2人は仕事の話をしながら、画面上のデザインを調整していた。


一方、その様子を少し離れた場所から見ていた美菜は、声をかけるべきかどうか迷っていた。


荷物を肩にかけたまま、立ち止まる。


営業中もずっと瀬良を避けてしまっていた。話す機会がなかったというより、どこか無意識に距離を取ってしまっていたのだ。


(……私、なんか意識しすぎてるよね)


でも、詩音に言われた言葉が今も頭の片隅に残っている。


(瀬良くんにどう説明したら……)


自分から話しかけるべきかとも思うが、気まずさが勝ってしまう。


——そのときだった。


瀬良がこちらに気づき、顔を上げた。


「あ……」


美菜の存在を認識すると、瀬良は軽く眉を上げる。


「ごめん、美菜。俺もうちょっと田鶴屋さんとこれやるから……」


少し申し訳なさそうに言う瀬良。


「だ、大丈夫だよ! 今日は私もう帰るね! お疲れ様です!」


美菜は慌ててそう返すと、田鶴屋にも軽く会釈をして、すぐに店を出ようとした。


——本当は、そんなに急ぐ必要なんてなかった。


でも、今の美菜には、瀬良と二人きりで話す勇気がなかった。


詩音の言葉が頭の中でこだましてしまう。


『瀬良先輩って心が広いんですね』


『こんな写真見せられて傷ついちゃいますよ』


美菜は無意識に足早になりながら、背中に突き刺さるような瀬良の視線を感じていた。


「……瀬良くん、河北さんと喧嘩でもした?」


美菜が店を出た後、田鶴屋がパソコン画面から視線を外さないまま、ぼそっと呟いた。


「……いや、してないと思います……けど?」


瀬良も困惑していた。


今日の美菜は、どこかよそよそしかった。


営業中もほとんど目を合わせなかったし、話しかけてこなかった。


今だって、わざわざ自分を避けるように帰っていった気がする。


(……何かあったのか?それとも俺が何か怒らせるようなことしたのか……?)


考えてみても、美菜が突然あんな態度をとる理由が思いつかない。


「一緒に帰っていいぞ?」


田鶴屋は軽くため息をつくと、パソコンをカタカタと叩きながら、片手で瀬良を追い払うような仕草をする。

それは嫌味な態度ではなく、田鶴屋なりの配慮だった。


「いや、ポップ印刷してラミネートするまでは自分でやりたいんで」


瀬良は気を取り直し、仕事に集中することにした。


——美菜が何か隠しているのは分かる。


でも、今は無理に追及しても仕方ない。


(後で、美菜に電話してみるか……)


そう考えながら、瀬良は再び画面へと視線を戻した。


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