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Episode193



サロンに戻った美菜は、すぐにシザーケースをつけ気合いを入れ直す。


「瀬良くん、ありがとね」


何気なく礼を言うと、瀬良は少し目を細めた。


「おう」


それだけ言って、何事もなかったように瀬良は瀬良で手元の作業を続ける。

美菜もそれ以上深くは言わず、気持ちを切り替えて接客に入った。


セット面に向かい、ふと口を開く。


「お待たせいたしました……って、あれ?」


そこに座っていたのは、見たことのある顔。

いや、昨日見たばかりの顔——斯波英介だった。


「……ごめんねぇ、なんか休憩中に来ちゃったみたいで」


斯波は申し訳なさそうに笑いながら言う。


「いえ!とんでもないです!昨日はお世話になりました!」


美菜が慌てて頭を下げると、斯波は「はいこれ」と言いながらセット面に置かれていた紙袋を手に取って差し出した。


「これ、みんなで良かったら食べて」


「ええ、お気遣いありがとうございます……せっかくなので、みんなでいただきますね!」


美菜は近くにいたアシスタントに紙袋を渡し、軽く一礼する。

そして視線を戻しながら、斯波の髪に軽く触れた。


「えーっと、カットですよね?どんな感じが良いとかありますか?」


「……いや、そろそろ切ろうかなーくらいに考えてただけだから、任せるよ」


「承知いたしました。ちなみに、これってパーマ……ですか?」


「いや、地毛」


美菜は斯波の髪をまじまじと見つめる。

パーマを当てたみたいにふわふわとした髪質で、男性にしては長めの髪。

昨日の様子からして、仕事中は縛っているのだろう。


「縛れる長さは残しますか?」


「……あー、いや、バッサリいきたいから……というか、最後に切ったのが1年前くらいで、ここまでそれが伸びたって感じ。だから刈り上げてもいいから、また1年くらいもつ感じで」


「……ふふっ、承知いたしました。では、シャンプーから始めますね」


美菜は斯波をシャンプー台へ案内し、ゆっくりと椅子を倒して寝かせる。


「お湯の温度、熱くないですか?」


「……ああ」


斯波は軽く頷くが、その口元がわずかに開いている。

美菜はそれを見て、心の中でくすっと笑う。


(お湯をかけたり、シャンプーをすると口が少し開いてるの、結構可愛く思えて好きなんだよね……)


そんなことを考えながら、手元のシャンプーを泡立て、指の腹を使って丁寧に洗い始める。


「力加減、大丈夫ですか?」


「…………カッ!」


(……もう寝落ちしてる……)


微かに聞こえた喉の音に、美菜は小さく吹き出しそうになる。

この仕事をしていると、シャンプー中に寝落ちするお客さんは珍しくない。

だが、斯波のように一瞬で意識を手放すのは、なかなかレアケースだった。


(昨日、疲れてたのかな)


美菜はそう思いながら、それ以上話しかけるのをやめた。

その代わり、シャンプーをより丁寧に、ゆっくりと指を滑らせる。

昨日お世話になったお礼も兼ねて、普段より少し長めに頭皮のマッサージをすることにした。


親指でこめかみを押し、ゆっくりと円を描くように動かすと、斯波は小さく鼻を鳴らした。


(……気持ちよさそう)


シャンプー台の水音と、微かな寝息。

仕事中とは思えないほど穏やかな空気が漂う。


美菜は少しだけ、そんな静かな時間を楽しみながら、引き続き指を滑らせた。



***



「……あー……、寝てた?よな?」


シャンプー台のリクライニングがゆっくりと起き上がると、斯波はまだ少しぼんやりとした表情で呟いた。

瞼が重そうで、寝起き特有の声のトーンが落ち着いた響きを帯びている。


「はい、お疲れのようでしたので、お声掛けはしませんでした」


美菜はくすっと笑いながら答え、斯波の髪に付いた水分をタオルで丁寧に拭き取る。

斯波は軽く伸びをしながら、どこか気だるげな様子で首を回した。


「……いやぁ、なんかめちゃくちゃ気持ちよくてさ。気づいたら落ちてたわ」


「ふふっ、よかったです」


美菜は微笑みながら、斯波をセット面へと案内する。

クロスをしっかりと掛け、手早くカットの準備を整えた。


「……昨日の写真、美菜ちゃんと伊月くんのを1番に仕上げておいたから」


そう言いながら、斯波はポケットからスマホを取り出し、画面を操作する。

データフォルダを開き、指で何枚かスライドさせると、美菜の目の前に差し出した。


「わぁ……!すごい!ありがとうございます!」


美菜はカットしながら、ちらりと画面に目を向ける。

そこに映っていたのは、自分と伊月の姿。

プロのカメラマンが撮ったとすぐに分かる、完成度の高い写真ばかりだった。

光の加減や構図が絶妙で、美菜でも分かるほどの見事な仕上がりになっている。


「モデルの件、考えてくれた?」


斯波はさりげなく話を振る。

美菜は少しだけ間を置いた後、申し訳なさそうに言葉を紡いだ。


「……申し訳ないのですが、やっぱり私は美容師として仕事をしている方が楽しいです」


「……今日ここに来て、そんな気がしたよ」


斯波は鏡越しに美菜の姿を見つめる。

先ほどのシャンプー、マッサージ、そして今のカット。

美菜の指先から伝わる丁寧な技術に、彼は確信したようだった。


「夢がブレない人ほど輝けるからね」


「素敵な言葉ですね」


美菜は柔らかく微笑みながら、ハサミをリズムよく動かしていく。

カットの進み具合を確認しながら、会話を続けた。


「そーいや、今日伊月くんと笹原さんがこの近くで仕事してるらしいけど」


「えーっと、さっき会いましたよー」


美菜が何気なく答えると、斯波の口元がにやりと持ち上がった。


「……ほーん」


どこか含みのあるその反応に、美菜はすぐに察する。

このままでは変な勘違いをされるかもしれない。

そう思った美菜は、先に釘を刺しておくことにした。


「……あの、私彼氏いますからね。そこに!」


そう言って、美菜は視線を受付の方へ向け、指をさした。

そこには、パソコン業務をしている瀬良の姿があった。

ちょうど視線を感じたのか、瀬良は顔を上げ、美菜と斯波の視線に気づく。

そして、ほんのわずかに頷き、ぺこりと一礼すると、また静かに作業へ戻った。


「………ッ!!!!」


次の瞬間、斯波は勢いよく立ち上がりかける。


「いや!斯波さん!カット中に勝手に立たないでください!」


美菜が慌てて肩を押さえ、座らせる。


「あ、ああ……ごめんごめん」


斯波はバツが悪そうにしながらも、瀬良を見つめたまま目を輝かせていた。

まるで新たな逸材を発見したかのような表情を浮かべている。


(……また何か考えてるな、この人)


美菜は少し警戒しつつも、クロスを整え直し、再びカットに集中することにした。


「……てかここのサロン、なんか顔面偏差値高くない?」


「そうですか?……いや、まあそうですよね」


言われてみれば、確かにと思う。

瀬良に木嶋に田鶴屋——それぞれ異なるタイプのかっこよさがあり、誰が見ても整った容姿をしている。


「いや、美菜ちゃんもだよ」


斯波はさらっと言った。


「あはは……私はそんなことないですから」


「褒められたらまずは“ありがとうございます”だ。俺が褒めてるんだぜ?」


どこか自分の目利きには自信があるといった口調で言われ、美菜は照れ臭そうに微笑む。


カットもほとんど終わり、美菜は仕上がりを確認するために鏡を斯波に向けた。


「こんな感じでどうですか?」


「おお、いいね。最高」


「ふふっ、ありがとうございます!」


満足そうな斯波の表情を見て、美菜も嬉しくなる。

切った髪の毛を流すために、もう一度シャンプー台へ案内し、手際よく流していく。


「……美菜ちゃんって、結構面食いだよね」


「んん……まあ、瀬良くんの顔がいいので、そこはなんとも言えないですけど……」


「ははは!素直でよろしい!」


斯波は大きく笑い、すっかりリラックスした様子だ。

美菜も軽く笑いながら、シャワーを持ち直し、残った泡をしっかりと洗い流す。


「伊月くんも、こりゃ大変だねぇ」


「……あ、ごめんなさい、何か言いました?」


ちょうどシャワーの水音で、後半の言葉が聞こえなかった美菜は、何気なく聞き返した。


「……いや、何もねーよ」


斯波は少しだけなんとも言えない表情をして、美菜の手を払いながらセット面へと戻っていく。

少しだけ含みのある口調が気になったものの、美菜はそれ以上は追及しなかった。


「じゃあ、最後にスタイリングしますね」


美菜がそう言いながらドライヤーを手に取ると、斯波は鏡越しに彼女の手元をじっと見つめた。

温風が当たる心地よさに目を細めながら、彼は何気なく口を開く。


「……にしても、瀬良くんかぁ……」


「……なんですか?」


「いや、あの雰囲気はいいなって思ってさ」


「雰囲気?」


美菜が首を傾げると、斯波は少し考えながら言葉を続けた。


「……無駄がないっていうか、静かだけど存在感がある感じ?」


「あー……まぁ、確かにそういうところはありますね」


「うん。あのタイプは、写真にするとすごく映える」


斯波は腕を組みながら、まるで新たなモデル候補を見つけたかのように納得したように頷く。


「……瀬良くんはやらないですよ、絶対に」


美菜は苦笑しながら言う。


「まあ、そうだろうなぁ。でも、惜しいなぁ……」


斯波は未練がましく呟きながら、美菜の手元を見つめ続ける。

乾かし終えた髪をサッと手ぐしで整え、最後のスタイリングを仕上げると、美菜は再び鏡を傾けた。


「これで完成です。いかがでしょう?」


斯波はしばらく鏡を見つめ、指先で軽く髪を触る。


「……いいね、最高だ」


「ありがとうございます」


美菜はにっこりと微笑みながら、手際よくクロスを外し、細かい髪を払い落とした。


「……それにしても、瀬良くんかぁ……」


「さっきからそればっかり言ってますけど?」


「いやぁ、なんかねぇ……うん、やっぱりいいなぁって」


斯波は妙に納得したように頷きながら、会計へと向かう。

美菜は彼の後ろをついていきながら、ちらりと受付を見ると、瀬良が変わらずパソコン業務に集中しているのが見えた。


「瀬良くん、たぶん絶対やらないので、変なこと考えないでくださいね?」


「へいへい、分かってるよ」


斯波はひらひらと手を振りながら、会計を済ませる。


「じゃあ、また1年後にサロンには来るわ。次もよろしくな」


「1年と言わずいつでもお待ちしてます!」


美菜が明るく答えると、斯波は最後にもう一度瀬良の方を見て、ニヤリと笑った。

そして、何かを考えているような表情を浮かべたまま、サロンを後にした。


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