Episode194
「おーす、お疲れさん」
現場の雰囲気に馴染むような軽い口調で、斯波は撮影現場へと足を踏み入れた。
機材の並ぶセットの奥、パイプ椅子に腰掛けていた伊月が紅茶を口にしながら顔を上げる。
「……斯波さん?……お疲れ様です」
斯波の姿を見た伊月は、一瞬驚いたような表情を浮かべた。
そもそも、ここに斯波がいること自体が意外だったのだろう。
さらに、彼の髪型が昨日とは大きく変わっていることに気づき、ほんの少し目を細めた。
「なに、その顔。そんなに変か?」
「いえ、意外だっただけです。よく似合ってますよ」
伊月は微笑みながら言葉を続ける。
「……もしかして、美菜ちゃんですか?」
「おーおー、やっぱり分かっちゃうかー」
斯波が満足げに頷くと、伊月はさらに微笑み、納得したように頷いた。
その顔には「さすが美菜ちゃん」と言わんばかりの信頼と、少しの誇らしさが滲んでいる。
「モデルの件、フラれちったー」
斯波が少し誇張気味に肩を落とすと、伊月はクスッと笑いながら紅茶を一口飲む。
「……ふふっ、でしょうね」
彼は最初からそうなることを分かっていたかのような余裕のある笑みを浮かべた。
美菜の性格をよく知る伊月にとって、彼女が美容師以外の道を選ぶ可能性は低いと最初から確信していたのだろう。
「……ところで、伊月くん、なんか顔色悪くない?」
斯波がじっと彼の顔を見つめると、横でメイクの手直しをしていた笹原が、大げさにため息をついた。
「そーなのよォ!アタシのメイクが無いと撮影止まっちゃうところよォ!」
「そんなにですかね?」
伊月は少し困ったように首を傾げるが、鏡を覗いても特に違和感はなかったようで、あまり気にした様子はない。
「働きすぎなんじゃね?」
「引退して休んでましたよ」
「確かに」
斯波は皮肉めいた笑いを浮かべながら、伊月のスマホを取り出した。
「で、写真の件だけど、もうできてんよ」
「流石です」
伊月は軽く手を伸ばし、スマホを受け取ると、スクロールしながら写真の仕上がりを確認する。
何枚かをじっくりと見つめると、彼の表情がふっと和らいだ。
「……あー……可愛い」
小さく、しかし確かな愛情を滲ませた声が漏れる。
スマホの画面を指先でなぞりながら、美菜の顔をじっと見つめるその目には、言葉では言い表せないほどの感情が宿っていた。
しかし——
斯波と笹原は、その表情にふと異様なものを感じた。
確かに愛おしそうではある。だが、そこにはどこか儚さと、そしてほんのわずかに狂気じみた何かが混ざっていた。
「お前……人としての一線は超えるなよ」
斯波が慎重に言葉を選びながら釘を刺す。
「ふふっ、わかってますよ」
伊月は柔らかく微笑むが、その目はどこか遠く、二人を見ていながら見ていないようだった。
「海星チャンがこんなに可愛がるのも凄いわねぇ」
笹原が少し茶化すように言うと、伊月は少しだけ目を細め、囁くように答えた。
「彼女は特別なんですよ」
——その一言に、斯波と笹原は思わず背筋を正した。
伊月の声は穏やかだったが、その言葉に込められた意味はあまりにも深く、重かった。
さらに、彼の目にはまるで虚無が広がっているようで、今ここにいるはずの斯波や笹原を通り越し、何か別のものを見つめているようにすら思えた。
「……美菜チャン、大変ねぇ……」
笹原が小さく呟く。
「……あー……こりゃ重症だなぁ」
斯波も同じように低く呟いた。
下手に深入りすると、伊月の地雷を踏み抜きかねない。
そんな危うさを感じながら、二人はそれ以上何も言わずに視線を交わした。
「撮影再開しまーす!」
スタッフの声が響くと、伊月はそれまでとは打って変わって、スッと表情を引き締めた。
「……ふふっ、いってくるね、美菜ちゃん」
画面に映る美菜の顔を最後に一瞥し、斯波にスマホを返すと、伊月は瞬時に役になりきった表情へと切り替えた。
先ほどまでの狂気じみた雰囲気は微塵も感じられない。
その完璧な切り替えに、斯波と笹原は改めて彼の底知れぬ怖さを思い知るのだった。
「…………」
「…………」
沈黙が落ちる。
「……なあ、ローズ」
斯波がぼそっと言う。
「……伊月くん、結構ヤバいんじゃね?」
「……今さら気付いたの?」
笹原は乾いた笑みを浮かべ、肩をすくめた。
その場には、言葉にならない空気だけが残った。
***
撮影が始まり、伊月が現場へと向かっていく。
彼の背中を見送る斯波と笹原は、どこか言い知れぬ不安を抱えながらも、言葉を交わさなかった。
「……ふぅ」
笹原が小さく息をつくと、手早くメイク道具を片付けながら斯波のほうへ視線を向ける。
「ねえ、バーシーチャン、海星チャンとそんなに仲良かったっけ?」
「いや、別に仲良くはねえよ。てかその古い呼び方辞めろ」
斯波はスマホを弄りながら、面倒くさそうに答えた。
「ただの顔見知り……ってわけでもなさそうだけどォ?」
「向こうが俺に用事があるだけだろ。ま、それも写真の仕事としてだけどな」
斯波は淡々とした口調でそう言い、スマホをポケットにしまう。
「でも、アンタ、さっき海星チャンに言ったでしょ?『人としての一線は超えるな』って。つまり、そういう危うさを感じてるってことでしょ?」
笹原はじっと斯波を見つめながら問いかける。
「……まあな」
斯波は軽く肩をすくめた。
「でも、別に俺がどうこう言ってどうにかなる問題でもねえよ。あいつが本気で美菜ちゃんをどうにかしようって思ったら、多分誰も止められねえ」
「……あらぁ、アタシと意見が合うなんて珍しいじゃない」
笹原が少し眉をひそめる。
「まあ、俺にとっちゃどうでもいい話だけどな」
斯波はそれ以上深入りする気はない、という態度で話を終わらせようとした。
しかし、笹原はどこか納得のいかない表情で腕を組む。
「でもさ……」
「ん?」
「バーシーチャン、ホントにどうでもいいと思ってる?」
「は?」
斯波は少し不機嫌そうに眉を寄せるが、笹原は気にせず続ける。
「だってェ、もし本当にどうでもいいなら、わざわざ『一線は超えるな』なんて忠告しないでしょ?」
「……」
「つまり、バーシーチャンも心のどこかで『このままだとヤバい』って思ってるわけでしょ?」
笹原の言葉に、斯波は黙り込む。
確かに、伊月の美菜に対する執着は普通ではない。
そして、それをどうこうできるのは、美菜本人か、あるいは——
「……ま、それも美菜ちゃんの問題だけどねェ」
笹原はわざと軽い口調でそう言い、メイク道具を片付け終わると立ち上がった。
「ま、アタシはメイクのお仕事に集中するわ〜」
「勝手にしろ」
斯波もそれ以上は何も言わなかった。
撮影セットのほうをちらりと見る。
照らされたライトの下、完璧に役を演じる伊月の姿があった。
正直また伊月を撮れるという事自体は嬉しいと思う。
斯波にとって一番の刺激材料は勿論伊月だ。
また伊月は沢山の光をこれから浴びていくだろう。
先ほどの狂気じみた雰囲気はまるで幻だったかのように消え去り、そこにはプロの役者としての伊月海星がいる。
——だが、その裏にある本当の顔を知ってしまった今、もう彼を純粋な俳優としては見られない気がしていた。
「……めんどくせえことに巻き込まれたかもな」
斯波はそうぼやくと、ポケットから煙草を取り出し、ため息混じりに火をつけた。




